数値と個別経験

(初出:bib.deltographos.com 2023/10/17)

少し前ですが、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくま新書、2023)を読んでみました。数値化がある種の「猛威」を振るい、猫も杓子も客観的なエビデンスを求める今の時代に、そこからこぼれ落ちてしまう個人の経験というものをすくい上げようとする、フィールド哲学(現象学)の可能性を論じています。これは立ち位置が素晴らしいですね。

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数値化はすなわち序列化です。そして序列化した世界に位置づけられる個人は、その位置づけの責任をすべて引き受けなくてはならず、いきおい、「社会規範に従順になることこそ合理的」(p.41)とされるようになってしまいます。新自由主義って、まさにこういう世界観です。

それと対極をなす構え方として、著者は、個別の経験の「概念」を共通の理念として捉えるという、現象学にもとづく方法論的な「普遍」を称揚します。これって、人が他者に開かれるというベクトルですね。共感の世界観に立脚するというか。すると、序列化をめぐって競い合う人間ではない、相互にケアしあう人間、ケアの一般化が導かれることになるのでは、というわけです。どちらが豊かかは言うまでもありません。

少し前に、東京新聞で、哲学者の鷲田清一が、「それってあなたの主観ですよね」という、今や小学生すら使う論法の、視野の狭さ、議論としての貧しさを指摘していましたが、そのことも同じ問題圏をなしていると思われますね。客観ばかりを振りかざして主観的な認識を排除しようとすれば、主観的だからこその新しい着眼点、未知なる論点などに気づくこともなくなり、互いに考え合うという議論の本筋も失ってしまう、というわけです。客観的なデータはときに必須でもあるけれど、主観的な解釈がもたらすものも、それに勝るとも劣らないということを、もう一度かみしめたいと思います。

 

増殖する廃墟たち

(初出:bib.deltographos.com 2023/10/15)

kindle unlimitedで、『幽幻廃墟』(星野藍、三才ブックス、2018)という写真集が出ていました。これはいいですね。旧ソ連の未承認国家などを中心に、廃墟と化した様々な建造物をめぐっていくというものです。

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以前、『スポメニック』(旧ユーゴの巨大建造物)というガイド本を取り上げたことがありますが、こういう廃墟写真は、変な言い方ですけれど、一見すると何やらひっそりとしたたたずまいに、どこか心癒やされそうな印象を醸してくれます。人がいなくなったあとも続く、悠久の時間の端緒に触れる思いがするからでしょうか。でも、そうとばかりも言っていられない、複雑な感情も次第に呼び覚まされます。

この『幽幻廃墟』では、まさに紛争の地の残骸が数多く取り上げられています。ウクライナもそうですが、アゼルバイジャン内のアルメニア系住民の飛び地、ナゴルノ・カラバフもそうです。この後者では、つい数週間前、アルメニア系住民が大量に国外脱出を果たし、新たな廃墟が「増殖」してしまったばかりです。

「増殖」という言い方は適切ではないかもしれませんが、廃墟の静けさやそのたたずまいには、戦と破壊の記憶が刻み込まれているわけで、そのことが内的に広がってくるような、そんな焦燥感のような、名状しがたい感覚を覚えます。

今また、パレスチナとイスラエルの戦争が始まっています。廃墟は「増殖」することをやめないようです。まるで、いつか地上全体がそうした廃墟に覆われてしまうまで、それは続いていくかのようです。

 

究極の風刺談

(初出:bib.deltographos.com 2023/09/30)

前に言及した星野太『食客論』に触発されて、ルキアノスの『食客について——食客術は技法であること』を読んでみました。これ、なかなか見事な風刺的「技術論」でした。Loebのルキアノスのシリーズの第3巻です。

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シモンとトゥキアデスの対話編で、シモンが主に語り役となって、食客術こそがこの上ない生活の技法なのだと論じて見せます。まずそれは、なんらかの目的達成のためにともに用いられる知恵の複合体という意味で技法をなしているといい(飲食を獲得するための言動を言うのですね)、それが諸家において分裂しておらず、一様の技法であるがゆえに、哲学をも、あるいは弁論術をも凌駕する、至高の技法なのだと論じています。

逆に言えば、つまりありきたりの哲学や弁論術は、そのような一意の、一様の技法になりえていない、と皮肉っているわけですね。そんな分化したものは、究極の技法ではありえないでしょ、というわけです。

この皮肉な風刺には、今日にも通じる論点もちりばめられています。たとえば高齢化で問題になるアンガー・コントロール。ミシェル・セールが、年老いたら一番重要なのはアンガー・コントロールであるみたいなことを言っていましたが、ルキアノスのこのテキストでは、食客術が、苦悩や怒り、嫉妬、様々な欲などとは縁遠いものであり、この技をもってすれば、そうした負の感情から自由でいられる、と称揚します。

もちろんこれは、風刺的に描いた理想ではあるわけですが、快楽をただひたすらに享受するために練り上げられるという機知に満ちた技法が、負の感情を遠ざけるペインキラーであるというのは、なにやら皮肉でいたずらっぽい文言ではあるものの、どこか豊かな示唆を感じずにはいません。

 

ローラン・ビネ賛

(初出:bib.deltographos.com 2024/08/29)

『言語の七番目の機能』もよかったが……

2年半ほど前に、話題になっていたローラン・ビネの『言語の七番目の機能』(高橋啓訳、東京創元社、2020)を読みました。ロラン・バルトの事故死を、「事故ではない」としたところから、フランス現代思想(80年代ごろまで)の要人たちを登場人物にした、壮大なホラ話というかパスティーシュというかが展開するという、あっと驚く作品でした。これは圧巻でしたね。

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そのときに、作者のビネのほかの作品として紹介されていたのが、『HHhH』でした。そのうち読もうと思って、アマゾンのリストに入れておいたのですが、ずっと後回しになっていました。で、今年の春ごろ、この作品が文庫化されたことを知りました。電子本で読むので、文庫とかになったところでレイアウトは変わりませんが、価格が手頃になったのはとてもありがたいことです。で、ようやく読むことができました。

『HHhH』!

こちらはパスティーシュではありません。歴史小説です……ですが、凡百のものとは圧倒的に違っていました。邦訳が出たのは2014年ですので、いまさら言うのもナンですが、普通の歴史小説よりもはるかに面白い作品になっています。

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扱われている歴史的事象は、ナチスのゲシュタポの長官だったハイドリヒが、イギリスに亡命していたチェコの軍人らによって、1942年に襲撃・暗殺された事件。この作品の語り手は、かなり積極的に「語りそのもの」を問題視しています。歴史的事象を小説に落とし込むことの困難・課題・挑戦について、実に真摯な考察をめぐらしていきます。

それが、史料にもとづく歴史的事象の展開と、どこかオーバーラップしていくのですね。二つの次元、二つの物語が、見事に融合し、とくにクライマックスの襲撃へと一挙に流れ込んで行く様は、実に圧巻です。これがデビュー作だなんて、すごすぎます。

訳者あとがきで示されているように、これ、どこかクンデラやヌーヴォーロマンなどの衣鉢を継ぐものにも見えますが、それらよりも「今風」といいますか、はるかに取っつきやすい作品でもあります。もうメタレベルとか文学的な仕掛けとか、そんなことを考えるなんてどうでもいい、ひたすら人を引き込む語りを味わえばよい。そんな感じですね。

ちなみに、タイトルの『HHhH』は、Himmlers Hirn heisst Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の頭文字をとったものだとか。作者ビネは作中で、これとは別の題名を挙げて、もしその題名になっていないなら、編集者が認めなかったからだ、みたいな話を披露しています(笑)。

次は『文明交錯』へ

やはり今年の春、新刊で『文明交錯』が出ました。未読ですが、こちらも楽しみです。今度は歴史改変ものとか。ますます目が離せません。

 

クセノフォン『家政論』

(初出:bib.deltographos.com 2024/08/24)

Loeb版のXenophon IV巻から、以前のMemorabilia(ソクラテスの思い出)に続き、Oeconoimcus(家政論)を読了しました。「家政論」はだいぶ前に、研究目的と称して特定の部分を飛ばし読みしたことがあります。今回は純粋な楽しみとして、細部をじっくり見たいと思いました。それなりに時間もかかりましたが、なかなか面白かったです。

(2023年8月24日現在、アマゾンではかなりの高値で古書が売られています)

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ソクラテスは狂言回しとして登場していて、とくに中盤以降のイスコマコスとの対話(の回想)では、完全に聞き役になっています。中身としては、要は家の内的な管理に長けていることが、事業の管理、さらには市民の統治といった上位の社会組織においても、長けていることになるのではないか、という話で、いわば哲人統治論の源流みたいな内容です。

面白いのは、ひとつには女性の聡明さを言いつのっているところです。もちろん当時のギリシアはすでにして男性優位社会ですから、女性は役割分担をあてがわれてしまうわけですが、それにしても女性が自然体でもって、暗黙知的なものを多用しつつ、家政の管理に果敢に貢献するという像が、とても印象的です。

また後半には、生活基盤としての農業と、それにまつわる細かな知恵が列挙されていきます。このあたり、管理業務の見本のような話が続いていて、バランス重視のイスコマコス=ソクラテス=クセノフォンの考え方が深く刻まれている感じがしました。

あとから知ったのですが、『家政論』は2010年に『オイコノミコスーー家政について』(越前屋悦子訳、リーベル出版)として邦訳が出ています。こちらも今は古書として高値がついています。もうちょっと手頃に入手できてほしいところですね。