批評の捉え方

今週はこれを読んでいた。ノエル・キャロル『批評について――芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房、2017)。キャロルは分析美学の泰斗にして、芸術・映画の批評も手掛ける研究者とのこと。その大御所が同書で示すのは、自身の批評観であり、批評というものの一般的な「構え方」。それはとてもシンプルかつオーソドックスな(ある意味古風でもある)立場で、「批評とは作品の価値づけのためになされるもの」というものだ。さらにそのためには、価値づけに際して批評家はその理由を示せるのでなくてはならない、とされる。さらにまた、そこでいう価値づけとは、作品を通じて作者が何をなそうとしていたのかという、人工物における意図を問題にして評価されるのでなくてはならない、と。

なるほどこれは、ポストモダンな「作者の死」や受容価値の理論(とキャロルは述べている)などの対極にあるスタンスだ。それだけにキャロルに対する批判もいろいろ出てくることが予想される。訳者があとがきに記しているけれど、実際に批評活動をしている人たちから、一種の拒否反応が示されることもあるという。思うにそうした反応が出るのは、意図主義的なスタンスが強調されてしまうことで、作品をめぐる解釈の多義性、枠組みにとらわれない豊かさなどを、つかみ損ねてしまうかもしれないからだろう。実際同書の中でも、たとえばカルトムービーとして先ごろ再上映されたエド・ウッド『プラン9・フロム・アウター・スペース』への好意的な評価(「SFジャンルのお約束を暴露している、時代反抗的な策略」)に、キャロルは真っ向から批判を加えている。そのような評価は、キャロルからすると、その手の作品(キャロルはこれを激怒に値する茶番であると評している)を観客はどうしたら楽しめるのか、という一点張りの評価にすぎず、批評家が本来的に関心を向けるべきこと、つまり、しかるべき情報や知識をもっている観客が、そうした知識を前提として味わう経験、すなわち「芸術的卓越の追跡」とはなんの関係ももたない、と断じている。なるほど知的達成には、それなりの手順と認識が必要だというわけだ。

けれども、すると複線的な価値観、多重的な構成、別様の可能性など、「多」に開かれる道が、部分的にふさがれることになってしまわないのだろうか、という疑問も沸く。一定の規範から逸脱したものを、下らないと断じてしまう傾向や身振りを、たやすく醸成することにはならないのだろうか。そのあたり、同書がどのような対応を見せてくれるのかが気になるところだが、どうやら末尾のあたりに、その回答めいたものが示されている。批評の判断基準となる原理を、あまり一般性の高くないものに設定する(たとえば対象範囲を芸術一般ではなく、一部の形式やジャンルごとに限定するなど)ことで、そういった固着的な事態をも回避できるということらしい。キャロルはみずからの立場を、「多元カテゴリーアプローチである」と高らかに宣言している。でもそれって、なんだかすごく肩透かしを食わされたような気分……??

ソール・ライター

今日は雑記。コロナ禍の影響で当初の開催予定よりも少し早く終了してしまい、行きそびれてしまった東急文化村でのソール・ライター展。せめてもの埋め合わせにと、一応公式の図録も兼ねているという作品集を入手してみた。永遠のソール・ライター』(小学館、2020)がそれ。ソール・ライター(Saul Leiter)は20世紀の写真家・画家。写真は、とりわけガラスなどを通じた被写体へのアプローチなどが有名だ。ピントがそのガラスのほうに合っていたりして、絶妙なぼかしの表現が味わい深い。被写体を直接撮るというような場合でも、どこかに近景の何かをかませて、ぼかしを巧みに取り込んでいる。見る側の視点がどこかはぐらかされるようでもあるが、それでいて視覚のある種の名状しがたい真実(文字通り「写」真である)を切り取っているかのようで、個人的にはとても惹かれるものがある。近景と遠景のはざまをさまよう視線、余白・奥行き・手前の果てしないせめぎ合い(?)。そのせいか、ライターの作品群はときに不安的ながら、ときに躍動的・リズミカル・動的なものを感じさせもする。図録は実に多くの作品を掲載していて圧巻でもある。

応酬へ?

前回取り上げた『<現在>という謎』(森田邦久編、勁草書房、2019)には、物理学の側から哲学への期待(もしくは苦言?)として、「新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を捉える新しい言語や概念体系を作ってくれる」(p,161)ことが要請されている。哲学の使命というものはそれだけではないだろうけれど、もちろんこれも確かに重要な一側面ではある。しかしながら今や、そうした新しい学知のための言葉や概念は、その学知の出身者にこそ委ねられていくのだろうか。いやしかし……なんてことを思うのは、関連書としてカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)を見てみたから。ロヴェッリは1956年生まれの著名な理論物理学者で、この本でもちょっとだけ触れられるループ量子重力理論の提唱者。そうした先端的な学者が一般読者のために著したのが同書とのこと。

原題は「L’ordine del tempo(時間の順序)」。もとになっているのは古代ギリシアのアナクシマンドロスの言葉で、ほかにも同書には、アリストテレスやデカルトなどはもちろん、哲学史家でなければ言及しないような史的な著者たちまで(たとえばセビリアのイシドルスとか、ベーダ・ウェラビリスとか、マイモニデスとかその他いろいろ)言及されたりして、その博学ぶりをいかんなく発揮している。

同書の基本的な柱となっているのは、相対性理論が示したように、時間というものは相対的なものでしかなく、そもそも実体としてあるのではない(世界そのものからして実体で構成されているのではない)こと、時間は変化を可視化したものにすぎず、そうした変化が時間の矢として扱われるのは、熱量が絡む場合に限られること、熱量の変化、すなわちエントロピーこそが、運動を、すなわち変化を(それすら近似的・統計的な記述にすぎないとされるが)現出させていることなどなど。すべてにおいて視点と記述(語法)こそが問題なのだ、と喝破される。物理学において時間は、外的な性質として扱われるのに対して、哲学が調べようとするはあくまでその内的な性質にとどまることが指摘されてもいる。そうであるなら、両者の意思疎通がそもそもうまくいくわけがない、という気もする……。

しかしこの時間の内的な性質の記述というのも、ときに興味深い問題を提起する。これまた関連書として見たものだけれど、青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、2019)では、たとえば意志による判断がいつ下されるのかといった問題に絡んで、神経学的な実験が紹介されている。二つの写真を見せてどちらかを選ばせる(ボタンを押させる)実験で、その結果、脳の反応は、意志的な写真の選択にわずかに先んじたりすることが明らかになったのだという。ではそこから、意思をもつことに対応する心理現象というものはないかもしれないという仮説が成り立つのだろうか。意志の自覚は、つねに後づけとしてなされるものなのか。さらにチョイス・ブラインドなる実験も言及されている。被験者に写真などを選ばせ、それをすり替えて説明を求めると、多くの場合、すり替えに気づきもせず、ときには自分が選択したこととして理由を述べることもあるという現象だ。選択の理由もすべて後づけでしかないのか。

著者はどちらに対しても、哲学の側からの批判を加えている。前者に対しては、そこで示された脳の反応が、選択(ボタンを押すという行為)に関連している確率は6割程度しかなく(あらかじめボタンを押すために身構える、予測している、といった反応が、結果に出ていたりするわけだ)、意志の自覚より前に脳が決断していること確証にはならないとしている。後者に対しては、日常的な「本気の」選択であれば関係するはずのリスク評価などが、介在していない特殊な実験にすぎない、と。このように、批判的な視座をもって他の学知を眺めることも、哲学に求められるべきスタンスであることは確かだろう。では上で言われているような、物理学の示す時間の外的性質に、哲学はどう批判を加えうるだろうか?そもそもそれは可能だろうか?

現在という謎(そして時間という謎)

森田邦久編『<現在>という謎――時間の空間化批判』(勁草書房、2019)を読み始める。このところ個人的に見たいくつかの書で、時間をめぐる解釈が取り上げられていたこともあって、よく言われる科学者と哲学者の認識の隔たりというのを、もう少し見ておきたいと思ったからだが、最初の章からまさにそれが鮮明に浮かび上がっている。

物理学者からすると、相対性理論と量子力学をもとに、「現在」という時刻はあくまで「座標系に依存した便宜的概念」にすぎないとされる。物理学的には、未来に計測を行って初めて確定するような過去の出来事というものもあるといい、さらに絶対的な同時性といった概念も措定できないという。相対論からは、たとえば単に高低差があるような場所でも、地球の自転によって、時間の流れにすでにして差ができる。したがって、異なる場所の二人の人物に、絶対的な同時性はありえないということになる、と。

一方、哲学の側は「現に存在する」という感覚をもとに、「存在するイコール現在である」という定式を出したりもする。けれども物理学の側からは、そうした「いまある感」が、「いま見ているあなたが物体に投影している「いま」」にすぎないと指摘されている。要するに、主観的現在にせよ、個々のそうした主観的現在が同時であるはずだとする絶対的同時性にせよ、ある種の信念でしかなく、実在するものではないのだ、と。

なるほど哲学の側は分が悪そうに見える。けれども、たとえばかつてのストア派などにおいては、時間の措定が仮のものでしかないといった議論に及んでいた可能性もあるようにも見える。再びプルタルコスの対話篇を見ておくと、登場人物たちの話から察するに、ストア派の人々は、現在が過去と未来に挟まれた境界線上の一点をなすといくら仮構したところで、それはある程度の厚みをもった時間幅でしかなく、現実的なものとはいえないと考えていたように思われる。現実的には「いま」というものは実在せず、人が「いま」と想像するものは、未来と過去とに同時に属していると見るのがよい、とストア派は言う(『モラリア』第72論文、41章)。さらにそこからの帰結として、同時に生じたとされる出来事は、その出来事以前と、その出来事以後から成るとされる。すると厳密な同時性というのはありえないことになる(ように思われる)。さらにその帰結として、結局は「時間」というものが全体として廃絶されることにもなるのではないか、と。

対話篇の登場人物は、当然ながらこれが一般通念に反するとして批判しているわけだけれども、ストア派のそうした議論は、現代的な物理学のスタンスと奇妙にも響き合い、通底しているかのようで、アナクロニズムではあるけれども、そのあたりがなんとも興味深い。

普遍と個物再び

プルタルコスの『モラリア』第72論文、対話篇の「一般概念について―ーストア派への反論」(ちなみにLes Belles Lettres版で再読中)に、「全体」をめぐるストア派の言説をあげつらう箇所(第30章)がある。この対話篇の登場人物によれば、ストア派の論者たちは、実在しないのに「何かである」と言える事象は多々あり、その最たるものが「全体」である、と述べているという。「無限の空虚で世界の外にあることから全体は物体でも非物体でもない。したがって全体は実在しない。よって全体は働きかけもしないし、働きかけを受けることもなく、場所にすらない。場所にないならば、動・不動のいずれでもない。重さもない」と彼らはいうのだそうだ。するとそこから「物体でないものがその部分に物体を含み、非在のものがその部分に存在を含み、重さのないもののがその部分に重さや軽さをもつものを含む」ことになって、一般概念にこれほど反する観念はほかに思いつかない、とこの登場人物は宣言する。

けれどもこのストア派の側の議論のほうがむしろ面白い気がする。その議論では続けて、全体は「それを超えるものはないので何かの部分ではないし、総体でもない。総体は秩序だったのものの述語となるものだが、全体は秩序だってはいない。全体には何らかの原因があるわけでもないし、何かの原因になるわけでもない」とされる。したがって全体は、通常ならば「無」の述語となるすべての述語を取ることになる、と。この対話篇の登場人物たちは、ストア派は残念だという感じで嘆くのだが、いや、実は残念なのはこの登場人物らのほうではないか、という気がしないでもない。ストア派の言説をより深く読み込んでいけば、かえってそうした非在の概念の分析から、物体の実体性、実在性、あるいは一般概念の存立根拠のようなものも導けるのではないか、と。

そんなことを改めて思うのは、田口茂・西郷甲矢人『<現実>とは何か――数学・哲学から始まる世界像の転換』(筑摩書房、2019)を読んでみたからかもしれない。数学者と哲学者との対話を通じて練り上げられた議論というだけで、すでにして刺激的な一冊。しかもそれが実体などの、存在論的な議論に向かうとなれば、これはもう、良い意味で見過ごすわけにはいかない。そしてなんといっても、同書が企てているのがまさに一般概念・通念の転回だからでもある。

同書が問うているキーとなる問題は次のようなものだ。普遍的なものの認識が成立するには、必ずやまずは特定の個別的なものから出発しなければならない。法則が成立するには必ず個別の事象・現象が必要だ。けれども後者から前者が導かれるプロセスは必ずしも意識されない。その「変換」が成立するためには個別の事象と「同じ」他の事象が見いだされ、「置き換え」の可能性が開かれれなくてはならない。ではそこでいう「同じ」とはどういうことか。置き換えの可能性は何が担保するのか。著者たちは量子論とそこから導かれる統計的法則、そして圏論を引き合いに、置き換えの可能性や同じであると見なす根拠が、実は設定された観察の条件に依存すること、したがって法則は「ある」というよりは都度「作られる」ものであり、それ自体としては不定であることなどを論じている。

そしてまた、条件は法則を支えながらも、法則に書き入れられることはない。しかもいったん法則が成立するとなれば、もとになった個別事例は置き換えうるものとして、それ自体は消去されてしまい、法則はあたかもなんらかの実体概念のように捉えられるようになる。けれども実は不定のものでしかなく、自然はそうしたものの上にあり、また数学という営為も、そのような不定性を突き詰めていく学問なのではないか。そこからさらに同書は、自・他の置き換え可能性から倫理の問題、そして決定論と自由の問題を論じるところにまで突き進んでいく。

ストア派の時代にはなかった道具立てが、現代にはある。そのことを強く噛みしめる。