「通史の風景」カテゴリーアーカイブ

プロテスタントと中世

このところ諸々のターニングポイントを16世紀に見るという論考を多少とも続けざまに読んでいる気がするのだけれど(笑)、言うまでもなく歴史を断絶の相で見るか連続の相で見るかというのは実に難しい問題で、それぞれの議論は慎重に接しなくてはならない要件だということを改めてかみしめてもいる。転換を主張する論考の後は、多少ともその立場を相対化するような論考も見たい。で、そんな中、ドイツの宗教改革と中世の思想との関連について言及したものが目についたので、早速見てみる。クリストファー・オッカー「ドイツの宗教改革と中世思想および文化」(Christopher Ocker, The German Reformation and Medieval Thought and Culture, History Compass, Vol.10-1, 2012)。前半は史的なレビュー、後半は宗教改革をめぐる学説史的なアプローチでもって、宗教改革がアンチ中世だという一種の神話がどう形成されていったかを振り返っている。個人的に注目するのはやはり前半。16世紀の半ばすぎから、ドイツのプロテスタント運動の関係者の間で中世後期への関心が高まるという。その代表的人物として取り上げられているのは、マティアス・フラキウス・イリリクス(1520-1575)。神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント勢力が争ったシュマルカルデン戦争後に発表した著作で、フラキウスは12世紀以降の様々な神学者たちの著書を精査しまとめ上げているという。トマス、スコトゥス、オッカム、ジャン・ジェルソンなどはもちろん、よりマイナーなゲントのヘンリクス、ジャン・ド・ジャンダン、ヨハネス・ミュンツィンガー(?)、レミニのグレゴリウスなどなど、様々な人物を取り上げているらしい。ジェルソンなどについては、これを大いに称賛しているのだとか。いずれにせよ、それがプロテスタントのアイデンティティの形成に一役買っているというのだ。

そこにはむろん、政治的な動きが加わっている。シュマルカルデン戦争の後、プロテスタント陣営はカトリック側との妥協か断絶かで二分される。メランヒトン率いるリベラル派はカトリックとの妥協を推進する立場で、ザクセンの選帝侯アウグストの庇護下にあった。一方フラキウスに代表されるルター派は反カトリックの強硬派で、ザクセンのフリードリヒ2世に仕えていた。政争では前者が優勢となるも、1570年代になるとアウグストは複雑な経緯を経てメランヒトン派を見捨て、ルター派の教義を採用する。こうしてルター派はドイツ全土に拡がり、フラキウスの立場も「主流」に押し上げられる。つまりそれは、ルター派とカトリックの教義は相容れないが、両者とも中世の過去を共有しているという立場だ。この一種の逆説的な立場は、神聖ローマ帝国の置かれた立場(諸国の乱立こそが、帝国の安定性に貢献する)とも奇妙に合致しているのだという。

後半では、宗教改革が中世との文化的断絶の上に立っている、あるいは宗教改革が中世と近代との文化的断絶をもたらしたという考え方は、19世紀になって出てきたものにすぎないという話が史学史という形で展開されている。さらに20世紀を通じて、そうした考え方が打ち破られたとも語っている。フラキウスは、宗教改革は14世紀や15世紀の宗教上の諸問題に密接に関係していると考えていたというが、その意味では現在の歴史家も、19世紀よりは16世紀の学者たちに親和的な立場に立っているという。うーん、個人的に全然詳しくないからだけれど、16世紀の実像というのも改めて興味をそそらずにはいない……。

↓wikipedia(en)より、マティアス・フラキウスの肖像。

教会シスマとパリ大学

シスマ関連のこれまた興味深い論考。エリック・D・ゴッダード「パリの学者たちによる教皇の聖職叙任制度への反旗という神話」(Eric D. Goddard, The Myth of Parisian Scholars’ Opposition to the System of Papal Provision (1378–1418) in History of Universities, Vol.24, Oxford Univsersity Press, 2009)。かなり前に読んだエメ=ジョルジュ・マルティモール『ガリカニズム』(朝倉剛・羽賀賢二訳、白水社、文庫クセジュ)などには、14世紀末からの教会シスマの解決策として「退位の道」(アヴィニョン教皇への服従を拒否して、教皇を退位に追い込むというもの)を提唱したのがパリ大学で、やがてベネディクトス13世の攻撃の急先鋒という役割を担うようになる、という話が出ていたのだけれど、そのあたりのパリ大学の立ち位置にいくばくかの修正を加えようというのがこの論考(らしい)。従来、パリ大学側がとりわけ全体的な問題としていたとされるのは、教皇による聖職叙任権だったということなのだけれど、実情はそうでもなかったのではないかという主旨での話が展開する。論拠となる主な史料は、パリ大学で開催された聖職者会議の声明文と、パリ大学の学者たちが教皇から取り付けた嘆願の数々。これらをもとに、紆余曲折のあった服従拒否案件の行方、そうした退位論をめぐる大学関係者内部での分裂状況、教皇側の対応などを取り上げていく。ピエール・ダイイ(唯名論者としても知られるけれど、占星術師だったりもする)、ニコラ・クラマンジュ、ジャン・ジェルソンなども1394年以前は退位論者だったものの、ベネディクト13世からの叙任を受けて王権側を批判するようになるのだとか。大学からは教会側と結託しているとしてつるし上げられたらしい(そういう表現ではないけれど(笑))。

とくに詳しく取り上げられているのはまず第2回の聖職者会議(1396年)。前者は大学側が全体として教皇の叙任権に批判的な立場であることを明確にしたとされるというけれど、論考ではそれとてどうも一枚岩ではなかったことが示されている。王政の側もすぐにどうこうということはなかったらしいし、学者の側もあまり過激な提案はしていないという。ところが1398年の第3回会議になると、いくつかの要因が重なって(税務についての教皇側の態度の変化、外交的側面など)、教皇への服従拒否論、教皇の叙任権への反対論が拡大していく。もっとも、やはり一枚岩ではなく、そうした反対論はパリの学者たちというよりもフランス各地の高位聖職者の間で強固に唱えられていたらしい。さらにこの後、大学側の教皇への敵意に乗じて王政側が聖職禄の管理を強化しようとする。1403年にはパリ大学の学者たちの多くが服従の回復を支持し、教皇側も大学側の嘆願を利用したりして学者たちの支持を取り付ける。ところが教皇は公会議開催の約束を守るそぶりをついぞ見せず、1404年にはジャン・ジェルソンが一転して批判側に回ったり……。いや〜、月並みな言い方だけれどこのあたり、三者三様のまさに政治的駆け引きで、財政的な思惑とかいろいろ絡んでなんともスリリングな感じだ。こういう論文は読んでいて飽きない(笑)。

↓wikipedia(en)から、ピエール・ダイイの肖像。

1250年以前の心身二元論

ヴェベール『13世紀における人格』から。第一部は13世紀の魂論についてまとめられている。中世において「人間学」が流行るのは13世紀の半ばごろなのだといい、ちょうど1250年あたりを境に(と言うと語気が強すぎるけれど)微妙に議論の中心が変わっていくのだという。要は、それ以前(つまりは12世紀)なら心身二元論が広くかつはっきりと支持されているのに、それ以後になると形相は単一か複数かといった問題が前面に出てくるというわけだ。で、第一部の前半では、まずその1250年以前の心身二元論をクローズアップしている。その典型例として、著者ヴェベールは最初にヘイルズのアレクサンダーを取り上げている。アレクサンダーが典型的なのは、魂と身体とをそれぞれ端的に別種の実体として規定しているから。この立場はもとはアウグスティヌスにまで遡れるわけなのだけれど、アレクサンダーも引用し中世において頻繁に参照されているのは、偽アウグスティヌス文書の『聖霊と魂について(De spiritu et anima)』なのだという。これはかなり厳密に心身二元論を展開したテキストのようなのだけれど、実際のところアウグスティヌスは、初期には心身二元論的な考え方だったものの、思想的な成熟期にあっては魂と身体の結びつきに力点を置いた一元論的な見解を示していたという。そのはるか後世(12世紀)においても、たとえばサン=ヴィクトルのリシャールなどが、そうした一元論的な心身の結びつきを強調したりしているというが、とはいうもののそうした成熟期のアウグスティヌス思想はどうやら受け継がれず、ひたすら二元論的議論ばかりが、ほかの新プラトン主義的伝統(マクロビウス、マメルトゥス・クラウディアヌス、カッシオドルスなどなど)でもって強化され、一般的に流布することになった……。著者は各派(サン=ヴィクトル派、シトー会系、シャルトルの一派、パリの諸派など)の代表的な論者とその見解を総覧的に列挙しているほか、ミクロコスモスとしての人間観についてもそれぞれの見識をまとめている(詳細は煩雑になるので割愛)。

↓Wikipedia(en)より、アヴェロエス『霊魂論大注解』のマイケル・スコット訳(13世紀後半、B.N.F. lat. 16151, fol. 22 http://classes.bnf.fr/idrisi/grand/5_01.htm

アルフォンソ10世と占星術

ブーデ『科学と魔術の間』は3章・4章。話は占いから12・13世紀の魔術のほうへと向かっていく。12世紀初頭、マルボデゥスの詩『宝石博覧記』(Lapidaires)が石の神秘的力を説き、また同時期のコンスタンティヌス・アフリカヌス訳のコスタ・ベン・ルカ『結びつきの自然学について』(De physicis ligaturus)が医術での魔術の利用(ほとんどプラシーボ効果の先駆のようなものだというが)を説いていたころには、まだ魔術的な作用の説明はほとんどなされていなかったという。それが学問的世界で漸進的に理論化されていく。かくして13世紀にはオーベルニュのギヨームが初めて「自然魔術」という概念を導入する。それと同時期、カスティーリャのアルフォンソ10世は『ピカトリクス』の翻訳を支援し、また同じく支援した翻訳ものの『ラジエルの書』ではユダヤ教の魔術が紹介されたりする。で、アルフォンソ10世はそうしたオカルト学のプロモーターとして一躍その名を轟かせる……。

ヘルメス主義的魔術(占星術がらみ)とソロモン流魔術(いわゆる黒魔術系)の区別とか、いろいろ興味深い話も紹介されているけれど、そのあたりをいったん置いておくと(苦笑)、13世紀の特徴となっているのはやはり、占星術や魔術の裾野が聖職者階級から世俗のほうへと広がったことだとされる。とくに君主や宮廷の中にそういった動き、たとえば占星術の政治利用などが見受けられるようになっていく。フリードリヒ2世などだけれど、その最たる存在はやはりアルフォンソ10世だったというわけで、同書の3章4章では同カスティーリャ王が繰り返し言及されている。

で、これに関連して、アレクサンドラ・ワレコ「アルフォンソ10世、占星術、および王権」(Alexandra Waleko, Ssegunt natura de los cielos e de las otras cosas spirituales: Alfonso X, Astrology, and Kingship, Haverford College, Senior Thesis Seminar, April 2011)という論文を眺めてみた。これによると、アルフォンソの収集・編纂した文献の多くは占星術関連書が占めているものの、従来のアルフォンス研究ではそのあたりのことが意外に考慮されていないという。アルフォンスの占星術への傾倒は個人的なものというよりは政治的なもので、星辰に神のメッセージを読み取るという占星術の基本的な世界観を援用し、みずからの権威・権力を正当化しようという意図があった……そのことを、当時の政治状況やら占星術の学的・社会的受容をもとに、アルフォンソが関わった書(七部法典、十字の書、八つの希望の書)の細かな分析を通して浮かび上がらせようというのが論考の主旨。若干結論が先走っている感じもしなくはないけれど、社会との関連で占星術を捉えようという点がブーデ本と呼応しあう。

↓wikipedia(en)より、『七部法典(Siete Patridas)』の細密画。中央がアルフォンソ10世。

14・15世紀の占星術史概観

再びジャン=パトリス・ブーデ『科学と魔術の間』から。第2章は占星術以外のいわゆる占い・予言についての概観。主に取り上げられているのは、まずは12世紀のソールズベリーのジョン『ポリクラティクス』。これに各種の占いの分類が示されているのだけれど、そのもとになっているのはやはりセビリャのイシドルス。とはいえそれにはなくて、『ポリクラティクス』にある新分類の占いとして、夢占い、手相、鏡占いなどがある。このうちの手相についてはギリシア語文献などもなく、起源がわかっていないそうで、西欧で最も古いのはバースのアデラードに帰されている『小手相術(Chromantia parva)』という書だという。いずれにしても、アラビア経由で入ってきた占い(土占い、へら占い、夢判断、人相占いなど)はどれも占星術に依存する関係にあるという指摘が興味深い。この章ではとくに土占いの中身が紹介されているけれど、土の上に描かれた「テーマ」の解読法は、占星術の解読法に類似している……。

ここから個人的興味に即して、いきなり第6章に飛ぶ(笑)。そちらは14・15世紀の占星術の「社会的」分析となっている。14世紀以降、占星術は天文学の発展にともないさらなる展開を見せる。特に惑星の位置に関して、13世紀のアルフォンソ天文表(チャート)はトレド天文表と拮抗する形で欧州各地に広まる。で、時期を同じくして天文学・占星術はイタリアを中心に大学の教育に組み込まれるようになる。ここでも重要なテキストとなるのはアルカビティウスの『占星術入門書(Liber introductorius)』だ。チェッコ・ダスコリ、ザクセンのヨハネス、ルイ・ド・ラングルなどが注解書を記している……。イタリアが最も盛んだというのが面白いところ。理由はどのあたりにあったのかしら……?

次に取り上げられるのは占星術師たちの社会動向。15世紀末にシモン・ド・ファールという占星術師が著した『著名占星術師文選(Recueil des plus celebres astrologues)』を紹介している。この書は、占い師が糾弾される歴史的局面にあってその擁護のために書かれたものだという。取り上げられている占星術師たちにおいて顕著なのは、「個人占星術(astrologie judiciaire)」(社会とかの大枠を占うのではなく、個人のいわゆる星占いだ)の術師たちが増加していること。そうした術師たちの多くは、聖職に就こうとしてなんらかの理由で就けなかった人々だという。医者と兼業している人々も多く含まれているものの、多くは凡庸な医者ということらしい。アーバノのピエトロなどの見解とはうらはらに、医療と占星術は実践レベルでは必ずしも結びついていたとはいえないようだという。うーむ、なるほど。やはり複雑な計算を要するホロスコープ占星術はエリートのもの、しかも主に中間層的な(?)エリートに担われていたということのようで、確かに社会的に広範に拡がりはしても(とくにイタリアなどで)、実際のところより手軽に巷でもてはやされていたのは、むしろ初期中世に流布していた月の運行ベースの占星術だったりするのだとか(とくにイングランドで)……。

↓上のLiber introductorius(Google Booksのデジタル版)の1ページ