「出来事」への距離感

(bib.deltographos.com 2023/11/23)

イスラエルとパレスチナの紛争。地理的に(心理的にも)遠いせいか、凄惨な映像を見てもなお、この極東の島国では、なかなかその出来事をヴィヴィッドなものとして受け止めることができないように思います。何年か前、南アジアで仕事をしている知り合いに、中東が落ち着いたら旅行にでも行きたいと言って、たしなめられたことがあります。中東が落ち着いたことなどなかったし、これからもない、そんなふうに言うのは典型的な平和ボケ、認知バイアスだ、というわけですね。

しかしながら、私たちには、そうした緊張感を実感できるだけの「基盤」がないことも確かです。もたらされるのは映像や音声、あるいは文字での情報だけです。それらをどう自身の内的な感覚につなげていけるのか。これはとても困難な問いのようにも思えます。

ちょうど、X(旧Twitterですね)で、『記憶/物語』(岡真理、岩波書店、2000)が紹介されていたので、読んでみました。

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著者は現代アラブ文学の研究者です。基本的には、文学や映画などの作品が描く「現実」についての考察です。主要な主題は、作品で描かれた「現実」を、「出来事」そのものとして受け取ってはいけない、ということに尽きます。出来事の記憶は、出来事が圧倒的であればあるほど、文章にとっての、取りこぼされるしかない残滓となるほかない、再現できない外部であり続けるしかない、私たちが分有できるのはせいぜい、自分たちのファンタジーを投影した、安定し安心を与える物語にすぎない、というのです。

では、一般的な読者は、そのような文章にどう向き合えばよいのでしょうか。著者が説いているのは、表象できない「出来事」に、その表象不可能性の痕跡を読み取るような読書、ということのようです。象徴できないものの痕跡をあえて探し出すような緻密な読解。これなくして、出来事そのものの暴力性に、共感できるようにはなりえない、と。安易な物語に回収されないようにすること。しかしそれは、なんとも難しい接し方、構え方と言うほかありません。人文学はそんな読み方を本当に育むことができるのでしょうか……。

 

動物行動学も興味深い

(bib.deltographos.com 2023/11/10)

もっぱら入門書・概説書のたぐいですけれど、たまに動物行動学の本を見るのは、個人的な楽しみの一つです。というわけで、今回はKindle Unlimitedに入っていた、藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー、2015)を見てみました。

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ハトの首振りについて、科学的な見地からアプローチしたもの。同時に、ハトやほかの鳥たちの関連した行動(歩行やホッピングなど)についても、様々な考察を加えています。首振りはバランス取りのためというよりも(そういう側面はあくまで部分的なのですね)、視覚による認識に大きく関係していたりする、と。なるほど、これは興味深いです。

著者も記していることですが、こうした動物行動学が面白いのは、ひるがえってそれが、人間の行動の諸側面に光を当てることになる、という逆説があるからです。つまりそれは、ある種の(間接的な)人類学なのだ、と。これこそまさに、膝を打つ一節です。

 

起源を脱神話化するということ

(初出:bib.deltographos.com 2023/11/01)

昨年から今年にかけては、いろいろと面白い本が出ている印象ですが、これもそれに加えられそうです。デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』(酒井隆史訳、光文社、2023)。1ヶ月くらいちびちび読んでいて、まだ半分(苦笑)。でも、人類学がもたらしうる壮大なビジョンに、久しぶりに触れた感じがして、個人的にはとても楽しんでいます。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』のあのグレーバーですね。

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というわけで、とりあえず前半というか、冒頭部分について、備忘録的な簡易メモを。この本の基本的なスタンスは、通俗的に受け入れられている社会進化論的な人類史の説を、いくつかの新しい見地から批判し、覆していこうというものです。人類の黎明期に、狩猟から農耕への転換が起こり、定住化によって富の蓄積や社会の組織化が可能になって、各地に文明が築かれることになった、という話は、ある意味普遍的な、揺るぎないストーリーとして受け入れられているわけですが、「いやいや、実際にはもしかすると、それほど直線的で揺るぎないものでもなかったかもね」と、著者たちは言い始めます。

そうしたストーリーは学問的な理論に支えられていると考えられがちですが、実は単なる推論・推察に支えられている部分も多く、ある種の神話、ストーリーにすぎないという側面もあるのだ、というわけです。近代におけるその嚆矢となっているのが、ルソーだったり、ホッブズだったりするわけですが、では、それらの社会進化論の基盤は、いつごろ、どこから出てきたのかというのは、あまり知られていない、と本書の著者たちは指摘します。

彼らによると、それは新大陸発見後に、西欧人たちと先住民たちとが交わした、膨大な議論に端を発しているのだ、といいます。先住民というと、まさに神話的世界に生きている粗野な人々という固定イメージで語られることが多い(今なお)と思いますが、実はそうではなく、西欧人たちの諸制度や宗教などを、かなり批判的に見ていたというのですね。西欧がわがものとして重視する理性への訴えなども、先住民との長期にわたる論争によって培われたものだった、というのです。

西欧の社会進化論は、先住民からの批判への応答としてはじまった————これだけでも、すでにして衝撃的なイントロになっています。話はここから、先住民の社会が、ある種の洗練された、動的なものであったこと、彼らの生活様式が一枚話ではなく、多様なものだったこと、そしてまた、そこに重なるかたちで、社会進化論が語る黎明期の人類というものも、考えられている以上に多様かつ動的なものだった可能性へと、広がっていきます。

その途上、近年の人類史のベストセラー(ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど)なども批判の俎上に載せられていきます。学問というものが、固着と流動化とのあいだを揺れ動くものだということを、感慨をもって受け止めさせてくれて、なかなかに圧巻です。

 

数値と個別経験

(初出:bib.deltographos.com 2023/10/17)

少し前ですが、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくま新書、2023)を読んでみました。数値化がある種の「猛威」を振るい、猫も杓子も客観的なエビデンスを求める今の時代に、そこからこぼれ落ちてしまう個人の経験というものをすくい上げようとする、フィールド哲学(現象学)の可能性を論じています。これは立ち位置が素晴らしいですね。

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数値化はすなわち序列化です。そして序列化した世界に位置づけられる個人は、その位置づけの責任をすべて引き受けなくてはならず、いきおい、「社会規範に従順になることこそ合理的」(p.41)とされるようになってしまいます。新自由主義って、まさにこういう世界観です。

それと対極をなす構え方として、著者は、個別の経験の「概念」を共通の理念として捉えるという、現象学にもとづく方法論的な「普遍」を称揚します。これって、人が他者に開かれるというベクトルですね。共感の世界観に立脚するというか。すると、序列化をめぐって競い合う人間ではない、相互にケアしあう人間、ケアの一般化が導かれることになるのでは、というわけです。どちらが豊かかは言うまでもありません。

少し前に、東京新聞で、哲学者の鷲田清一が、「それってあなたの主観ですよね」という、今や小学生すら使う論法の、視野の狭さ、議論としての貧しさを指摘していましたが、そのことも同じ問題圏をなしていると思われますね。客観ばかりを振りかざして主観的な認識を排除しようとすれば、主観的だからこその新しい着眼点、未知なる論点などに気づくこともなくなり、互いに考え合うという議論の本筋も失ってしまう、というわけです。客観的なデータはときに必須でもあるけれど、主観的な解釈がもたらすものも、それに勝るとも劣らないということを、もう一度かみしめたいと思います。

 

増殖する廃墟たち

(初出:bib.deltographos.com 2023/10/15)

kindle unlimitedで、『幽幻廃墟』(星野藍、三才ブックス、2018)という写真集が出ていました。これはいいですね。旧ソ連の未承認国家などを中心に、廃墟と化した様々な建造物をめぐっていくというものです。

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以前、『スポメニック』(旧ユーゴの巨大建造物)というガイド本を取り上げたことがありますが、こういう廃墟写真は、変な言い方ですけれど、一見すると何やらひっそりとしたたたずまいに、どこか心癒やされそうな印象を醸してくれます。人がいなくなったあとも続く、悠久の時間の端緒に触れる思いがするからでしょうか。でも、そうとばかりも言っていられない、複雑な感情も次第に呼び覚まされます。

この『幽幻廃墟』では、まさに紛争の地の残骸が数多く取り上げられています。ウクライナもそうですが、アゼルバイジャン内のアルメニア系住民の飛び地、ナゴルノ・カラバフもそうです。この後者では、つい数週間前、アルメニア系住民が大量に国外脱出を果たし、新たな廃墟が「増殖」してしまったばかりです。

「増殖」という言い方は適切ではないかもしれませんが、廃墟の静けさやそのたたずまいには、戦と破壊の記憶が刻み込まれているわけで、そのことが内的に広がってくるような、そんな焦燥感のような、名状しがたい感覚を覚えます。

今また、パレスチナとイスラエルの戦争が始まっています。廃墟は「増殖」することをやめないようです。まるで、いつか地上全体がそうした廃墟に覆われてしまうまで、それは続いていくかのようです。