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テオフラストスの鉱石論

Les Pierres (Collection Des Universites De France Serie Grecque)今週もちょっと忙しかったので、とりあえず雑記的な簡易メモ。同じく平行して進めていた原典読みだが、短いテキストなのでわりとすぐに読了となったのが、テオフラストスの『石について』(Théophraste, Les Pierres (Collection des universités de France, Série grecque), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2018 )。前回のセレノス本と同様、これも最近刊行されたばかりの希仏対訳本。鉱石論ということだが、植物誌などと同様に、形状や色によるの分類の話から始まって、そうした違いが生じる原因、さらにはそれぞれの石の利用価値・用途などについてまとめている。固着の原因としてとくに熱や寒さなどが挙げられている点や、鉱石の分類に機能的な諸特徴(可溶性、可燃性など)が用いられているところなど、師匠のアリストテレス譲りな点も多くみられる。熱することで一部の鉱石が金属に変化することなどを受けてか、テオフラストスは熱の問題にとくに注目している印象も受ける(これはこちらの個人的な関心のせいかしら?)。同じ分類の石でも産地によって性質の違いが生まれることなどにも着目していて、たとえば絵具として用いる石が、産地によって特徴が異なることなどに言及している。

セレノスの円柱曲線論

La Section Du Cylindre. La Section Du Cone (Collection Des Universites De France Grecque)ちびちびと原典読みをするのはなかなか楽しい。というわけで、このところ読んでいるのはセレノスの『円柱曲線論』。底本としているのは、同じくセレノスの『円錐曲線論』との合本になっている、つい最近刊行されたばかりの希仏対訳本(La Section du cylindre. La Section du cône (Collection des Universités de France grecque), éd. M. Decorps-Foulquier, trad. M. Federspiel, col. K. Nikolantonakis, Les Belles Lettres, 2019)。セレノス(アンティノポリスのセレノス、またはアンティノエイアのセレノス)は、後4世紀のローマ帝政期のギリシア人数学者。円柱曲線論、円錐曲線論の二作は、セレノスの代表作であり、唯一現存するテキストなのだとか。

まだ前半に相当する『円柱曲線論』の3分の1くらいしか読み進めていないけれど、内容的には幾何の教科書のようで、円柱を水平もしくは斜めに横断する断面がどのようになるのか、ということを、様々な例を挙げて多面的に解説していく。これとこれが平行関係なら、これとこれも平行になり、これとこれが同じ角度になる云々、といった記述が全編続いていく感じ。基礎的な幾何学なので、表記の癖のようなものに慣れれば意味を取るうえでそれほど問題はなさそうに思うが、思うにこれが文字だけの記述だったとしたら、理解するのも再現するのも難しかったろう。もちろんテキストには図がついている。これは校注版でもあるわけで、収録されている図版もきちんと整理され作図されているものになっている(18世紀の印刷本以来、そのようになっているらしい)。けれども、それだけいっそう、もとの手稿本はどんなだったろうか、と気になってくる。冒頭の解説序文によれば、現存するのは中世の写本ということで、それがオリジナルの図案をどれほど正確に伝えているかはわからないということだった。写本では距離の大小の関係などが正確には写し取られていない可能性が高いらしい。中世の写本工房では、もとの図の位置関係をそのまま保持しないのが通例だったからだ。また、円錐の底面などは、図案では楕円ではなく円で表されたりしているという。

ポストモダンの功罪

真実の終わり権力者とその周辺から現れるフェイクニュースや虚偽の主張の数々。アメリカについてその背景を多面的に追った快作、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(岡崎玲子訳、集英社、2019)を読んでみた。著者はアメリカの日系二世で、ニューヨーク・タイムズ紙などの元記者。フェイクの台頭には様々な理由や背景があるが、米国で一つ重要な流れを作ったものとして、ポストモダン思想があったとされる(第2章)。

フレンチ・セオリーとも称されるフランス系の現代思想は、アメリカにおいても価値転覆的なものとして、一方では文化的な領域横断を果たし数多くの革新的芸術を生んだものの、他方では既存の制度や公式に不信感を募らせていた若い世代にウケて社会科学や歴史の分野に流用され、ポストモダニズムにもとからあった「哲学的な含意」が表に出てくるようになった。人間の知覚から独立した客観的事実などない、というその根底をなす否定的な立場は、「真実」なるものが視点や立場でもって置き換えられていくという事態を招くことになる。もとは左派系のそうした議論は、やがて保守派の側にも波及し、さらにのちには右派ポピュリズムに取り込まれていく。こうして、すべてが「断片化し、相対的なのであれば、ある「指導者や支配派閥」が何を信じるべきかを指示する道が開かれる」(オーウェルの言葉、同書p.43)ということに。

そうした学術的な動きばかりがフェイクの台頭をもたらしたわけではもちろんない。けれども契機の一つになったという指摘は十分に頷けるものだ。そうした拡散・波及ははたして必然だったのか、あるいはフレンチ・セオリーの特殊な何かが問題だったのか(おそらくそういう問題ではない、と思われるが)。著者はそれがまさにレトリックの次元をも含めた、ポピュリズム側への裏返しだったことを指摘してみせる。そうした拡散・波及・逸脱・劣化の問題では、その伝達プロセスもしくはメカニズムについての詳細な検証が必要になってくるだろう。というか、まさか伝達作用についての学知が、こんなに重要な問いになってくるとは、20数年前には思わなかった事態だ(反省)。ポストモダンをめぐる研究がこれから先、大きな課題を抱えていくことになるのは必定か。

ふたたび、政治と情動

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)2週間ほど、仕事関係でちょっと追われたせいで、ブログはあいだが空いてしまったが、ぼちぼち通常の活動に戻ろうと思う。というわけで、再び(みたび?)、政治の問題として情動の話。政治と情動を一続きのものとして扱う発想は、フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』(杉村昌昭訳、平凡社、2008-2016)でも共有される問題だ。この小著、原著は89年刊でありながら、政治的に無名時代のトランプが不動産王として、家賃の搾取などで貧困層を圧迫してホームレスを増産していることを批判した一節があり、一時期ネットでも話題になっていたように思う。改めて読んでみると、全体の話の流れは、相互補完的な三つのエコロジー(社会的エコロジー、精神的エコロジー、環境エコロジー)を再編し、社会・個人の実践を再構成しようという主張に要約できる。ここで言うエコロジーは、いわば様々な要因によって固着・汚染されしてしまった社会体・精神性・環境を、再び解きほぐして開放する、新たな主観性を編成する、という戦略を指すもののようだ。トランプの例などは、まさに社会における汚れとして扱われている(「別種の藻」がはびこっている、みたいに書かれている)。

三種類のエコロジーは相互に補完的で、それにより固定化した既存体制を再び「脱領土化」すると謳われている。ガタリの場合、社会的なものを重点的に取り上げはしていても、とりわけその中心的な問題領域をなすのはやはり精神的なエコロジーということになりそうだ。つまり、いかに情動の別様の管理、別様の編成を果たすのか、という問題。移民や女性、若者、高齢者などへの「隔離差別的な態度の強化」についてガタリは、それが「単に社会的抑圧の強化のせい」だけではなく、社会的作用因子の相対を巻きこんだ一種の実在的けいれん状態」(p.38)でもあると喝破する。このまさしくヘイトの問題では、憎しみの対象は、非現実的な「過備給」の対象にもなっていて、それは支配階級側だけでなく、下位階級にとっても同様だ、とガタリは言う。しかもそこでは、伝統的な社会制御の装置(調整を果たす諸制度ということか)は機能が悪化してしまい、いきおい人々は過去への回帰に賭けるようになってしまう、とされる。こうして非妥協的な伝統主義(極右ともいう)の台頭が準備されてしまう。ガタリはまた、抑圧的権力がいかにして被抑圧者の側にも取り込まれるのかも、社会と精神のエコロジーが立ち向かうべき分析的問題だ、と指摘してもいる(p.40)。打ち立てられるべきは新たな主観性、実在する各個人の特異性の生産にほかならない、右に倣えではなく、各人の差異こそが尊重されるように、と。

ガタリの本文は難解な用語が随所に用いられているけれども、要はこのヘイトの問題のように、今ある状態が実は追い詰められて生じた人為的なものであると解釈し、そういうものであるならば、それをほぐし、解放することも同じく可能なのではないか、ということを切々と述べている。そのために「エコロジー」を、単に環境問題の少数の活動家の思想に限定するのではなく、再編と再生をめざす一般的な運動へと変容させなくてはならないのだ、と。30年を経て、同書が実にアクチャルに読めてしまうような状況に現代社会が陥っていることは、ある意味残念でもあるけれど、同時にここで示されているような再編のプログラムを考え直すことは、今まさにここでの課題そのものでもある。

享楽と民主主義

ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論選挙が近づいたこの時期だからというわけでもないが、政治思想的なものを読みたいという欲求が再び募ってきた感じ。というわけでまずはこれから。ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論』(山本圭、松本卓也訳、岩波書店、2017)。精神分析の一大エコールをなしたラカンその人には、保守的なスタンスをおもわせるエピソードが多い印象だけれど、ラカン左派はリベラル派の思想に精神分析のタームを適用して政治理論のようなものを作ろうとしている一派らしい。同書の前半は主要論者の理論の批判的な比較検討で、あまり面白くない。後半の、実践的・分析的議論のほうがわれわれ一般読者的には重要(かな?)。扱われるテーマはナショナリズム、EUのアイデンティティ確立の失敗、消費主義社会、そしてポスト・デモクラシーの行方などだ。

いかにも精神分析の本らしく、ナショナリズムを支える集団的同一化が強固になり、なかば固着するには、情動的な備給が必要であって、そこには欠如をともなった享楽(とその裏側としての否定性)が控えていなくてはならない、と説く。そうした情動面は通常の政治学的議論ではあまり取り上げられることがないが、それこそがアイデンティティを支え、またそうした情動面のケアやサポートがないからEU的なアイデンティティはうまく機能してこなかったのだ、と。そこからさらに、消費主義的なポスト・デモクラシーにあっては、享楽の再考・再編、来るべき享楽をこそ考察しなければならないのだということになる、と。

確かにそうした情動面への注目は、重要な観点だとはいえるだろう。現行の社会が陥っている、むき出しの暴力のスパイラルに抗するためには、そうした情動面、とりわけ享楽の問題系を捉えなおす必要があるのだ、というのはその通りかもしれない。先に挙げたプロティノスが、肉体がもたらす攪乱要因を制御するために「政治的」という言葉を使っていたことと、これはある意味で響き合うところでもある。けれども、ここで示唆されている情動をめぐる理論も、あくまで仮説の域を出るものではなく、その意味では、ラディカル・デモクラシーを突き詰め、「否定性と享楽に対する別種の倫理的関係」(p.334)、ラカンいわく「もうひとつの享楽」をもって、現行のポスト・デモクラシーを超え出でるという、同書が説く戦略は理論上の戦略にすぎず、具体的に何をどう組織していくことができるのかは明らかになってこない……。うーん、精神分析特有のわかったようでもありわからないようでもある(?)説明も含め、このもどかしさをどうしてくれようか、というのが読後の直近の感想だ(苦笑)。