「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

今年の年越し本から

明けて2020年。今年もぼちぼちと本ブログを記していこう。年末年始に読む本を個人的に「年越し本」と称しているが、今年も何冊かに目を通している。まず、これはなかなか痛快な一冊。小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社、2019)。アングラ経済のフィールドワークを手掛ける人類学者が、香港のタンザニア人移民コミュニティの実態を豊かなエピソードを交えて活写するというエッセイ。どこか飄々として、いい加減にも見えるゆるい行動の背後から、普通の売買などとは別様のシステムが浮かび上がってくる。

互酬制というと、どうしても贈与の相手との直接的な相互のやりとりを連想してしまいがちだけれど、そこでの「ついで」としての助け合いや贈与は、その相手からの直接的な対価を期待したりはしない。報酬は別の筋から、回りまわってもたらされるのだ。誰かが「負い目」を感じることのないように、「負い目」は広く共有され拡散されている。そうした相互扶助の上に、彼らは市場交換の仕組みを築いているというのだ。そのための基本的な条件となる買い付けの情報などはオープンにされていなくてはならない。かといって相互の競争を制限することがあってもならない。誰もが仲間としてゆるく連携しながら、個々の利益のためにしのぎを削る、というわけだ。「金は天下の回りもの」を地でいくこのゆるやかなシステムは、硬直し歪んだ寡占的な商業関係へのオルタナティブとして、批判力に満ちているように見える。決して発展途上国的な限定的体制ではない。

もう一冊の年越し本は、アルナルド・モミリアーノ『古代ギリシアにおける伝記の起源』(71年刊)の仏訳本(Arnaldo Momigliano, “Les origines de la biographie en Grèce ancienne”, Circé, 1991)。モミリアーノ(1908 – 1987)は古代史、とくに史料編纂の研究を手掛けた歴史学者で、同書は邦訳もあったはず(『伝記文学の誕生』)。昨年の夏くらいに朝日の記事か何かがきっかけで、ツィッター界隈でやたらと言及されていたのが印象的だった。今回は仏訳版の古本を最近入手したので、これをざっと読んでみているところ。

ギリシア世界で「伝記」といえば、たとえばプラトンやクセノフォンによるソクラテス伝が思い浮かぶが、当然ながらそうした伝記文学の起源はソクラテスではない。で、それが成立したのかを、史的な流れから紐解こうというのが同書。話は前5世紀に遡り、どうやら古代ギリシアの貴族階級が家系図の作成に拘っていたことや、神話の英雄たちや、いわゆる「ギリシア七賢人」(前6、7世紀の知恵者たち)へのコンスタントな関心などが源流となっていたようだ。ただこの流れはいったん終息し、前4世紀になると、新たに哲学や雄弁術の諸学派が人物についての語りの技法をゼロから発展させていくのだという。プラトンやクセノフォンを含むソクラテスの弟子筋もそうした流れの中にあった。クセノフォンのモデルを提供したのは、ソフィストとして糾弾されたイソクラテスだったりもした。ほかに伝記文学の成立に重要な貢献を果たした人物として、アンティステネスやテオポンポスが挙げられている。

もちろん彼らは、現実と虚構とをごちゃまぜにして記述を進めていくのだが、それでもそこには確かに伝記文学、さらには自伝の萌芽があった。けれども、人物の生涯について真正の事実を集めることを重視したのはアリストテレスとその一派になってからだった。ヘレニズム期の伝記文学を考案した人物として重要視されているのは、アリストテレスの弟子筋の一人、アリストクセネスだったとされる。一方、同じくヘレニズム期の自伝の伝統を担ったのは、ほぼ政治家に限られ、プロパガンダや自己弁護のための手段として用いていた……。要約してしまうと平坦な印象になるかもしれないけれど、なるほどモミリアーノは、方法論的にも、学知への真摯な姿勢でも、また博学ぶりでもなかなか興味深い。ほかの著書も探してみたい。

……そういえば年末に、同じくギリシア関連で、ピエール・アドの初の邦訳が出たようだ。これは嬉しいかも。そのうち見てみることにしよう。

見えないものを見るために?

年の瀬だからというわけでもないのだが、未読のままだった約半年分の岩波『世界』にざっと目を通す。とくに最新号の1月号(特集「抵抗の民主主義」)に掲載された山本圭「批判なき時代の民主主義」が心に突き刺さる感じ。この論考はまず、今の時代は、フェアな土壌の上で政治的な批判や対立を示し相互に戦うことを、周到に回避するようになっていると指摘する、次いでその背景として、様々な社会的分断を見せないようにしたり、中和したりするような、各種の装置や制度の多用を指摘してみせる。ときにそれは天皇制のイデオロギー(各種の礼祭や祝賀パレードは、政治的立場や利害を超えてコミットさせるものだとされる)だったり、選挙(それは分断を見せつける仕組みだったりする)以外で民主主義を考え直そうという機運だったりする。

そうして批判や対立が弱まり、否定的なものは隅に押しやられはするけれども、ときにそれは暗部として回帰することがある。たとえば右派左派双方のポピュリズムなどもその典型だ。論考の著者は次いで、相互の闘技的な敬意にもとづく対立や批判をアゴニズムと呼び、一方で対立する相手を単純に敵と見なして全否定したり、あるいは悪魔的存在と見なしたりする動きを、アンタゴニズムと呼んで区別する。そしてこの後者には、実は自己のアイデンティティにとって、矛盾する二つの役割を果たすのだ、と。つまりアイデンティティの十全な構成をブロックすると同時に、アイデンティティを作り出すそもそもの構成的外部でもあるという(エルネスト・ラクラウの議論)。ポピュリズムを、その粗暴さゆえに十全に認められなくても、追い払うことがかなわないのは、そうしたアンタゴニズム的な二つの役割がそこにも見いだせるからだ、と著者。そうしたアンタゴニズムを民主主義にとっての課題として受け止めることが重要だ、と説いている。

それにしても日本の場合には、そうしたアンタゴニズムの言説にもなにがしかの文化的特徴があるのではないかしら、なんてことも思ったりするのだが、ちょうど積読から引っ張り出してきた本がそういうものを分析しようとしていて興味深い。内藤千珠子『愛国的無関心――「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社、2015)がそれ。基本的には近代の小説のテキストを分析しつつ、マイノリティを排除する言葉の力学のようなものをあぶりだそうとするもの。愛国的な運動に身を投じる人々があえて目にしようとしない、無関心を装う対象とする「敵」。そこで排除されるのは要するに<絶対化された>他者だが、この無関心の回路を担うのは、実はなにげない文化的装置としての伏字だったりするのではないか、と著者は問う。伏字には、検閲的に明示することを避けつつも、伏せている字は誰の眼にもあきらかだという構造がある。それが「あるはずのものを、ないものとして扱う感性を作り出す」(p.44)のではないか、と。

このこと自体、歴史的に、1930年代のナショナリズムとマルクス主義との対立にまで遡ることができる、と著者は言う。当時のナショナリズム(日本主義)は、スキャンダルを求める当時の大衆の要求に応えるかたちで、もともと関係のないマルクス主義と近接の関係に置かれ、なんらかの関係性をまとい、物語化されていったと看破する。

そのプロセスは、ナショナリズムとマルクス主義のそれぞれのファクター(たとえばナショナリズム側から「民族」や「人種」などのキーターム)の物語が、相互に相手を「敵」として「内在化」してしまうのだ、という。あとはもはや通俗的な紋切り型として、相手への無関心はそのままに、対立の構図は反復され定着していくだけとなる……ときにはまやかしにすぎない逆転の構図や、熱狂的な攻撃すら伴って。「日本的感性」とされる伏字の構図は、とても根深いものであることに改めて気づかされる。

環境哲学の可能性?

複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学篠原雅武『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(以文社、2017)を読み始めたところ。まだざっと全体の三分の一ほど。「対象指向存在論(Object Oriented Onthology)」に与するティモシー・モートンなる論者の議論を、まとめて紹介した一冊。副題の「人間ならざるものの環境哲学」という部分に惹かれて、モートンに関する予備知識がないまま読み始めたのだけれど、要点がわしづかみにできるような感触があって、全体的によい入門書になっている気がする。環境というものを、いきなりの自然環境のように大上段に構えたりせず、文字通り人の周囲のミニマルな状況から捉えていこうとするアプローチのようだ。すると当然のように、その環境は人工的な環境を含まざるをえない。かくしてそうした人工的環境を「読む」というかたちで探求は進められるらしい。イデオロギー的なエコロジーとはまったく別物だし、一方で人間の優位性を弱めるかたちで「モノ」の世界を考える、ほかの思弁的実在論の立場とも微妙に異なっている印象を受ける。もっとも、今のところモートンの元の著書はことごとく未読なので、果たして本当にそうなのかどうかは不詳だが……(苦笑)。

モートンという人は、どうやら文学畑の出身で(イギリス・ロマン主義研究?)、そこでのアプローチ(こちらのサイトを参照)は、思想的な想像における商品と比喩的言語のインタラクションの研究が出発点のようだ。外と内(外的空間と内的空間)の二元論を、安易に融合させようとするのではなく、両者の分割の部分的な崩れをもとに、「詩的に」考察しようとしている、ということか。これはそのまま人をとりまくミクロな環境についての読みへと敷衍されていく。人間的環境と自然的環境の二元論を、ほつれを通じて考察する(?)……。これを「アンビエント詩学」と称するのだという。うーむ、ここでもまた詩学が問題になっているわけか……。あらゆる思想が社会の行く先をなんらかの形で先取りして反映しているのだとするなら、デリダ的な「脱構築」よりもはるかに穏やかなスタンスだというその謳いは、一体どのような未来を私たちに告げているのか?著書の邦訳の刊行が待たれる。

音楽の理

先に挙げたアガンベン本『哲学とはなにか』の末尾の付録「詩歌女神<ムーサ>の至芸ーー音楽と政治」では、「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」との書き出しから、人間がいかに「言葉を語る存在として構成」されるかを、ムーサたちの神話を通じて語ってみせる。またそれがいかにポリス(都市)的なものに結びついていたのかも論じている。そこで示唆されるのは、いわば音楽と言語との<あわい>だ。そうしたテーマを立てる瞬間から、それを語る言語もまた、詩的なものとして音楽のほうへ開かれて行かざるをえない。

ここで想起されるのは、ミシェル・セールの小著『音楽』(Michel Serres, Musique, Éditions le Pommier, 2011-2014)の最初の章だ。そちらは、やはり音(声)の発生から言葉の成立への「過程」が、オルフェウス神話として、ムーサとのやり取りとして描かれる、きわめて詩的なテキストだ。アガンベンは論考としての制約からまだ完全に自由ではないが、セールはというと完全に突き抜けた飛翔を遂げている印象だ。哲学がここへきて再び詩に、音楽に接合する様が、まさに小躍りするテキストとして示される、とでもいったところか。アガンベン本の最後の章は「序文を書くことについて」となっていて、「哲学的ディスクールは本来序文的なもの」「哲学はあらゆるディスクールを序文の位置へと運んでいくディスクールである」というテーゼも唱えられているが、セールのこのディスクールは、まさにある種の理想的な序文、軽やかな音楽的序文でもある。

余談ながらアガンベン本の冒頭近くで、ヒトという霊長目が言語をもっていることを自覚するようになったこと、つまり言語を外在化された対象として据えたことが、まさに「人間の誕生」だったと指摘している。この対象化は、果たして言語そのものの効果なのか、それとも何か前言語的な認識論的飛躍の効果なのかという疑問が相変わらず残る。律動のムーサ、音の秩序(歌唱)のムーサ、その根源の記憶のムーサ……いずれにそれが割り振られるのか、あるいはそれもまたムーサたちの<あわい>に位置づけられるのか???

今さらながらの後期ラカン思想

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-この間のユイスマンス本でもちらっと出てきたラカン(もっとも同書の著者は、どちらかというとクリステヴァの精神分析学に造詣が深いようだったが)。さすがに昨今は、文学においても作家・作品研究に精神分析的解釈をただちに・安易に持ち込むようなことはなされなくなっているようだが、個人的にはラカンについての知識も90年代始めの藤田博史『精神病の構造』『性倒錯の構造』『幻覚の構造』(これらは実に見事なまとめだったように記憶している)あたりでストップしているので、少しアップデートしようと思い、松本卓也『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』(青土社、2015)を眺めてみた。神経症と精神病を区分けする鑑別診断についての見解を軸に、ラカンの思想的変遷・深化を経時的に追っている。これもまた同様に見事なまとめになっているほか、この「経時的に」思想の地誌を描いてみせているところが、ある意味新しいように思えた。これまでラカンの思想の要約といえば、年代的なものを取っ払ってというか、あまり重視せずに、図式を取りそろえて解説してみる、みたいなものが多かったように思うからだ。

で、末尾部分になかなか重要な指摘があった。従来(と言ってもだいぶ以前だが)は一般に、ラカンを始めとする精神分析のどこか家族主義的な図式(父の名による抑圧の構図とか)を批判し乗り越えるものとして、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が対置されることが多かったわけだけれど、この経年的ラカン思想の変遷からは、70年代に入ってラカン自身がそうした図式の外に出ることを志向し、まさに『アンチ・オイディプス』的な方向性を打ち出していたことがわかるのだという。個人的にこれは新鮮な指摘だった(単にその方面に疎いだけではあるのだけれど)。鑑別診断そのものの区別が薄らぎ、同書の表題にもあるような「人はみな妄想する」といったことが言われるようになるという(これは高弟ミレールによる表現だというが)。

その晩年のセミネールでジョイスの文学作品を症例的に読みながら、ラカンはアリストテレスに言及しているという点も面白い。アリストテレス論理学で問題になっている三段論法が、類もしくは普遍についての命題であるのに対して、たとえばソクラテスの個別の死というものはそうした命題に乗りきるものではないことを指摘し、普遍から逃れる「特異的・単独的なもの」を重視するべきだとラカンは説いているのだという(p.372)。治療という行為によって患者の個別性にいやおうなしに対応せざるをえない臨床の現場の人の感覚なのだろうなという感じではあるが、同書によると、こうした観点はデリダとも響き合うのだという。デリダは『法の力』において、裁判官が普遍的な法に従っているだけでは、単にアルゴリズムで事例を処理しているだけで、「正義」と呼べるものがないとし、真に「正義」がありうるためには、アルゴリズムに還元できない「不可能なもの」に関わらなくてはならない、といったことを述べているのだという。それは「他者が、つねに他なるものである特異性=単独性として到来する」可能性を維持するものでなくてはならない、というのだ(p.420)。臨床的な哲学という観点が、改めて浮かび上がってくる。