「占星術師」たちの合理主義

また少し間が開いたけれど、ヴェスコヴィニ『魔術的中世』もいよいよ終盤。後半はひたすら占星術関連の話が展開している。プトレマイオスから始まり、イスラム最大の占星術師ことアルブマサル(アブー・マアシャル)、さらに12世紀にその著書がラテン語に翻訳されて西欧に伝わり、後のアーバノのピエトロなどが登場する、といった全体的な流れだけれど、これらの主要人物たちがいずれもある種の合理主義的でもって、占星術というものを構築もしくは解釈していることが強調されている。これが同書の後半を貫く基本姿勢になっている。そもそものプトレマイオスからして、占星術は天文学の中に位置づけられる経験則的な自然の学であるというスタンスを保っていたし、アブマサルはイスラム信仰、新プラトン主義、ストア派、アリストテレスの教義など諸要素を借りて、それをコスモロジー的に統合し、普遍・一般的な学としての占星術を練り上げた、とされる。それが魔術的な要素と混同されるのは後世の人々の誤解によるもの、というわけだ(西欧では、セビリアのイシドルスやサン=ヴィクトルのフーゴーなどからすでにして、占星術の実践的側面が貶められていたとのこと)。

アーバノのピエトロもまた、そういう文脈にあって、占星術を魔術から切り離そうとした人物として描かれている。ピエトロにとっての占星術は理論と実践を繋ぐ学としてあり、同じく手作業の学として蔑まれていた医学も同様の学として弁護されているという。魔術的要素が結びついてしまうのは想像力のせいであり、本来はそのようなものではない、というわけだ。ピエトロが「魔術師」みたいに言われるのは後世(16、17世紀)ごろの誤解にもとづくイメージのせいで、実像は違うというのがヴィスコヴィニの立場。ま、今ところその点について判断材料を持ち合わせていないのだけれど、そういえば以前読んだオリヴィエリ『アーバノのピエトロとネオラテン思想』なんてのも、アリストテレス解釈者としてのピエトロに焦点を当てたものだったっけ。

とりわけ16、17世紀に盛んになるという医学占星術については、以前から少しばかり興味を抱いていた。おおもとはプトレマイオスの『テトラビブロス』だけれど、その後の古代末期とか中世での展開というのがよく見えてこないなあ、と、これもピエトロが一つの結節点をなしているのは間違いないようで、少しちゃんと読んでみたいと思っているところ。サレルモの伝統の次はパドヴァの伝統が重要になる、ということかしらね。実は少し前に、ピエトロの医学書『哲学者と医者の間に生じた論争の調停の書』(“Conciliator differentiarum quae inter philosophos et medicos versantur”)(略して”Conciliator”)の1565年版のリプリント版を入手したので、来年はこれを少しづつ読んでいきたいと思っている。

聖セシリアに捧ぐ歌

11月のミンコフスキー&ルーヴル宮音楽隊の来日公演は行けずに残念だった(なかなか面白い公演だったと聞く)。で、そんなわけでその組み合わせの最新録音を聴く。『パーセル、ヘンデル、ハイドン – 聖セシリアに捧ぐ』(To Saint Cecilia – H.Purcell, Handel, Haydn / Marc Minkowski, Les Musiciens du Louvre, Lucy Crowe, etc)。季節的にはちょうど一ヶ月遅れ。というのは音楽の守護聖人とされる聖セシリア(チェチリア)の祝日は11月22日だから(苦笑)。それにしても、この聖人をテーマとした曲を、今年がメモリアル・イヤーだったヘンデルとハイドン、パーセル(実はこちらも生誕350年)からもってきたところが憎い(笑)。そんなわけで二重・三重に楽しめる二枚組。演奏はもうまったく文句なしという感じだし、三大作曲家のそれぞれの持ち味がとてもよくわかる趣向(全体的に凝った凛々しい音楽のパーセル、メロディ・メーカー然としたヘンデル、そして堅実かつメリハリの利いたハイドン)。収録曲はパーセル「万歳、輝かしきセシリア」、ヘンデル「聖セシリアの祝日のためのオード」、ハイドン「聖チェチリア・ミサ』。パーセルが個人的には好みなのだけれど、ヘンデルもときにとても美しいし、ハイドンのミサ曲も意外にいいなあと。

ジャケット絵はラファエロの「聖チェチリア」の部分。1513年ごろの一枚。元絵では、聖チェチリアの周りをパウロ、ヨハネ、聖アウグスティヌス、マグダラのマリアが囲んでいる。

マイモニデスのコスモゴニー

ケネス・シースキンという人の『マイモニデスによる世界の起源』(Kenneth Seeskinm, “Maimonides on the Origin of the World”, Cambridge, 2005を読み始める。マイモニデスのコスモロジー系の話なのだけれど、基本的には概説書という感じ。長さも200ページちょいだし。 創造神、『ティマイオス』、アリストテレスの世界の永続性、プロティノスなど、創成神話の諸テーマをめぐりながら、マイモニデスのスタンスをそれらとつき合わせて確認・整理するというもので、マイモニデスの合理主義的な立場がいかにそれらのテーマを批判しているかに重点が置かれているように思える。うーむ、正面切ってのマイモニデスのコスモゴニー思想を論じるというのを期待していたので、少し違う感じも(苦笑)。とはいうものの、全体的な整理としてはなかなか有益かもしれないなあ、と気を取り直してもう少し読み進めようかと思っているところ。

それにしてもマイモニデスは欧米では哲学史のごく薄い概説書にすら名前が出るほどメジャーだったりし、時にちょっと意外な感じを受けることもある。そういえば少し前に読んだマニュエル『ニュートンの宗教』でも、ニュートンの宗教論的ベースの一つにマイモニデスの合理主義があるとされていた。カバラやグノーシス、果てはプラトン主義へと批判の矛先を向けるニュートンにあっては、とりわけ流出論などがやり玉に挙がるのだけれど、その際の議論は、初期教父のほかマイモニデスなどの考え方を踏襲しているのだという。その文脈でも同じくマイモニデスの「合理主義」が強調されていたけれど、うーむ、このあたりはどうなのか。個人的には、マイモニデスの個々の議論などからはもっと違う側面も感じられるような気がして、一概に「合理主義」と言われてしまうと、どこか違和感をが感じられてくるのだけれど……?

「カルデア教義の概要」- 6

/ Τὸν τε ᾅδην πολλαχῶς καταμερίζουσι· καὶ νῦν μὲν αὐτὸν θεὸν ὀνομάζουσιν ἀρχηγὸν τῆς περιγείου λήξεως· νῦν δὲ τὸν ὑπὸ σελήνην τόπον ᾅδην φασί· νῦν δὲ τὴν μεσότητα τοῦ αἰθερίου κόσμου καὶ τοῦ ὑλαίου· νῦν δὲ τὴν ἄλλογον ψυχήν, καὶ τιθέασιν ἐν αὐτῇ τὴν λογικήνμ οὐκ οὐσιωδῶς, ἀλλὰ σχετικῶς, ὅταν συμπαθῶς ἔχῃ πρὸς αὐτὴν καὶ προβάλλῃ τὸν μερικὸν λόγον. Ἰδέας δὲ νομίζουσιν, νῦν μὲν τὰς τοῦ Πατρὸς ἐνννοίας, νῦν δὲ τοὺς καθόλου λόγους, καὶ φυσικοὺς καὶ ψυχικοὺς καὶ νοητούς· νῦν δὲ τὰς ἐξῃρημένας τῶν ὄτων ὑπάρξεις. Τοὺς δὲ περὶ μαγειῶν λόγους συνιστῶσιν ἀπὸ τε ἀκροτάτων τινῶν δυνάμεων ἀπὸ τε περιγείων ὑλῶν. Συμπαθῆ δὲ τὰ ἄνω τοῖς κάτω φασὶ καὶ μάλιστα τὰ ὑπὸ σελήνην. /

/彼らはまた、ハデスを幾通りにも分割する。それを地上世界全体の主たる神と名付けることもあれば、月下世界をハデスと言うこともある。エーテルの世界と物質的世界との中間をそう呼ぶこともあれば、非理性的な魂をそう呼び、その中に実体的にではなく関係的に理性的魂を置くこともある。この後者が前者に対して共感をもち、特殊な理性を発するときである。彼らがイデアと考えるものは、「父」の思惟であったり、普遍的な理性、または自然学的、心的、知的理性であったり、存在の超越的な実体であったりする。彼らはまた、魔術に関する言葉をなんらかの至上の力から、または地上世界の物質から作り上げる。彼らは高き世界から低い世界への共感、とりわけ月下世界の共感があると言う。/

リュートtube – 10 「かの聖母を讃えよ」

アドベントのこの時期は、個人的にはシュトーレンとか食べまくり(笑)。……なんてことは置いておいて、例のノルウェイの奏者trolabe氏が、この時期ならではという感じの演奏(と映像)をアップしている。なんとも切ない旋律をしっとりと奏でていて秀逸。曲は16世紀の英国もの。これが入っているという「William Ballet’s Lute Book」というのは、1590年ごろの曲集だとか。アイルランドのトリニティ・カレッジなどに写本があるそうで、アイリッシュな曲なども収録されているものらしい。