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プロクロスのパルメニデス註解:分有論

Proclus. Commentaire Sure Le Parmenide De Platon. Tome IV 1ere Partie. Livre IV / Tome IV, 2e Partie. Notes Complementaires Et Indices (Collection Des Universites De France Serie Grecque)プロクロスの『プラトン「パルメニデス」註解』は、引き続き第4巻(Proclus, Commentaire sur Le Parmenide de Platon, Tome IV 1re partie. Livre IV / Tome IV, 2e Partie. Notes Complementaires Et Indices (Collection Des Universites De France Serie Grecque), C. Luna et A. Segonds (éd.), Les Belles Lettres, 2013)を読んでいる(個人的に入手した同書は、ちょっと売り方が変で、格安のものを購入したところ2分冊セットのうち本文を収めた第1分冊のみが送られてきた。校注をまとめた第2分冊は未着……というか、もともと含まれていなかった模様。ま、さしあたり本文があるのでよいけれど。上のリンクのamazonでの販売のものがちゃんと2分冊セットになっているかどうか不明なので、購入しようという奇特な方は注意されたし)。とりあえずほぼ前半部分を通読したところ。

以前記したように、4巻で扱われるテーマは「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」の二つ。このうち後者の参与(分有)の問題が4巻の前半部分をなしている。パルメデスのソクラテスの対話篇をもとに提示されるのは、形相(イデア)というものがあるとして、それが具体的な個物とどのように関係していると考えればよいかという問題。形相側からトップダウンの目線で捉えるなら、基本的に個物は形相の「反照」「写し」「像」のようなものであるとさあれ、個物は形相に「与る」ことで、その「反射」を受け、魂において形相と「同一視」される。けれども、個物は感覚的なもの、形相は知的なものであるとするなら、感覚的なものから知的なものの認識に至るのはいかにしてか、が問題になってくる。ボトムアップのアプローチ。これはまさにトークンからタイプへの移行という問題だ。

この場合の分有が物質的な様態(分割共有とか、全体と部分の関係とか)でなされるのではないのは明らかで、そのあたりの議論はかなり手厚くなされている(大きさ、小ささ、同等性などの形相が取り上げられ、形相というものは分割可能ではないことが論証されていく)。では別様の、非物質的な分有の様態とはどんなものか、という段になると、プラトン主義的に、議論はしばし形相の超越性、分有の超越的性格へと移っていく(質料の暗闇を照らす光としての形相、そもそもの太陽として照らし出す一者、あるいは弦の共鳴作用の比喩などなど)。また、そうした超越的事象の文脈で、個物から形相への認識論的シフトが、神秘主義的な上昇として示唆される。さしあたりここでは詳細には紹介できないが、やはり上の分有をめぐる手厚い議論のあたりが、哲学的議論として、前半における最も豊かで奥深いものであるのは間違いない。

プロクロス『パルメニデス注解』第三巻から

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: 1re 2e Partie Livre III - Introduction Partie Au Livre III (Collection Des Universites De France)ストラボンは一端中断して、少し前からプロクロス『「パルメニデス」注解』の第3巻をレ・ベル・レットル版(Proclus, Commentaire sur le Parménide de Platon: 1re et 2e partie, Livre III (Collection des Universités de France), C. Luna et A.-P. Segonds, Paris, Les Belles Lettres, 2011)で読んでいた。第3巻は原文+詳細な注をまとめた分冊と、その文献学的な序論を収めた分冊との2冊に分かれているのだけれど、とりあえずこの原文部分だけを一通り読了。同じこの校注版で第2巻まで読んでからずいぶん時間が経ってしまったが、実はこの第3巻と続く第4巻が全体のメイン部分をなしている。そこでは形相(εἴδη)の問題が多面的に語られているからだ。第3巻の冒頭に、同書が以下に扱う問いとして次の4つが挙げられている。「形相は存在するか」「形相は何であって、何でないか」「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」。最初の2つが第3巻で、残る2つが第4巻で扱われる(らしい)。

ここで詳細に紹介することはできないけれど、第3巻でのプロクロスの議論の要点は、プラトン主義的な流出論の因果関係と、範型(παράδειγμα)としての形相の区別にある印象だ。デミウルゴスによる形相の産出は、みずからの内にある源泉による場合と、知的なイデアによる場合とがあるとされる(802.30)。デミウルゴスはすでにして神的存在としては身分が低く、一者と多の両方の特徴を併せ持っているとされる(806.26)。そんなわけで、そもそも像ではないとされる(むしろ原因的なものとされる)知的なイデアは、すべての現実態の源泉になっているわけではなく、そこにはイデアに拠らない部分的・感覚的なものが含まれてくる。たとえばそれは部分の問題や、「悪」「悪しきもの」の問題に関わってくる。形相はあくまで全体に関わるのであり、部分的なもの(指や髪の毛など)単独の形相があるというわけではないとされる。また、プロクロスが報じる体系では、創造されるものは必ずやなんらかの善に参与しているとされ、ゆえに悪は形相に由来するものではないか(欠如など)、その悪すらも善になんらかの形で参与しているのだとされる。

ちなみに余談だけれど、この校注版のもとになっているテキストは、前回のエントリで触れたヴィクトール・クザンが編纂した二つの版なのだとか。うーん、クザン恐るべし。続く第4巻は長いので、読み終わるのはしばらく先になりそうだが、そのうち取りかかることにしたい。

プロクロスによる数学と想像力

Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d'Euclide前にも出たけれども、原論の注解書でプロクロスは、数学が扱う対象(より正確には幾何学が扱う対象)を感覚的与件でも純粋な知的対象でもないとして、両者の中間物、つまり想像力の対象として規定している。注解書でこれに触れている部分は、序論第一部の末尾あたりから序論第二部。現在鋭意読み進め中。で、これに関してとても参考になる論考があった。ディミトリ・ニクーリン「プロクロスにおける想像力と数学」(Dimitri Nikulin, Imagination et mathématiques ches Proclus)。所収はアラン・レルノー編『エウクレイデス「原論」第一巻へのプロクロス注解書の研究』(Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d’Euclide, éd. Alain Lernould, Presses universitaires du Septentrion, 2010)。プロクロス注解書に関する2004年と2006年の国際会議にもとづく論集で、先の普遍数学史本の著者ラブーアンをはじめ、様々な論者が多面的にアプローチしているなかなか興味深い一冊。で、ニクーリンの論考は、なにやらわかったようなわからないような感じの「感覚的与件と知的対象の中間物」について、その諸相をプロクロスの本文に即してうまく整理してくれている。

それによると、プロクロスのこの数学的対象の議論は、どうやらイアンブリコスの『共通数学について』という書の議論を取り込んだものらしく、さらに遡ればプトレマイオスの『アルマゲスト』に行き着くということらしい。中間物というだけあって、その対象は感覚的与件に見られるような、生成流転の途上にある不安定な特徴を備えるとともに、推論にもとづく思惟の対象であるロゴスの特徴も併せ持つ。たとえば円が与えられたとして、現実の円形のものが感覚的対象であるなら、知的対象は円という抽象概念であり、数学的対象はというと、延長をもち分割可能な、想像力における一種の像(σχῆμα)をなし、と同時にそれは現実にはない完全な円として思い描かれる。質料形相論的には、それは想像力を質料として成立する実体として、物理的世界の対象とは別物の扱いになっているという。プロクロスはまた、その質料をなす「想像力」をアリストテレスが示唆する「受動知性」(霊魂論、III, 5, 430a10-25)と同一視しているともいう。うん、このあたりは個人的にもなかなか興味をそそる部分だ。

類似と相違 (2)

再びプロクロス『パルメニデス注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II (Collection Des Universités De France Serie Grecque))から、短くメモ。類似と相違の話が長々と続くのは、要するにそれが、すべての存在するものがしかるべき範型に「与る」という、「参与」の問題を論じるための前段階をなしているからのようだ。類似と相違は中間的な形相としてあり、他のあらゆる形相がおのれの像を産出するために、類似と相違を必要とするという。まず、形相に与るもの(存在するもの)とは、形相に対する像であるとされ、一方の形相は範型(モデル)に位置づけられる。ではそこで像となるのはどんなものだろうか。まず知的なもの(知解対象)は像にはなりえない。なぜなら知解対象はもとより(範型から)分割できないものだから。知的なものについては原因と結果、単一と一組などとは言えても、範型と像のアナロジーで語ることはできないとされる。感覚的なもの(身体)についてなら、これは像にほかならないと言うことができる。プロクロスはここでもう一つ、知的なものと感覚的なものとの間をなすとされるものを持ち出してくる。思考的なもの(魂)だ。これもまた像であると言える。なぜかというと、魂は知性に対して、時間が永遠に対するのと同じような関係にあるからだ(プラトンによれば、時間は永遠の像をなしているのだという)。一方でそれは、永遠なるものと創造された世界との両方の一部をなす中間的な存在でもある。かくして、像ではない知解対象、像でしかない身体(感覚的なもの)、像と範型とにまたがる魂という三分割の構造が示される。類似と相違が中間的な形相だという話もそうだけれど、プロクロスはこの中間部分の議論がとても特徴的な感じだ。この後、話は本題の「参与」へと進む。要は、範型と像の間には様々な強度の違いがあり、範型に与る度合いの大小に応じて、各々が類似と相違を体現するのだ、とされる(以上、742-16から747-38)。

プロクロス『パルメニデス注解』第二巻から – 類似と相違

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Livre II (Collection Des Universites De France Serie Grecque)レ・ベル・レットル版で、プロクロスによる『「パルメニデス」注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II, éd. C. Luna et A.P.Segonds, Les Belles Lettres, 2010)を読んでいるところ。『パルメニデス』でソクラテスがゼノンに詰め寄る箇所についての注解が延々と続いている。けれどもこの冒頭部分では、類似と相違についての議論が展開しており、メレオロジー的な議論なども出てきてなにやら興味深いので、少しまとめていこうかと思う。基本的な流れはこうだ。パルメニデスの擁護者ゼノンによれば、(パルメニデスのように)多と隔絶した「一者」を考えるのとはまったく逆に、多だけが存在し一者はないとする巷の議論では、いろいろな矛盾が生じる。まずは一がないとなれば、多は共通するものをもたず「相違」するものとなる。しかしながら一に与らないという意味では共通性をもつがゆえに、「類似」するとも言える。こうして「相違」するものが「類似」することになってしまう。また、これはこうも言い換えられる。多は一に与らないので「類似ではない(非・類似)」が、一方で一に与らないという共通点をもつので「相違でもない(非・相違)」。結局、類似と相違、非・類似と非・相違という相反するもの同士が同時に成立することになる。

これに対してソクラテスは、同じ事物が類似と相違などの相反する属性を同時に取ることは驚くに当たらないという話を展開していくわけだ。で、プロクロスは、次のような説明を加えていく。まず(1)類似と相違が形相として知性(創造神)の中に存在すること、(2)類似と相違のそれぞれの本質(前者が限定的で集合的であるのに対して、後者は非限定的で分散的であること)、(3)類似と相違はいわば中間(すべての存在が与るものと、個別の存在が与るものとの間)の形相であること、(4)類似と相違は同一性と他性に対しては下位の位置づけをなすこと(つまり類似・相違は同一性・他性と一致せず、前者のペアが潜在性に関わるのに対して、後者のペアは存在(神をも含む)へとより広範に広がる)、(5)類似と相違の上下関係(一者を原理とする限りにおいて、類似は一者との類似である以上、相違よりも上位に置かれる)、(6)類似と相違の対立性(類似は類似として相違には与らず、相違は相違として類似には与らない)。メレオロジー的な議論を思わせるのは(3)と(4)。また(6)などは、人間と馬も相互に相手に与らないではないかという異論に対して、相補性(一方の否定が他方の肯定となること)の条件を加え、さらには別の異論に対して反転性(相手側に反転する可能性)の条件、一方が他方の存立条件になっていることなどの条件を加えて、規定の厳密化を図っていたりする(以上、721.23から742.4まで)。