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古代の原子論に線を引く

原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響今週は次の注目の論集を読み始める。田上孝一・本郷朝香編『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』(法政大学出版局、2018)。まだ最初の章(金澤修「古代原子論」)だけなのだけれど、これに刺激というか、善い意味での軽い衝撃を受ける(笑)。ともすれば一枚岩のように扱われることの多い古代ギリシアの原子論に、分割線を引いてみようという一篇。まず一つには、レウキッポスとデモクリトスにおける空虚の考え方が興味深い。原子と対をなすとされる空虚は感覚対象でないという意味では「あらぬもの」でありながら、原子がその中で構成要素として働くという意味で、思考対象・構成原理としては「あるもの」ということになる、と論文著者は喝破する。これは「あらぬもの」を徹底して排除しようとするパルメニデスおよびエレア派に対立する立場ということになる(とはいえ、論文著者も示唆しているように、「あるもの」に空虚をも包摂させるとするなら、それは「あらぬもの」からは「あるもの」は生じないとするパルメニデス的思考を踏襲しその圏内にあることにもなるのだが……)。また原子論が生成・運動の理論、世界の多様性の思想をなす点においても、そうした生成をみとめないパルメニデスやエレア派と対立する構図となる、とされる。

注目される二つめの点は、同じ原子論の範疇に括られがちな彼らと、エピクロスとの差異だ。デモクリトスは生成の出発点に「渦」を起き、そこからの必然として生成を描いているとされる。一方でエピクロスは、一定の偶然(重みで下降する原子が、わずかに逸れることがある)をそこに見ていた可能性があるのだ、と論文著者は言う。これが重要なのは、そうした逸れから、すべてが決定されているとか、あるいは機械論的に連鎖するとか、というわけではない可能性、別様の理路が開かれることになり、これが自由意志の形成をもたらすことにもなるからだ。もちろんこれら二つの点は、いずれももとのテキストの散逸のせいで確固たる文献的な裏付けが必ずしもあるわけではないという。けれども状況証拠的な推論による最適解の可能性としてはとても興味深いものだといえる。

方法と体系

基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫)日本版オリジナルだというジル・ドゥルーズの初期論集基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫)』(国分功一郎、長門祐介、西川耕平編訳、筑摩書房、2018)から、表題作「基礎づけるとは何か」をざっと読んでみた。これもなかなか読み応えがある。哲学史(とくに近代)を横断しながら、ここで一貫して問われているのは、人間の認識を可能にする条件と、そうした認識の外的な対象そのものを司る原理とが、いかに結びつきうるかという大きな問題。人間は認識しないわけにはいかないのだから、認識の側から対象の側へとアプローチする以外にないが、ではどうやってアプローチしうるのか、そもそもそのようなことが可能なのか、可能だとすれば、それはいかように担保されるのか(すなわちそれが基礎ということになる)……。

これは様々な哲学者がそれぞれの独自のスタイルで取り組んだ問題だった、とドゥルーズは考え、そこに三つの大きな潮流を見いだす。一つめは、その問題には答えがないとする潮流だ。古くにはプラトンがいて、イデアがいかに感覚的事物に分有されるかを問うていた。キルケゴールは存在と本質を、質から量への変容のごとき関係だと捉えていた。ニーチェは永劫回帰でもって、思考すらをも巻き込む反復の力動に収斂させていた……云々。二つめには、その問いの中にありうる規則がすべて含まれているという潮流もあった。認識は対象同士を結びつけるが、それに収まらない形而上学的基礎をデカルトは発見したが、それを批判するライプニッツは、概念の各々が世界の全体を表出しているとして、「概念から個体を作り出」してみせたーーモナド論である。

これに対して三つめに、その問いは、偽の問題と真の問題とを区別できるような規則をもたらすものだとする批判的な立場もあった。これがカント(やベルクソンなど)からの潮流であり、ドゥルーズの同論考のハイライトとなる。カントが問うのは方法(主体の側のアプローチ)と体系(対象側の関係性)の関連であり、主観的なものは事物に適用されることで客観的なものになる(認識された対象は認識の条件を含んでいるから)として、主体が対象に従属するのではなく、逆に対象こそが主観に必然的に従属するような、超越論的主観性を打ち出すこととなった。人間の有限性こそが、意識と世界それ自体を構成する原理に仕立て上げられるのだ、と……。

これはある意味とても見事な整理。もちろん哲学的な流れはその後も続き、フィヒテは対象そのものと意識の有限性としての対象とを区別したし、ハイデガーはそうした二つの系列から時間の組織の問題を提示した云々。また昨今の新しい実在論のように、対象側の自立を極限にまで押し進めるといった議論も可能になってくる。この大きな問題は、解決に向かおうとする様々な試みを周囲に紡ぎながら、まさに哲学史のうねりを織りなしていくかのようだ。若きドゥルーズの才気煥発の様が改めて窺える。

テオフラストス:匂いの分類の試み

De Causis Plantarum, Volume III: Books 5-6 (Loeb Classical Library)再びテオフラストス。今度は『植物原因論』から第4章と第5章をすっ飛ばして、いきなり第6章を読み始める(Loeb版:De Causis Plantarum, Volume III: Books 5-6 (Loeb Classical Library), tr. B. Einarson & G. K. K. Link, Harvard University Press, 1990)。これは「匂いについて」というタイトルで別文書として切り出されたりしているものなのだとか。実際、ここでは最初に香り・匂いについての一般論(分類や原因についての考察)が展開し、その後植物との関連が云々されていく。まずは分類なのだけれど、これが7種類もしくは8種類あるとされる。列挙しておくと、1. 甘い香り(γλκὺς)、2. 油っぽい香り(λιπαρὸς)、3. 刺激性のある香り(πικρὸς)、4. 苦みのある香り(αὐστηρὸς)、5. つんとくる匂い(δριμὺς)、6. 酸性の匂い(ὀξὺς)、7. 痛烈な匂い(στρυφνὸς)、そして8つめは塩気のある匂い(ἁλμυρὸς)、ということになるらしい。訳語が合っているかどうか疑わしいし、テオフラストス曰く、ほかにワインに似た匂いを加える論者もいるとされ、区分はそれ自体どこか曖昧で未確定なものを感じさせる。

テオフラストスのこの分類はどのように成立したのだろうか? この点が気になるところだが、明確には述べられていない。いくつかの香りを原理(本性)とし、残りをその原理の欠如と見なすべきか、という問いをテオフラストスは立てているが、すぐに様々な疑問が提出され、結果的にそうした本性と欠如とへの単純なカテゴリー分類はありえないことが論じられる。甘さや油っぽさは栄養分を意味するので、一見本性的に括られそうに見えるのだけれど、かならずしも食に適さない甘い匂いというものもありうるし、動物の種が違えば栄養分にするかしないかも異なり、まったくもって一概には言えない、ということになる。結果的にテオフラストスは、ここでもまた確定的なことは言えず、甘い香りひとつとってみても、そこには緩い、漸進的な変化の広がりがあるだけだということを認めるしかない。安易な分類への拒否、一定の広がりの中での認識は、テオフラストスの真摯で繊細な目配せを感じさせる。一方で、問いはやはり宙づりのままになり、微妙な緊張感をはらみつつ議論は先へと進んでいく……。

ベイズ推定をめぐる歴史

パズルゲームの「数独」では、上級問題になってくると、ある数が2つのマスに入る可能性があってほかの手がかりがなく、論理的推論だけでは判断できないような場面が出てきたりする。そんなときの対処法は、やはりトライ&エラーに限る。とりあえず入れてみて、ほかのマスがうまく埋まるかどうかを見てみる、というやり方。うまくはまれば、それでほかのマスが一挙に埋まったりする。当てずっぽう、あるいは決め打ちという感じではあるけれど(苦笑)、作業効率は悪くない。で、こうしたやり方は案外広く用いられている印象もある。機械学習・深層学習の教科書などでよく眼にする「ベイズ推定」「ベイズ定理」なども、ごく基本的なところの発想はそういうトライ&エラーにあるらしい。

文庫 異端の統計学 ベイズ (草思社文庫 マ 3-1)なんでこんな話をしているかというと、次の本を読んでいるところだから。シャロン・バーチュ・マグレイン『異端の統計学 ベイズ (草思社文庫 マ 3-1)』(冨永星訳、草思社、2018)。まだ冒頭150ページ弱の第一部を見ただけだけれど、これがなかなか面白くて引き込まれる。トーマス・ベイズが1740年代に発見し、その後ラプラスが精緻化したというこのトライ&エラー型の確率論(「事後確率は事前確率と尤度の積に比例する」という定理)の盛衰を、時代に沿って順に詳述していくというもので、ノンフィクションの群像劇的な面白さを味わうことができる。盛衰というが、第一部に関しては、その悲劇的ともいえる毀損の数々が描かれていく。主要登場人物で著名な数学者だったラプラスの存在にもかかわらず、ベイズ推定はおもにその主観的な推測と、初期設定となる等確率の無根拠さによって散々な攻撃に曝され、文字通り粉砕されてしまう。けれどもその理論の発想は、一部の人々、とくに他領域の研究者らによって徴用・温存されて、やがて日の目を見ていくことになる……と、なかなか情感に訴えるストーリー展開が待っていることは予想がつくが、いずれにしてもこれは実に骨太のサイエンスライティング。

現象としての言語

言語存在論先週くらいから野間秀樹『言語存在論』(東京大学出版会、2018)を読んでいる。とはいえ、今週はあまり時間がとれず、まだ全体の三分の一ほど。まだ冒頭だけだが、一応まとめておくと、これは言語へのアプローチとして、現象するものとしての言語を扱うことを高らかに宣言しつつ、従来の様々な立場を批判していくというもののようだ。たとえば心理学的に示唆される「内的言語」(内面で「話されている」とされる言語)などは、現象するものではないことから、仮構でしかないとして一蹴される。

人文系の思想などにおいては、内的言語にかかわる問題や、言語的なコンテキストと非言語的なコンテキストとの混同などが絡んできて、話された言葉と書かれた言葉(それぞれ話し言葉や書き言葉とは異なるとされる)の区別すら混沌としていくといい、警戒感を募らせている。文字と意味の問題についても、人は文字を読むのではなく意味を読むのだと喝破し、文字に不変の意味が予め存在するのではないことを強調してみせる。書かれた言葉(それは文字が集まってできるものだ)は意味をもつのではなく、「意味になる」のだ、というのだ。意味が通じることを前提とする議論はすべて虚構の形而上学でしかない、と。また二項対立のような図式への安易な還元も拒み、現象としての多へと開くことを提唱している

現象的な面にこだわり抜くなら、大御所とされてきたソシュールその他の近現代の言語学の先人たちにも、学説の問い直しを迫ることができるのかもしれない。実際そういうかたちで、著者は各種の既定の概念を俎上に載せていく。このあたり、言語学の分野でも、以前とは異なる新たな問題設定、新たなアプローチ・構え方が到来してきていることを感じさせる。いうなれば、ここで称揚されるのはある種の生成の思想、多の思想ということか。先のバディウ本ではないけれど、「多の思想」は目下のキータームとして急浮上している感じがする。

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