これまた夏読書的に読み始めているテオフラストス『植物誌』(περὶ φυτῶν ίστοριάς)(Théophraste, Recherches sur les plantes: Livres I – II (Collection des universités de France série grecque), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2003)。とはいえまだ第一書を終えただけ。この第一書は植物ごとの「違い」を、それぞれの部位(茎、枝、葉、根、花など)ごとに示そうとするもので、どこか眩暈を感じさせるほどに植物の多様性が浮かび上がる。というか、テオフラストス自身、どこかその広範な差異を前に呆然としながらも、するどい観察眼でもってなんとか分類を果たそうと苦闘する姿を想像させる。『植物誌』は全部で九書から成るもので、第一書はそうした各部の差異と全体的なメソッドなどを示している。第二書は栽培された植物、第三書は野生の植物、とくに木々を取り上げ、第四書では環境と植物という話が展開する。第五書は木々の本質や伐採時期、利用方法など、第六書は低木など、第七書と第八書はとくに草の類を取り扱う。第九書はちょっと違っていて、植物の医学的利用法といった話になっている模様だ(以上は底本としている上の希仏対訳本の解説序文から)。テオフラストスにはもう一つ『植物原因論』もあり、機能論らしい(?)そちらもそのうち見ていこうと思っているが、さしあたり、まずはこちらの第二書に入っていく予定。
前回取り上げた論集『マテリアーー中世思想文化研究の新展望』(T. Suarez-Nani et A.P. Bagliani, Materia. Nouvelles perspectives de recherche dans la pensée et la culture médiévales (XIIe-XVIe siècles), Sismel, Edizioni del Galluzzo, 2017)から追加的にもう一つ。アントニオ・ペタジネ「質料は実定的存在か?ーージャン・ル・シャノワンの応答」(pp.173 – 190)は、タイトルにある「参事会員ジャン(ジャン・ル・シャノワンヌ)」なる人物がいきなり本文で名前が変わってしまうという意外な一篇。作品の途中で主人公が変わる小説かなにかのよう(笑)。なぜそうなったのか。実は1330年ごろの逸名著者による『自然学の諸問題』という書物(初期の印刷でもって16世紀初頭まで命脈を保った一冊)が、最初はアントワーヌ・アンドレに、次いで「シャノワンヌ(参事会員)」との肩書きをもつ人物だとされて、ジャン・マルブルなる人物に帰属させられることになった。このジャン・マルブルとはフランシスコ会士ピエール・ケネルではないかとされたのが1981年。そして2015年、どうやらその逸名著者は、フランシスコ会派の人物ではなく、アウグスティヌス会のフランセスク・マルブル(トゥールーズ大学の自由学科教師、トルトサ大聖堂の参事会員でもあった)である可能性が高いということでどうやら落ち着いた、という経緯らしい。
刺激的なテーマの著作がラインナップに居並ぶミクロログス・ライブラリから、昨年刊行されたスアレス=ナニ&バリアーニ編『マテリアーー中世思想文化研究の新展望』(T. Suarez-Nani et A.P. Bagliani, Materia. Nouvelles perspectives de recherche dans la pensée et la culture médiévales (XIIe-XVIe siècles), Sismel, Edizioni del Galluzzo, 2017)を見ているところ。現代思想的な唯物論もこのところちょっとした展開があるなか、中世の質料論(あるいは物質論)も少しずつ変化・進展を見せているらしいことを窺わせる論集になっている。お馴染みの論者や研究対象に混じって、少しずつまた新たな見識が寄せられていることは大変喜ばしいところ。個人的に興味をそそられるのは、スコトゥス派(スコトゥスの難解で曖昧なテキストに注釈を施そうとしていたフランシスコ会系の内部的な一派で、14世紀初めごろにはすでに確立されていたという)のマテリア論を扱った論考が数本ある点。注釈者たちの常で、元のテキストにはない問題系などが新たに創発されていくらしいのだけれど、そいういうのを見ていると、まだまだ光を当てるべき対象が多々あるのだなあと改めて感慨深い。