「主体、知性、スペキエス」カテゴリーアーカイブ

単一知性論を再訪する

これまた面白い企画の本。ステファン・ムーラ『知性の単一性ーーある論争の歴史』(Stéphane Mourad, L’Unité de l’intellect – Histoire d’une controverse, Paris, L’Harmattan, 2015)というもの。単一知性論は確かに手垢のついた、あるいは論じ尽くされた感のある中世思想のテーマではあるけれど、この小著は企画として興味深い。というのもこれは、その単一知性論への反駁の数々を、大きく年代順にまとめて提示しているから。一種のアンソロジー的なまとめになっていて、論点の整理という意味でもとても参考になる。取り上げられている論者たちは、ブラバンのシゲルス、アベヴィルのゲラルドゥス(13世紀半ば)、アルベルトゥス・マグヌス、ジョン・ペッカム、トマス・アクィナス、エギディウス・ロマヌス、ゲントのヘンリクス、フェイバーシャムのシモン(13世紀末)などなど。反論する側からのアプローチということで、ダキアのボエティウスなどは含まれていない。シゲルスに関しては両義的で、そもそもこの単一知性論がパリ大学を中心にテーマ化したきっかけは、シゲルスにあるとされている。アヴェロエスがもともと、質料的知性の一体性を、つまりは知性が抱く「知解対象」もしくは個々の端的な一義的概念の同一性を論じていたのに対して、シゲルスは著書『霊魂論第三巻において』(In tertium de anima : 1265-66)で、これを思弁的知性(能動知性)の側の一体性と解釈してしまう。こうした解釈上のずれはアルベルトゥスにもあったといい、結局それはマイケル・スコットによるアヴェロエスの『霊魂論大注解』の翻訳(「質料的知性は多に対して一つである」というくだり)に触発された解釈なのではないかと言う。もっともシゲルスは、続く著作『知的霊魂について』(De anima intellectiva : 1272-74)では、知性の複数性に譲歩するようになる、と……。

著者ムーラについては、以前エギディウス・ロマヌスとゲントのヘンリクスの単一知性論への反駁を扱った論考を読んだことがある(こちらを参照)が、その観点ももちろん同書に取り入れられている。あと個人的に面白かった単発的な指摘としては、アルベルトゥスが、万人に同じ単一の知性があるとする説の嚆矢としてアナクサゴラスを挙げていることや、プラトンに端を発しプロティノスに受け継がれるという主知主義的な教説を、トマスがニュッサのグレゴリウス(とアリストテレス)を引いて反駁しているという話、あるいはトマスが、アヴェロエスを他の異教徒たちから区別しようとして、結果的に中世イスラム哲学史を素描する初の知識人となったといった話など。いずれも確かめたい、あるいは深められないかと思うポイントだ。

上のマイケル・スコットの翻訳箇所を、アヴェロエスの『霊魂論大注解』の現代訳(英訳本:Long Commentary on the De Anima of Aristotle (Yale Library of Medieval Philosophy Series), trans. Richard C. Taylor, Yale University Press, 2009 )で拾ってみようと思ったのだけれど、マイケル・スコット訳との対応関係が今一つ不明なので少し時間がかかりそう。
Long Commentary on the De Anima of Aristotle (Yale Library of Medieval Philosophy Series)

再びリカルドゥス:知覚論

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)先日取り上げたメディアヴィラのリカルドゥスの悪についての論。その問題31がなかなか面白い。「悪しき天使はわれわれの感覚に働きかけることができるか」というのがそれで、リカルドゥス自身の議論はこれを肯定するわけだが、まず、感覚に働きかけるとはどういうことか、感覚とはそもそもどのようなものかを問うところから始まっている。アヴィセンナが典拠だという、脳室の精緻な分類がまずは示され(このあたり、実に解剖学的だ)、次いでそれら各脳室に、それぞれの感覚の機能(というか潜在力:virtus)が割り当てられる。共通感覚(5感を統合する総合的感覚)は前頭部前野に、映像的記憶の蓄えは前頭部後野、認識の機能は脳中央のくぼみの下部(間脳、視床下部)、推論機能は同じくぼみの上部、記憶の想起の機能は後頭部だとされる。諸機能がそれぞれ脳の特定部位をあてがわれているところは、13世紀末のテキストながらなかなか近代的。

一方、これらの機能が活性化するためには、そうした潜在力に対して反応する媒体・媒質として精気(spiritus)がなくてはならないとされる。それは心臓で作られ、その後に脳に運ばれるという。精気は器官に対しては離在的であるとされる。魂とは別もので、脳に上っていく過程で繊細さを増し、感覚的魂の影響を受けるよう適応していくという。器官どうしの間を行き来し、たとえば空気という媒質を太陽の光からその潜在力を引き出すように(ものの形を可視にし、色を露わにするなど)、魂の働きかけと脳の各部の潜在力を媒介し現働化する。ガレノス的なこの精気概念の典拠とされているのはクスタ・イブン・ルカだ(10世紀のバグダードで活躍したキリスト教徒の医者)。悪魔が感覚に働きかける方途は、一つにはこの精気を通じてだということになるようだ。

とても面白いのは、仏訳ではこのspiritusをcorpuscule(小体・粒子)と訳している点だ(ゆえにリカルドゥスの人間論を「粒子的人間論」というふうに称したりもしている)。可滅的で繊細な、魂とは別の質料的なもの、ということで小体・粒子と解されるということなのだろうけれど、問題31の解説序文(アラン・ブーロー&リュック・フェリエ)によれば、生来的精気(spiritus physicus)の教義は12世紀末に、シトー会のステラのイサクやリールのアラヌスなどが盛んに取り上げていたものの、リカルドゥスはそれをさらに練り上げているとのこと。

メディアヴィラのリカルドゥスによる「悪」

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)オリヴィの論と平行して、メディアヴィラのリカルドゥスによる悪(悪魔)についての論も読み始めた。ものは『討論問題集』の問題23から31、底本とするのは羅仏対訳・校注本の第4巻(Richard de Mediavilla, Questions disputées: Tome IV, Questions 23-31, Les Demons (Bibliotheque Scolastique), Paris, Les Belles Lettres, 2011)。オリヴィによる悪の定義が、たんなる善の否定にとどまらず、存在論的な実体としてあることを謳っていたのとは対照的に、リカルドゥスはアンセルムス以来の「善の不在・欠如」としての悪を、とことん突き詰める方向へと向かうようだ。冒頭の問題23では、まずその善に不在・欠如としての悪の事例として、自然の法に従わないことによる生成力・形成力が怪物を生む、といった例が出されている(第1項)。次いで天使の堕落(最初の罪)もまた、存在そのものの善性と不整合であるという意味で不在・欠如をなしていると解釈される(第2項)。

なんらかの原理によって悪が生じる(実体的に)のはありえないとするリカルドゥスは、したがって天使の罪もまた、なんらかの原理から生じた実体的なもの、生じるべくして生じたものではないと考えている(第3項)。したがってそれは天使の意志から生じたものなのだ、と。しかしながら、意志もまた本来的には善を志向するものとして創造されているとされる(第4項)。ゆえにその罪は、意志において偶発的に生じたもの(意志におけるある種の脆弱さ・欠陥)であるはずだ、という(第5項)。さらにいえば、意志におけるそうした脆弱さの可能性(defectibilis)と、それがもつ自由から生じているのだ、と。自由における可誤性の議論では、自由というものが、被造物の不完全性としての意志の脆弱さ・欠陥(の可能性)を現働化する条件になっている、とされている。ここへきて、オリヴィとは正反対の悪の定義から出発しているリカルドゥスが、同じように意志の自由の問題に出くわしている点がなかなか興味深い。

主体論の深度

〈私〉の哲学を哲学する先に触れたアラン・ド・リベラの主体の考古学は、歴史的な事象をアナクロ的に行き来しつつ、その主体という問題圏を多面的に(立体的に?)浮かび上がらせようとする試みと見ることができる。それはときに、思想史的な論究を越えて、その哲学的な問題そのものの深みに潜って行きさえする印象だ。それに類する哲学的な論究で、邦語で読めるものとして代表的なのはというと、永井均氏などの哲学的思索がある。というわけで、積ん読の山から、同氏ほかによる論集〈私〉の哲学を哲学する』(講談社、2010)を読んでみた。基本的に永井氏の一連の著作をめぐるシンポジウムの記録ということなのだけれど、参加している各人(入不二基義、上野修、青山拓央)の応答などが大変興味深い。個人的に永井氏の著作は網羅的に追っているわけでもないのだけれど、いくつかは既読なので、さほど抵抗感なく議論を追うことができる(ように思う)。議論はいくつかのトピックを中心にめぐっていく。その一つで、前半のメインになるのが、「無内包」の概念(語義的には概念が内包されていないということなので、これは妙な言い方になってしまうけれど)。「私」というものの問いを突き詰め、構造的にその成立条件へと遡ろうとするときに行き着く(そして問題となる)、実体的な拠り所のなさを語る言葉だ。

それはいわば前言語的な段階へのアプローチ。コンピュータにたとえるなら、機械語のレベルに遡る試みは現象学などにも見られるものの、こちら永井哲学はある意味、ほとんどBIOSにまで迫ろうとする話のようにも見える。もちろん、それ自体を高次の言語の側からのぞき見ることは不可能なのだけれど、その段階にあってもなお、なんらかの原初の痕跡をどこかに探れないかと健闘しているかのようだ。そんなわけで、そうしたアプローチの一つという意味では、永井氏の「第0次内包」や、入不二氏が批判的に示唆する「マイナス内包」といった区分けは、永井氏曰く「どちらでもよい」ような話ではある。もちろん、だからといってそれが刺激的な議論にならないわけではないのだけれど。

デカルトの言う「コギト」の内実もまた、現実でないわけにはいかない唯一のもの(上野氏)ではあるけれども、それ自体は前言語的な何かでしかない。それを考えるのが永井氏による主体の開闢論、ということになるわけなのだが、上野氏はそこに、ラカンのシニフィアンの構造(他者が言う「私」を、主体が自分を指す「私」として取り込むという逆転現象の理拠)とデイヴィドソンの真理についての根源的解釈(意味がわかるということは、その発話が真になる真理条件を知っていなくてはならない云々)を繋ぐという、とても意義深い解釈を差し挟んでいる。また、一方で青山氏が提起したような、様相理論で言うところの可能世界と、他者が主体として抱くであろう世界との差異の問題(様相と指標の大きな違いは、実在性についての直観だとされる)なども、同様に興味を誘うところだ(これに対する永井氏の応答では、氏の「独在論」に則るならば、どちらも「場所」と「発話の口」がないがゆえに、実在しえないとされる)……。分析哲学系の微細な話と、主体の構造的な捻れの話などが絶妙に接合されて、同書はとても豊かな意味論的空間を開いてみせる。もちろん、そうした問題に携わる際の、言語そのものに内在する不自由さのようなもの(それと格闘するのがすなわち哲学だ)も、如実に示されたりするのだが……。

「主体の考古学」の底流

L'Invention Du Sujet Moderne: Cours Du College De France 2013-2014 (Bibliotheque D'Histoire de la Philosophie)久々にアラン・ド・リベラを読んでみた。とはいえ、いまなお続いている「主体の考古学」シリーズの最新刊ではなく(そちらもそのうち見たいとは思っているのだけれど、なかなか着手できない……)、今回はコレージュ・ド・フランスでの2013年から14年の講義録『近代的主体の発明』のほう(Alain DE LIBERA, L’Invention du sujet moderne: Cours du Collège de France 2013-2014 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, J. Vrin, 2015 )。リベラの思考や参照は、相変わらず中世にとどまらず、近現代などとも盛んに行き来する。さながら、古楽演奏の大御所が必ずしもバロックにとどまらず、いつしか古典派やロマン派などにまで解釈を広めていったりもするかのようだ。ただ今回は講義録ということで、いくぶん読みやすくはなっている。主体についての議論ということでまずはフーコーが引き合いに出されているのだけれど、実は一連の議論の発端には、ニーチェ(魂、自己、主体は三つの「迷信」だとする)があったことをリベラは告白している。

近代的主体概念は一般にカントに始まるとされ、さらにその後のハイデガーなど、その思想圏の中心にはドイツがあったというふうに描かれる。リベラはそれをさらに遡ろうとし、まずは教会制度の仲介を経ないで信者が神と向き合うようになった14世紀初頭の神秘主義(エックハルトなど)に、主体概念成立の萌芽を見る。前々回の記事で取り上げたケーニヒ・プラロンの議論では、そのドイツの神秘主義は、フランスを中心とするスコラの伝統へのアンチとして、ドイツのある種のナショナリズムに絡んで復元されたという経緯があるらしいが、ここでのリベラはむしろ、ドイツに奪取された近代的な主体概念の歴史をいわば脱構築して、ふたたび覇権をフランスやイタリアに取り戻そうとしている感じにも読める(これは多少穿った見方だけれど)。主体概念成立に多少とも寄与した論者たちとしてリベラが参照するのは、ペトルス・ヨハネス・オリヴィ、アクアスパルタのマテウス、さらにはオーベルニュのギヨームだったりする。それぞれの議論が、はるか後世のハイデガーやニーチェの議論のレンズを通して立体的に捉えられる。もちろんそれはある種のアナクロニズムなのだが、その考察を通じて、主体の成立に何が必要だったのか、どのような認識、どのような構造がそうした主体概念を支えてきたのかを考え直そうとする。そんなわけで、これは単なる思想史の枠にはとうてい収まらない(ゆえにリベラのような大御所ではければできないし許されない類の)、まさしく哲学的営為になっている。