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「東京裁判における通訳」

武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房、2008)を読む。みすず書房は通訳学関連本をいくつか出し始めていて、改めてちょっと注目かしら。今回の同書は東京裁判の通訳体制の詳細を論じた初の本ということで、なかなか興味深い。ニュルンベルク裁判は同時通訳体制ができていたというけれど、東京裁判は逐語通訳だったのだそうで、通訳そのものは外務省関係者やGHQで翻訳をやっていた人たち、つまりは日本人で、通訳モニター(チェッカー)役に日系二世の人々がたずさわり、その上に言語裁定官という日本語を学んだアメリカ人が就いたのだという。この言語裁定官というのには、日常会話程度しか日本語ができないアメリカ人が就いたりしたのだという。末端にあった日本人の方がはるかに矜恃も能力も上だったという話もあるし。「米軍は敵国の言語をよく学ばせていた」という通説も、もしかしてそれほどのものではなかったのかも、なんてことを思わせたりもする。

同書で一番の読ませどころは、東条英機の裁判記録や音声記録から、通訳業務やモニターの介入、言語的な混乱や対応のディテールを拾ったという第4章。基本的に社会学的な視点でのまとめなので、それぞれの行動や力関係に力点が置かれた記述になっているけれど、これ、見方を変えると通訳が現場で実際に出会う様々な実際的問題の具体例にもなっている。つまり同書で示されている誤訳や訂正などの動きは、今も昔も変わらない通訳技術の問題として検証するにも値するかな、と。個人的には、そういうまとめ方を期待して読んでいたのだけれど……(ぜひ、そういう方向でのまとめも今後お願いしたいところ)。でも、それだと東京裁判の具体像が薄れてしまうわけで、初の研究書としてはこれで良かったのだろうなとも思う。