「文献情報」カテゴリーアーカイブ

プロクロス「ティマイオス注解」出版スパム版

少し前から耳にしていた「出版スパム」という話。版権切れの古典などを集中砲火的に再出版するという行為らしく、中にはwikipediaの中身そのものだったなんて話も聞くけれど、たとえばErnst Diehl編のプロクロスの『ティマイオス注解』なんかもその筋(Nabu Press)から出ていて悩ましい。実はこれ、出版スパム話を知る前に1巻を購入していたのだけれど、確かに背表紙とかにも何も印字されていなかったり、再版している出版社名が表示されていなかったりと、なにやらえらく怪しすぎる(笑)。まあ、中身はDiehl版そのものの丸ごとコピーなので、その意味での問題はなさそうではあるのだけれど、こういうのはどうなのか……。PDFで落とせるならそれで十分という気もするが、今見るとGoogleはプレビューを切ってしまっているし、PDFを丸ごとダウンロードできるところが見あたらない(うーん、探し方が悪いのかしら?)。2巻以降もできれば欲しいのだが、この怪しげな本をシリーズで購入するのもちょっとためらわれる気が……。

ちなみに、冒頭の序の部分を読んだだけだけれど、本文そのものはやはりとても面白い。『ティマイオス』はピュタゴラス学派の学知がベースになっていることが強調され、さらにコスモロジー的な部分は『ティマイオス注解』、存在論(一者論)的な部分は『パルメニデス注解』に振り分けられているといった、プロクロスが考えている注解書相互の相補的な関係なども改めてわかる。

否定神学の「教科書」

13世紀のパリ大学で講義に使われたという、ディオニュシオス・アレオパギタの『神秘神学』ラテン語訳(エリウゲナ訳)ほかの編纂版(“A Thirteenth-Century Textbook of Mystical Theology at the University of Paris”, trans. Michael Harrington, Peeters, 2004)をゲット。訳者マイケル・ハリントンによる序文に早速目を通す。この序文、論文として実にうまい構成になっていて、『神秘神学』の翻訳史から始め(エリウゲナの前にヒルドゥインというサン・ドニの修道院長による訳があるという)、神秘神学に見られるプロティノスの引用箇所を検討した後、ギリシアでの注解の伝統を取り上げ(プロティノスからポルピュリオスへと至る、新プラトン主義の転換が反映され、世界霊魂は神に同一視されているのだとか←(これは要確認だな))、そこからエリウゲナ訳がディオニュシオスの原典をどう扱っているかへと進み、アナスタシウス訳のギリシアの注解やエリウゲナの著作に触れ、校注版本文の解説へと入っていく。特に指摘されているのは、「思考」と「一者との合一(神秘的上昇)」との関係の話。ディオニュシオスでは両者は明確に区別されているのに対して、エリウゲナ訳では全体にその区別が曖昧になっているという。選択された訳語など翻訳上の微妙な差異が入っているのだとか。ギリシアの注解の伝統にもそういう部分があるようで、そのあたり、エリウゲナがそちらの影響を多少とも受けた可能性もありそうだ。なかなか興味深い話になっているでないの。いずれにしてもエリウゲナ訳のテキストは、アナスタシウスの後も様々な修正や注解を経て、13世紀にまで受け継がれていく。かくして本書の本文をなす「教科書」も出来上がるというわけなのだが、さて、その出来はいかに?

アンセルムス関連論考二本

少し前にMedievalists.netで紹介されていたアンセルムス関連の短い論文二本をまとめ読み。スコラ学の父ことアンセルムスの研究は、やはりそれなりに層が厚いことを感じさせる。まずはニコラス・コーエン「封建社会の投影かキリスト教的伝統か – アンセルムス『なぜに神は人に』の推論を擁護する」というもの(Nicolas Cohen, ‘Feudal Imagery or Christian Tradition? A Defense of the Rationale for Anselm’s Cur Deus Homo’, The Saint Anselm Journal 2.1, 2004)(PDFはこちら)。これは具体的な議論というよりも、先行研究のまとめで一つの論考ができてしまったような作品。アンセルムスの『なぜに神は人に』(Cur Deus Homo)という小著は贖罪理論を説いたものということだけれど、従来の研究では、そこに封建制度の主従関係が色濃く投影されているとしてあまり評価されてこなかったという。ところがこれに最近、封建制度の影響以上に、教父神学の伝統が反映しているのではないかという説が唱えられるようになったという。特に注目されているのが、アンセルムスとアタナシオス(アレクサンドリアの)とに類似性が見られるという説。著者はこれらの両方をまとめ、後者を支持する立場から、前者に立脚する論者の提示した問題点に答えている。うーむ、アンセルムスとギリシア教父との関連性というのはとても面白い論点に見える。ちょっとこの「Cur Deus Homo」を読んでみたくなった(ちなみにPDFがこちらに→Libri Duo Cur Deus Homo)。

もう一本は、ソフィー・バーマン「アンセルムスとデカルトにおける人間の自由意志」(Sophie Berman, ‘Human Free Will in Anselm and Descartes’, The Saint Anselm Journal 2.1, 2004)(PDFはこちら)。タイトル通り、アンセルムスとデカルトの自由意志論を対比するというもの。両者の文脈は当然異なるわけだけれども、そこからなんらかの共通性を抜き出そうというもの。両者の間に影響関係があるとかそういう話ではなく、ある種の知的な推論の型のようなものを探るという話。なるほど主意主義の伝統は長いのだなあということを改めて。それにしても、アンセルムスにおいても「自由」意志というものが、意志に内在する「正しさ」を温存する力だとされていることが、個人的にはとても興味深い。このあたりもまた、スコトゥスなどのまさに「先駆」か。

↓Wikipediaより、アンセルムス

「中世の知識と権力」

さしあたっての関心領域ではないのだけれど、少し寄り道してマルティン・キンツィンガー『中世の知識と権力』(井本しょう二他訳、法政大学出版局)にざっと眼を通す。中世の学知、とりわけカロリンガ・ルネッサンスから12世紀ルネッサンスを中心に、それが権力とどう結びついたのかといった問題を扱っている。学問復興の歴史や、大学の成立の話などは様々な書籍で扱われているわけだけれど、同書はそれを知と権力の結びつきという切り口でまとめようとしたもの。なるほど方向性は面白そうだ。古代においては学問の師は尊敬こそされても、権力者として振る舞うことはなかった、師が権力を身に纏うようになるのはやはり中世だ……なんてことが時折言われたりするけれど、そんなわけで「学知と権力」と聞いて、ちょっとばかり食指が動いた次第。でも、同書自体はなにやら語り口が生硬な感じで、なかなか入っていけない(苦笑)。訳語が章ごとにぶれていたりするのも気になる。中世初期に始まった支配者と修道院に接触(文書的専門家の登用)が、後に宮廷学校に発展し(中央集権の確立期)、さらに後には市民が知的文化の担い手として台頭してくる(都市の発展)と、今度は教師と学生たちの自治という形で大学制度が整備される、といった歴史を駆け足で辿るわけだけれど、制度史と見るにせよ文化史と捉えるにせよ、もっとなにかこう、「知の権力化・制度化」について詳細かつ具体的な各論が読みたい気がする。現代的な教養論への問いかけも、問題意識としては分かるけれど、なにやら中途半端なような気も(?)(何を訴えたいのか、今一つなような……)。うーん、ま、とりあえずは何か「知の権力化」に関連する論考を探してみようか、と。

オリヴィの政治論?

メルマガの関連もあって、ペトルス・ヨハネス・オリヴィに関する論集を入手する。アラン・ブーロー&シルヴァン・ピロン編『ペトルス・ヨハネス・オリヴィ – スコラ哲学、反逆精神、そして社会』“Pierre de Jean Olivi – pensée scolastique, dissidence spirituelle et société”, ed. A.Boureau et S. Piron, Vrin 1999)という一冊。あいにく、調べたいと思っていた質料形相論関連の話などは出ていなかったのだけれど、論集そのものとしてはなかなか面白くて、拾い読みに精を出しているところ(笑)。これ、オリヴィの没後700年を記念して1998年に、ゆかりの地ナルボンヌで開催されたシンポジウムの論集なのだそうだ。変な癖で、ついつい直接関係ないものに眼がいてしまう(苦笑)。ま、これもまた論集の楽しみ方であるのは確かだけれど。

この間のミュラ本以来、政治哲学関係にも関心が向いていたところ、これにもルカ・パリゾーリ「政治的自由概念の誕生への、フランシスコ会の貢献:オリヴィにおける予備的与件」(Luca Parisoli, ‘La contribution de l’école franciscaine à la naissance de la notion de liberté politique : les données préalable chez Pierre de Jean Olivi’)という論考があり、とても興味をそそられる。それによると、オリヴィの意志論での自由というのは、一種の制約概念として読むことができるのだという。法概念の基礎には自由と支配があり、支配・被支配の関係は、主体がおのれの自由を一部放棄することによって成立するとされる。この放棄もまた、上下関係を求めるような行為ではなく、ただ自由を前提とした行為なのだ、と。なるほどその場合の自由とは、近代的な意味合いではまさしく制約か。そして支配者の側、たとえば教皇なども、不謬性という形で啓示や伝統に照らした意志決定が求められる。この意味でも、立法に際しての支配者の自由もまた一種の制約ということに成る……。オリヴィは教皇論者(つまり教皇の不謬性を支持する立場)だったというが、基本的には不謬性を、教皇の権限に制約を課す手段と見なしていたのではないかという。うーん、なんとも微妙な理路ではあるが……。

ほかの収録論考としては、ダンテにおけるオリヴィの影響(ダンテはオリヴィの説教を聞いていたらしい)、オリヴィ死後の崇拝を扱ったもの、さらには同時代人のライムンドゥス・ルルスとの対比の論考なども面白い。ルルスとオリヴィはある時期ともに南仏にいて、出会っていた可能性が高いのだという。文献的には証明されていないようだけれど……。