「フリンジな部分」カテゴリーアーカイブ

パノポリスのゾシモス

Les Alchimistes Grecs (Collection Des Universites De France Serie Grecque)先月末くらいからズラズラと見ていたのが、パノポリスのゾシモスのものとされる錬金術関係のテキスト(Les Alchimistes Grecs (Collection des Universités de France, Serie Grecque), tome IV, première partie, Zosime de Panopolis, mémoires authetiques, Les Belles Lettres, 2002)。ようやく一通り見終わった。ゾシモスは3世紀から4世紀初めごろの人物で、ギリシア語圏の初期の錬金術師と言われている。ちなみにパノポリスはエジプトの都市で、現在のアフミームにあたるのだそうだ。この版に収録されているテキストは、ゾシモスに帰される「真正な手記」13編の校注版。器具の説明や錬成方法の概要などに加えて、ある種の幻視などを記したものもあり、これらが微妙にオーバーラップしている様子がとても興味深い。客体の操作(金属が段階別に変成を遂げる)と主体の成立(人間も、鉛的人間とか、銀的人間とか段階別に言われる)とがパラレルに描かれ、また強いていうなら、前者から後者が導かれているような(少なくとも着想されているような)記述になっていて、とても興味深いものがある。というわけで、これも夏から秋・冬にかけて、少し時間をかけて訳出していこうかと思っている(たぶん手記1と、手記10あたり)。

12世紀の汎神論−−ベナのアマルリクス

Autour Du Decret De 1210 III: Amaury De Bene Etude Sur Son Pantheisme Formel (Bibliotheque Thomiste)前々回のエントリにも関係するが、中世の汎神論の一例として、ベナのアマルリクス(ベーヌまたはシャルトルのアモーリー、アマウリクスという表記もある)とその一派(セクト的なシンパが集まっていたらしい)があったことを最近知る。で、かなり古い文献だけれど、それを扱った論文を読んでみた。G. C. カペル『ベーヌのアモーリー、その形相的汎神論についての研究』(G. C. Capelle, Autour Du Decret De 1210 III: Amaury De Bene Etude Sur Son Pantheisme Formel (Bibliotheque Thomiste), Vrin, 1932)というもの。ジルソンが編纂していた「2010年の教令の周辺」叢書の第三弾。ベナのアマルリクス(Amalric of Bena)はパリ大学の哲学・神学教師で、アリストテレスをさらに発展させるという講義が人気を博していたというが、1204年に大学側からその教義について非難を受け、思想内容の撤回を迫られた。さらにそれを受け継いだ弟子たち(アマルリクス派)も1215年のラテラノ公会議で糾弾される。同論考はまず、何が問題だったのかを、その教義内容の再構築から探っていく。中心的な史料となるのは、同セクトの糾弾を記したパリ大学の台帳のほか、『アマウリクス派論駁』という逸名文書など。

教義の中心をなすのは、神と被造物の(ラディカルな)一致という思想。同書ではこれを存在の「過度の」一義性としているが、要するに神は存在の形相的な原理とされ、被造物は存在を分有することになり、ここから創造主と被造物が存在を分かつという意味で等しい(!)という帰結が得られる、ということのようだ。諸事物(被造物)と神との区別は見かけの区別にすぎない、と。この意味で、これはスピノザ主義を先取りするかのような汎神論になっている、と論考の著者も述べている。するとそこから、たとえば復活の教義などが否定されたりもするし、悪の存在も否定され、自由意志もまた斥けられることになる……。論考は次に、その教義が成立した拠り所、つまり出典を探ろうとする。有力な参照元として検討されるのは、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(神への被造物の参与など)のほか、いわゆる「シャルトル学派」からシャルトルのベルナールとその弟子シャルトルのティエリおよびベルナール・シルヴェストル、シャンポーのギヨームとその弟子カンブレーのオドン、さらには同時代のフィオーレのヨアキムなどなど。このあたり、芋づる的に各思想家の教義のエッセンスがまとめられていて好感。こういった芋づる式の論考、個人的にも好きな形式だ。ま、それはともかく。話を戻すと、とはいえいずれもアマルリクスの教義とは一致するものではなく、直接的な影響関係は見いだせないとされる。ただ、アマルリクスが自説を練り上げる際に、当時のプラトン主義や実在論、さらには知的な空気といった間接的な影響をそれらの思想家が醸し出していた可能性は高いという。逆にいえば、そうした空気の中にあってこそ、アマルリクスはそうした著者が用いた概念や教説などを、ある意味自由に翻案していくことができたのだろう、という次第だ。うーむ、同論考は1932年のものなので、やはり気になるのはその後の研究の展開・成果ということになるわけだが……。とりあえず、大橋氏のサイト「ヘルモゲネスを探して」では、アマウリクスを2007年に取り上げていたようで、そこにマリオ・ダル・プラの1951年の著書が挙げられている。

プロタゴラス的相対主義

前回と同じダラス・デネリーの論文から、今度は「プロタゴラスと一四世紀の認識論的相対主義の発明」(Dallas G. Denery II, Protagoras and the Fourteenth-Century Invention of Epistemological Relativism, Visual Ressources, vol.25, No.1, 2009)をざっと読み。おお、これも興味深い。懐疑主義というよりも相対主義の系譜としてオートレクールのニコラを位置づけている。まず出だしがなかなか印象的。ニコル・オレーム(14世紀)によるアリストテレス『諸天について』の注解書には、「地球から見れば天が動いているように見えるが、天から見れば地球が動いているように見える。かくも視点の場所によって判断は異なってくる」みたいな一節があるのだという。オレームは詰まるところ当時のアリストテレス説(地球は不動で天空が動く)を奉じているのだけれど、オレームは「思考実験」と銘打ってそうした話を示しているのだといい、どうやらそれは、当時一般化していた認識論的な限界、自然学の神学への従属、権威(アリストテレスなど)の浸食などを反映したものだったらしい。一言で言えば、絶対的真理の存在自体は疑わずとも、世界の真理は人間が自然にはアクセスできないというのが、当時の広く共有されていた基本認識だった。人間の認識にはもとよりそうした相対主義的な限界が課せられている……。

相対主義の祖として知られているのはプロタゴラスだが、その一節「人間は万物の尺度である」はアリストテレスを通じて西欧中世の読者たちにも伝えられることになった。アリストテレスはプロタゴラスの議論から生じるものの見え方や見識の多様性(たとえば、同じものが存在するとも、存在しないとも言えるような事態)を、無矛盾の原則を掲げて一蹴する。中世盛期の論者たちもおおむねそれに従っていたようで、そんな中、たとえばブラバンのシゲルス(13世紀)などは、プロタゴラスの相対主義的なテーゼを一種の不謬性の議論に変形する形で、見えるものは端的に真であるという議論を導いてみせたりもするようだ。けれども、14世紀になってようやくその議論は再燃することになり、プロタゴラスのいわば復権も見られるようになる……。先陣を切るのはオートレクールのニコラだ。彼もまた「見えるものは真である」という議論を示すわけだけれど、シゲルスとはニュアンスもアプローチもまったく異なる。ニコラはアリストテレスによるプロタゴラスへの反論を批判的に捉え、その復権に一役買うことになる。ニコラについてのここから先の話は前の論文と重なる部分も大きい。ニコラが最低限必要な出発点として「適切に現れる」ものを真と認める必要を説いていることや、ニコラの場合にはそれを「真理」としてではなく「蓋然性」の理論(それ自体相対的なものだ)として示していることなどがまとめられている。面白いのは、アリストテレスに則った反プロタゴラス的伝統によって引き合いに出されていたテミスティオスの議論を、ニコラが批判しているという点。ニコラのいう認識論的な限界という議論はその文脈で指摘されているのだという。さらに論文の末尾のほうでは、プロタゴラスのより本格的な復権が15世紀に生じることも言及されている。レオン・バッティスタ・アルベルティの絵画論(での遠近法)が、そうした相対主義の文脈で位置づけられている。

サルヴァトール・ローザ(17世紀)の≪デモクリトスとプロタゴラス≫。右側の人物がプロタゴラスらしいのだが……。
サルヴァトール・ローザ(17世紀)の≪デモクリトスとプロタゴラス≫。右側の人物がプロタゴラスらしいのだが……。

オートレクールのニコラ:認識と懐疑

ダラス・デネリー「オートレクールのニコラによる見かけの救済論」(Dallas G. Denery II, Nicholas of Autrecourt on Saving the Appearance, Nicolas d’Autrécourt et la Faculté des Arts de Paris – actes du colloque de Paris 19-21 Mai 2005, Ed. S. Caroti et C. Grellard, Stilgraf Editrice, Cesena, 2006)(PDFはこちら)という論考を読む。前にも取り上げたように、オートレクールのニコラは懐疑論的なスタンスでアリストテレスを批判していたわけだけれど、一方でたとえば認識論に関しては、対象物の実在とその視覚的な見え方との一致(「見えるものは存在し、真理に見えるものは真理である」)を擁護する議論を展開しているという。それがどういうスタンスで、ニコラの中にどう位置づけられるのかをまとめたのがこの論考。この問題はドゥンス・スコトゥスの直観的認識の議論にまで遡る。スコトゥスは対象物の直接的な把握によって、その対象物の存在について明確な知識が得られるとした。これに疑問を寄せたのがペトルス・アウレオリで、非在の対象の直観的認識をも人はもつことができるという議論を構築してみせた。つまり非在であろうと、対象物が存在するかのように経験するのであれば、その経験を対象として直観的に知覚することは可能だというわけだ。このアウレオリの議論を受け継いでいるのが、ニコラが書簡でのやり取りをしたアレッツォのベルナールという人物。ニコラはそうした考え方に批判を寄せている。ベルナールの議論では偽の直観的認識がありうることになってしまうが、これをニコラは問題にする。ベルナールの論に従うなら、対象物の認識と対象物の実在は一致しないことになり、前者から後者を推論することも不可能になる。それでは極端な話、誰も何もわからないことになってしまう。世界の認識が失われてしまう。

そのためニコラは、そうした認識と実在の不一致を斥けることになる。代案としてニコラが提示したのは、偽の見かけを認めず、「見えるものは実在する」と主張することだった。この主張をニコラは「蓋然性が高い・確からしい」という留保をつけて示す。人は制約を抱えた存在である以上、実際に対象物そのものに触れることはできないが、少なくとも確からしさをもってその認識を得ることができる、というわけだ。見かけがあればこそ、認識は始まるし、また終わりもする。人は知覚を通じてしか世界を体験できない以上、その見かけを肯定しなけれが何も始まらない……。論文著者によれば、この蓋然性の議論はニコラの哲学的スタンスのすべてを貫いていて、たとえばアリストテレスの議論よりも原子論を支持する際などにも援用されているという。後者のほうが前者よりも説明的整合性があるがゆえに蓋然性も高い、とニコラは見なしているという。あらゆる哲学的議論は見かけの蓋然性にもとづく思弁でしかない、とニコラは考えているらしいのだけれど、結局その意図するところは、無益な論争から離れて聖書の言葉へと帰依するということなのではないか、というのが同論考の示唆するところだ。なるほど、こうしてみると、ニコラの懐疑論は信仰に裏打ちされた上での、相対主義的な哲学的視座ということになる。古代の懐疑論とはずいぶん趣を異にしていることが改めて浮かび上がる。

「七つの大罪」の研究領域

ちょいとばかり古い(1968年の)ものだけれど、ジークフリート・ウェンゼル「七つの大罪:いくつかの研究課題」(Siegfried Wenzel, The Seven Deadly Sins: Some problems of Research, Speculum, vol. XLIII, 1968)というレビュー論文(なのかな)をざっと見する。七つ(もしくは八つ)の大罪という概念も、歴史的な構築物と考えることができるわけだけれど、個人的にその成立や歴史的展開というのはあまり気にかけたことがなかった。今回ちょっとメルマガ関連でロバート・グロステストについていろいろ見ていて、この問題に行き当たった。この七つの大罪の小史も実に豊かな研究領域であることを知る……。罪をそういう形で示した嚆矢となる文献は、四世紀の修道士エヴァグリオス・ポンティコスによるもので、そこでは八つの罪が列挙されていた。そのスキームをエヴァグリオスがどうやって得たのかは大きな問題とされている。オリゲネスとの関係や、写本の帰属の真偽などいろいろな問題点が指摘されている。けれども、やはり面白そうなのはなんといっても中世における展開。とりわけ12世紀から13世紀にかけての神学者たちによる議論はとても興味深い。論文著者は、中世盛期の議論は三つの主要なモデルを区別できるとしている。一つめは七つの大罪を関連づける議論で、これはグレゴリウス一世(八つの罪を七つにした人物だ)以来の議論があり、サン=ヴィクトルのフーゴーなどが継承しているという。一方で中世盛期にはアリストテレスの諸原理を罪の関連性に当てはめようとする動きが起こり、ラ・ロシェルのジャンやヘイルズのアレクサンダーなどに見られるという。さらに後になると、二つめとして心理学的な根拠で罪を考える議論が出てくる。罪を意志の方向づけの誤りに帰す議論などで、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラ、さらにトマス・アクィナスなどが挙げられている。

面白いのは三つめだ。一種「コスモロジカル」ないし「シンボリック」なモデルでの議論だというそれは、人間を七つの部分から成るものと見なすという発想(三つの魂の力、四つの身体の元素)にもとづくものだといい、それらの堕落と罪とが結びつけられている。そうした議論はウィリアム・ペラルドゥス(ギヨーム・ペロー:ドミニコ会の説教師)やロバート・グロステストなどに見られるという。グロステストには「神とはそれ以上のものを考えられない存在」という書き出しの告解論があるのだそうで、そこにそうした考え方と、さらにそれぞれの罪に対置される徳の概念が示されているという。論文著者は、この徳や罪と生理学の関係性や、罪と惑星との関連づけの起源などは大きな研究領域だとし、グロステストの著書(さらにはオーベルニュのギヨーム、ウェールズのジョン)の知的背景の研究が有益となるだろうと述べている。示唆されたそれらの研究領域のその後の進展はとても気になるところだ。論考はこの後、さらにグロステストに見られる、キリスト教の教義へのアリストテレス霊魂論の適用の問題などにも触れ、さらに後半では七つの大罪の中世文化への意味づけについて、より広い見地から、様々な研究領域(生活の実践、絵画表現、文学作品など)を取り上げて、取り組まれるべき課題を示している。これらがどれくらい実現しているのかも含めて、その後の研究を眺めてみたい。

ヒエロニムス・ボスの《七つの大罪と四終》(1485年)
ヒエロニムス・ボスの《七つの大罪と四終》(1485年)