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不確定なものの「想定」

今回の原発事故についてよく聞かれる「想定外」という表現。以前は「想定の範囲内」なんて言葉が流行ったりもしたけれど、なにやら想定という言葉は、いつしか「有無」ではなく「範囲」を伴って使われるようになってしまっている……。ある特定の事象に思い至るかどうか、というスポット的なものではなくなり、ある特定の事象が思い至るエリア・面に入っているかどうかという、網をかけるような発想。この違いは大きい。前者の場合、その特定の事象に「思い至らなかった」、想定は「なかった」という「欠如・不在」のイメージが前面に出るのに対して、後者の場合、「一応いろいろ考えてはいたんだけれど、特定事象がそれから漏れてしまった」というニュアンスで、想定の「存在」の面が強調される。当該事象が思惟のうちに存在しなかったこと自体は同じでも、表現としてそれを取り巻く思惟に範囲を含ませることで、思惟の欠如が存在にすり替わってしまう。ここにすでに、その事象を問題として取り上げる姿勢の不誠実さがにじんでいるようにも見える。

もちろん、非常事態についてのいろいろな想定はあっただろう。けれどもそれを面のようなイメージで語るのは言葉の綾であって、こうした事故などの想定はやはりもっとスポット的・ピンポイント的なものでしかないように思える。個別の事象に思い至り、それに対応する対策を逐一構築するというのが基本であり、ある事象の想定と別の事象の想定が有機的に連動・連関しうるとは必ずしもいえない。結局、事故などの不確定なリスクについては、想定が及ぶ事象というのはもとよりきわめて限定的なものにしかならない。事故の可能性は無限にあるはずで、すべてを記述することは不可能であり、蓋然性の高いものを中心にどこかで絞り込むしかない。けれどもこのような絞り込みを伴う以上、「不確定要素を想定する」という行為自体は無数の取りこぼしを伴わざるをえない。しかしながら現実には、蓋然性の低いとされる事態も起こりえないわけではなく、そうした場合に既存の想定が応用できないことも十分ありうる。想定していたもので実効的な応用が利くとは限らないからだ。

このあたり、きわめて構造的な問題なのだが、なんだかかつていろいろ言われていた知識ベースのエキスパートシステムの話と重なってくるかのようだ。溝口理一郎「工学のオントロジー」(『環境のオントロジー』(春秋社、2008)によると、エキスパートシステムは「あまりにも直接的に解くべき問題を意識しすぎたため、他の問題を解くために、既に存在する知識ベースの一部を再利用するということが非常に困難」(p.69)だったとされる。その原因は知識ベースにおける「開発者が仮定している暗黙の前提の存在と、限られた世界の特定の問題の解決用に特化されているという二つ」(p.70)だという。知識工学はその後、「共有可能な知識ベース」「広範囲にわたる標準化された知識を多くの人の利用に供する知識ベース」(同)へと向かったという。こうして「対象世界自体の概念構造をモデル化するオントロジー」(同)が目されるようになった、と。

オントロジー(存在論)という名称がすでにして示唆的だが、要するにこれは一種の全体的なモデル化のイメージ。クラスをなんらかの形で表し(諸属性を定義づける)、インスタンスを生成して(現勢態を作る)、アクセスする(利用する)という、工学システムの設計などでソフトウエア的に使われる手法だけれど、おそらくは事故などの非常時の対応についても、エキスパートシステムからオントロジーにシフトしたのと同じような転換が求められるのではないか、という気がする。リスク対処法の抜本的な転換だ。イメージとしては、機械の場合には設計から組み上げ、運用・メンテナンスの諸段階があるわけだけれど、それらのすべてに一貫したリスク管理体制を組み込み、あるいは機械そのものにとどまらない、運用する側の組織までをもシステムの一部と見なしてリスク管理体制を構築するといったようなことが必要なのではないか、と。一例で言うならば、原発のようなリスクの高いものに事故が起きた場合に、通常運転時のスタッフとは別の、専門の訓練を積んだリスク管理部署が入れ替わって、機材その他を含めて現場を仕切るような体制を、本気で考えていく必要があるかもしれない。

こんなときだからこそステップバックを

これを読むことは、ある意味とてもタイムリーだと思われる。中世思想の研究者、八木雄二氏による、文字通り「試み」としての哲学的「エッセイ」、『生態系存在論の構築』(知泉書館、2004)。三部作のうちの「中編」にあたるもの。現代社会の科学技術への依存・過信の大元は、突き詰めるとアリストテレス的な原因の理解に行き着く、と著者は言う。物事の存在を、アリストテレスは機能主義的なものの見方で捉えようとし、それが西欧の科学技術を開く端緒になってたという議論は以前からある(割と新しい例ではシモンドンなど)。実際のところ、物事(対象)を原因にまで分解して組み直すということは、つまりはその対象を理解し制御することにつながるわけだ。けれども、今回の原発事故が示すように、それは必ずしも十全たる制御を約束しない。それはなぜか。そこには人間という種の限界についての考察が欠如しているからではないか。的確な認識が得られていないからではないか……。著者はかくして、アリストテレス流とは別の「存在理解」が必要だと説く。それはつまり、「ある」をそのまま肯定的に受け取るという理解、パルメニデスの存在論だ。

パルメニデスの存在論を、著者は現代の知見を絡めて練り直そうというのだ。なんとも意表をつくステップバックだ。しかも意外さはそこにとどまらない。パルメニデスの断章は詩的で難解なものだが、著者はそこで語られる「ある」がままの存在を、人間を根本的に成立させているもの、すなわち生命という事象、生態系をなす生命環境の総体に重ねてみせる。こうして同書では、パルメニデスと生態学というこの一見唐突な組み合わせが、ある種の強度をもって語られていく。「競争原理は種の進化を説明しない」「人間は複雑化した生態系の整理のためにもたらされた種ではないか」「植物こそが種の王座にあるのではないか」「生命研究には目的因の視点がいまだに有効ではないか」などなど(以上は原文の通りではないけれど)、刺激的な放言の数々が、雄弁かつ理知的に繰り出されていく。空論ではないかとか、教条的なエコロジーの議論ではないのかといった反応もあるかもしれないが、ここにはそれを押して余りある知的なしなやかさ、思索の糸口があるように思う。もちろん、活かすも殺すも読む側次第。原発事故がつきつけているのは、単に経済とか生活様式とかの問題ではないかもしれないことを、この際だから真摯に考え直したい。