「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

通俗的唯名論(雑感)

『クーリエジャポン』の2月号を見ていたら、森巣博「越境者的ニッポン」という連載で、枕部分に、ネオコンに通底する考え方としてサッチャーの言葉だという一句が引かれていた。「社会なんてものは、ない。あるのは個人と家族だけだ」というのがそれ。うーん、びっくり(笑)。そんなことをノタまっていたとは知らなかったなあ。なるほどこれは通俗的な意味での「唯名論」だ。これがネオコン思想に結びつくというのは合点がいく。自己だけがすべてであとは存在しないというわけか。まあ、もちろん唯名論的には、ごくごく大雑把なもので(だから通俗的というわけなのだが)、「オッカムの剃刀」をご都合主義的に適用し、恣意的なサイズでふるってみせているわけだけれど、やはりこういうのは同じ唯名論的な視座からも批判されなくてはならないだろうなあと改めて思う。そう、もう一段ギアチェンジをして、「個人なんてものすらもしかしたらないかもしれない、あるのはある種のプロセスだけかも」とするとかね。ここで通俗は通俗なりに、実在論的な反転(ドゥルーズの通俗版のような)が生じうるというわけで(笑)。

……とそういうふうに記してハタと気がつくのは、昨日の『イカの哲学』にあった「エロティシズム態」なる用語で語られていたものが、その通俗的な実在論的反転に重なってくるということ。他の生命をモノとか商品とかに還元しない方便というのは、声高に「生命の尊重」みたいなことを唱えるという平常態的対応もあるだろうけれど、もう一つ、案外そういう通俗的唯名論の反転の方途もあるかもしれないあなあ、なんて。あらゆるものをモノ・商品と捉えると、さしあたり自分までもがその範疇に入ってしまい、あらゆるものが売り買いのトランザクションでしかなくなり、さらにその売り買いを見据えるなら、不思議とそこに流転する流動体のようなプロセスが見えてきたりして、すべてが流れの中にあることがわかり、まるで同じ一つの生命現象のように重なって見えてくる……とかならないもんだろうか。いやいや、これはいわば「エロティシズム態」的妄想ですけどね。うーむ、さてそろそろ平常態に戻るとしようか……(笑)。

ガラパゴスの徹底化?

先日のエントリ「外国語研究の本義」では「広田先生を突き詰め、反転させるのだ」なんて書いたけれど、どうも「脱構築」とか「反転」とか言ってしまうと、それはそれで一種の思考停止とも取られかねないので、もう少し具体的に言ってみよう。たとえば、日本国内で多くの研究者がよってたかって独自の研究を行い、英語圏などにひけを取らない研究成果を「あくまでひたすら日本語で」集積し、英語圏側に比肩できるほどに成長したら、逆に英語圏側も、現状のようにまったく無視はできなくなるのではないか、ということ。普遍語が猛威をふるうような状況で、あらゆる現地語が対抗しうる唯一の方途というのは、普遍語におもねって結果的に頭脳流出を招くようなことではなく、むしろ現地による考察の牙城をきっちりと築くことなのではないかしら、と。個人よりも集団で存在感を高めていくというわけだ。

実際、少し前の時代のフランス文学とかフランス史学などでは、卓越した一握りの著名な先生方が、必ずしも多くの仏語論文を発表せずとも、両国間交流を通じて、本国側の研究者にもそれなりに一目置かれる、といった状況があったはず。そういうコアな研究者たちを通じて、「なるほど日本には優れたフランス文化研究者がいるのだな」という認識が、今よりもフランス本国の関連学界で共有されていた(ように思う)。けれども、そういう人たちが数の上で限られていたこともあり、またより若い世代が人的交流の活発化に伴って早い段階から本国を意識するようになり、結果的に「一目置かれる」という状況は早々と薄らいでしまったのではないかしら、と。

本当は「一目置かれる」状況をもっと拡張して、より集団的に「日本の学界は結構やるじゃん」みたいに言われるところにまでもっていけばよかったはず。つまりはこれが、各人が内向きさを徹底することで、逆に集団的な認知を対外的に促すという「反転」の一例になるだろう。「それでは素朴すぎる」と言われるかもしれないし、確かに理想論ではあるけれど、現状のような中途半端な生煮え状態ではどうしようもないだろうし、教育・研究の現場が解体するよりはよっぽどましというもの。日本語での学問的営為はよくガラパゴスに譬えられるけれど、徹底化すればガラパゴスだって貴重な存在になれるはず(本物のガラパゴスだってそう(笑))。というか英語以外、フランス語なども含めて「現地語」が今後取るべき方向はそういうところにしかないような気もするのだが……。

どうすればそういう方向にもっていけるか、と考えてみて、あえて一つとっかかりを言うなら、人文系を中心に、とにかく研究活動と大学関連の就職という結びつきを徹底的になくしてしまうのはどうだろう。現状では、博士号を取らないと就職できないといった条件のせいで、あらゆる学生を博士号取得に駆り立てる一方、大学での教職ポストの供給が追いつかない現実は棚上げにされている(と聞く)。なら、むしろ博士号なんか出さず、あるいは出しても就職と関係ないところで出し(それって昔みたいだけれど(笑))、就職は「必ずしも専門は生かせないだろうけど」という条件付きで、たとえば初等・中等教育の教師なら保証するよ、みたいにしておく(そういうセーフティ・ネットくらいは用意しろよ)。で、一定の「試験」などを課して大学の教師にもなれるような仕組みも合わせて作っておく。モデルはそう、フランスのアグレガシオン制度をベースに手直しするみたいな。とにかく、研究の営為を、さしあたりの死活問題である就職問題から切り離すことが、ガラパゴス徹底化の第一歩になるのでは、と。管見にて御免(”my two cents”ですな)。

外国語研究の本義……

なにやら話題らしい(?)水村美苗『日本語が亡びるとき–英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)を読んでみた。文学研究も含めた学問の世界で英語が事実上のスタンダードになっている現状の中で、フランス語も日本語もすべて単なる<現地語>へと凋落するという構造的な危機感を、作家・文学者としての大きな視点から述べたもの。最初の個人的体験部分は作家的にヴィヴィッドに書かれ、中盤以降の<国語>(国民国家において自分たちのものと思われている言語)成立論は学者的筆裁きでまとめ上げ、最後は、短期間で西欧語に並ぶ<国語>にまで押し上げられた日本語は希有の存在だとして、どこかイデオローグ的な雰囲気(こう言うと語弊はあるが)でもって教育による保全を訴える、という構成になっている。

読んでみていろいろ思うことはあるけれど、一番のポイントは、外国語・外国文学研究が(古典学なども含めて)構造的・本質的に「内向き」なものだということでしょうね。近代日本において大学が翻訳者養成機関であったというのも当然で、おそらく外国語研究を志せば誰もが一度は考えることだろうけれど、構築されるインターフェースは双方向ではなく一方向であることが当然とされてきたし、それは学問的な構造としてそうなっていたはず(良くも悪くも)。問題はそういうインターフェースを双方向性に変化させていく方がよいのかどうか、という点だけれど、学問的姿勢としての厳密な双方向性などというものは、そうした領域では構造上あり得ないようにも思える。グローバル化で外国人研究者との交流が増えるというのは、そういう学問的本義とはまったく違う話。で、肝心なのは、むしろ積極的にそういう「内向き」姿勢そのものを刷新(脱構築?)していくことなのでは、と個人的には思ったりもする(笑)。つまりは外国語とのすり合わせを通じた日本語の彫琢と、その精緻化を再び押し進め、日本語の「思惟されない残滓」への考察を一歩だけでも進める、みたいな。よく英語に比べて日本語の論理展開が縺れた糸のようだと言われたりするけれど、そのあたりへの対応を含めて、日本語の言語空間の彫琢の可能性はまだまだ残っている(と思う、というか思いたい)。つまりはこうだ。漱石の『三四郎』に出てくる「広田先生」を、とことん突き詰め、反転させるのだ!(笑)。もちろん研究対象の言語や<普遍語>となった英語で論文を書くという営為もオプションとしてはあるだろうけれど、しょせんは外国人研究者との広い意味での交流の次元に止まるような気がする。そりゃ外国の大学に就職したいと思うならそういうことが必要だろうけれど(それはそれで茨の道だろうけれど)、それが本流にはならない・なりえない気がする。でもま、そういう刷新力を高めるには、まず大学とかの制度がしっかりするのが前提だろうけれど、今はとうていそういう状況ではない、みたいな話ばかり聞こえてくるからなあ……。先は暗い、のか?

人相学……

初夏くらいに出て、ちょっと気になっていた浜本隆志ほか編『ヨーロッパ人相学−−顔が語る西洋文化史』(白水社、2008)をやっと読む。良い意味で期待を裏切られた感じ。アリストテレス以来の観想学の歴史が細かく語られていくのかと思いきや、それは第一章(ルネサンスまで)と第二章(近世以降)でさらっと手堅くまとめ、あとの4つの章はテーマで切っていくという趣向。メドゥーサ、グリーンマン、ガーゴイルの話が出るかと思えば、アルチンボルドーや鏡像、仮面の話、パーツの意味作用の歴史(ヒゲ、赤毛、邪視などなど)と、実に広範な話題で飽きさせない。

まず、アリストテレス観想学からルネサンスの占星術的要素の取り込みへの推移、さらにその魔術的要素の後退というあたりはとても興味深く、もっと詳しいものを読みたいところ。17世紀にかけて生じたという、固定的な性格や気質の読み取りから、瞬間的な「表情」と感情の結びつきの定式化へのシフトといった問題は、なかなか気になるところ。演劇やオペラでも、17世紀から18世紀にかけて、人物描写がそういう感じでシフトするという話があったけれど(とりわけその完成形としてのモーツァルトとか)、そのあたりとパラレルな動きということにもなりそう。

グリーンマン(中世の教会建築の装飾に見られる、植物と一体化した顔の彫刻)の話もとても気になる。その部分の担当著者はこれまでの様々な解釈を開陳してみせるけれど、決定打はいまだにないようで。先の『芸術新潮』ノルウェー特集で登場した実証的な研究者からすれば、「すべて装飾で意味はない」と一蹴されるのかしら……。これまた先のパストゥローなどに倣うなら、あるいはグリーンマンを指すなんらかの言葉(中世でそれがどう呼ばれていたかは不明だが)があって、それとの類推で成立した図案なのかも、といった素人考えも浮かんできたり(笑)。うーん、実際のところ、何かそれを指す名称があったはず……なんてことを考えるのは無上に楽しい(笑)。

ビブリオメトリー問題

Le Monde diplomatique12月号をずらずらっと眺めていたのだけれど、巻末を飾っている記事を見て、うーん、フランスもか、という思いに……。ピエール・ジュルド「いかに『今月の研究者』になるか」という文章なのだけれど、要するにこれ、アメリカ式の研究業績評価をフランスも導入するという話で、それに対する反対運動が起きているというレポート。その場合の研究業績評価というのが、学術誌をランク分けして、ランクの高いもの順に、掲載された論文の数などで点数が決まるというやり方(さらには引用数を加味するのだとか)。この文章では「ビブリオメトリー」という用語でそれを表している。理数系では昔からある方式を、人文社会系にまで適用するというので軋轢が生じているという、すでにどこかで聞いた話(笑)。だけれど、これに各方面から反対ののろしが上がっているというところだけはさすがフランス。で、この圧力を受けて、評価を担当する研究・高等教育評価局(そんなのが出来てるんすね)はすでに、フランス文学と比較文学についてはとりあえず学術誌の格付けを保留しているとか。

反対理由の一つには、アングロサクソン系の学術誌の過大評価が挙げられている。そのため論文がそちらに集中し、結果的に評価と論文集中のスパイラルが生じる。フランス語で書かれた周辺国の学術誌などは低い評価に貶められ、二極化がますます進む……と。このあたり、学問的覇権が事実上英米に奪われていることが如実に窺える。やはり基本的に、財力(研究予算とかの)とそれに伴う象徴的権限(成果がもたらす)との相乗関係が大きく関係しているような感じはする。となると、今回の景気後退で状況は変わるかも……。なら、再度の覇権奪取に向けてフランスは(というかEUは)、米国流の定量方式に追従するのでなく、それに替わる別の評価方法を考案しないとね。定量方式でもなく、かといって徒弟制度みたいな閉鎖的なものでもない第三の道って、本当にないのかしら?

081201-3