このところの諸々(2)

*ヴィンチェンツォ・ガリレイ(ガリレオの父)が著した『フロニモ』(1584)の邦訳(菊池賞訳、水戸茂雄監修、東京コレギウム、2009)が出ている。これ、対話形式の音楽論なのだけれど、リュート譜がふんだんに差し挟まれているので、本当は楽器を弾きながら少しづつ読み進めるのが理想の本。ま、なかなかそうもいかないのだけれどね(苦笑)。個人的には先にリプリント版をゲットしたので、合わせて見ていきたいと思っているところ。なかなか時間が取れないけれど。

*その監修者でもある水戸氏(リュートの師匠)は、この秋に新譜『Let’s traval around Europe by Lute Music – Part II – Baroque Era』も出している。ゴーティエやガロといったフレンチものから、バッハ、ヴァイス、バロンまで、実に精力的な選曲。逆輸入になるけれど、アマゾンでは現在在庫切れ表示になっているのがちょっと残念(これって昨年出たpart I – ルネサンス編なのか、今年のpart II – バロック編なのかわからないのも問題だよね)。

*クリント・イーストウッドの新作『グラン・トリノ』をやっと観る(レンタルDVD)。いや〜、やっぱりイーストウッド映画は良いわ〜、と改めて素直に喜ぶ(笑)。本作は『センチメンタル・アドベンチャー』などに連なる系譜の作品。でも以前のどこかあざとい(なんて言うとちょっと語弊もあるけど)設定や演出はなく、とても自然に話が進む。ちょっと前に『チェンジリング』とかも観たけれど、「過去の問題を乗り越えようとしてさらに大きな問題を抱える」みたいな構図は健在ながら、その中にたとえ皮肉なものであっても、ごく小さなものであっても、なんらかの救いが示されるというのが最近の境地なのだろうなあ、と。

このところの諸々

*メルマガのほうで出てきたダマスクスのヨアンネスの小品『キリストの二つの意志、二つの本性、一つの位格について』は、TLGだけ見て「なんか見あたらないなあ」と思っていたら、Documenta Catholica Omniaのサイトにpdfファイルがあった(苦笑)。ファイルはこちら。イコン論とか『正統なる信仰について』などもいいけれど、ヨアンネスの小品というのもなかなか味わいがある。ギリシア語も比較的読みやすいし(笑)。小品めぐりをしてみるのもいいかもなあ、なんて思っているところ。

adam takahashi’s blogの9日のエントリで、τὸ θεῖον(神的なもの)のアラビア語訳がالشي الروحي(スピリチュアルなモノ)になっている場合があるという話を見て、ちょっと妄想気分が高まった(苦笑)。θεῖονを辞書で引くと、θεῖοςの中性形とは別に「硫黄」「硫黄の煙」を表す同形異義語があり、バイイの希仏辞書によると、古形に(疑問符つきながら)「息をする」の意味があったかも、みたいな話もある。ちょっとこのあたり、もう少し詳しく確認したいところだけれど(バイイでは、テオフラストスの『匂いについて』という書が挙げられていたりする)、案外この同形異義語が、アラビア語訳でのروح(スピリット、プネウマ)の訳語を導いた可能性もありそうな気がするなあ、と。さらに英語で「悪魔は硫黄臭がする」みたいに言ったりするのも(その表現、チャベス大統領がブッシュのことをそう言ったみたいな話もあったし、ホラー映画『エミリー・ローズ』とかにも出てきた)このあたりの絡みがあるのかもしれないなあ、なんて。

音楽史の書き換え……

就寝前読書から。石井宏『反音楽史』(新潮社、2004)を読了。18世紀から19世紀を中心に、音楽史のいわゆるビッグネームがいかに「ドイツ史観」に染まったものにすぎないかを示し、同時代的な実像はどうだったのかを切々と説いた一冊。西欧では長らく「音楽の本場はイタリア」とされていたのに、ドイツの音楽史家たちがその事実を黙殺・抹殺してきた流れがあるという。その礎を築いたのは、ロマン派系のドイツ人たちで、たとえばシューマンたちはロッシーニとかをかなり低く評価していた。ソナタ形式なども、本来はイタリアで成立したもの(オペラのアリア形式を器楽に取り込んだ)というが、いつの間にかそれがドイツ人の発明として「簒奪」されてしまうという。そんなわけで、たとえばヴィヴァルディが再発見されたのは20世紀になってからにすぎず、しかもそれをなしたのはレコード会社だったという。18世紀当時、大バッハが無名だったという話は有名だけれど、一方で同時代的に著名人となったのはバッハの後妻の末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハなのだそうで、イタリア留学を果たし(ドイツの音楽家が世に出るためにはイタリアで箔を付けないといけなかったという)、ロンドンで名声を得ているという。今年がメモリアルイヤーだったヘンデルも、J.C.バッハに先んじて同じくイタリア留学を果たし、同じくロンドンで出世する。やはりメモリアルイヤーのハイドンは、そうした留学経験がなく、ハンガリー貴族のもとで50年あまりを過ごし、やっとのことで国際的評価を得る。けれどもそこに大量に寄せられた注文は、音楽会用序曲(シンフォニー:会場のざわめきを鎮めるためのもの)と弦楽四重奏曲(結局はBGM)にすぎなかった……などなど。

音楽史もまた様々なイデオロギー的影響を受けざるを得なかった、という話なわけだけれど、そうしたものとは別筋の歴史も徐々に書かれてきつつある感触もあり、同書などはそうした様々な知見をふんだんに取り込んでいる一冊ということになるのだろう。翻ってみれば、音楽史にかぎらず、中世史とか中世思想史、あるいはルネサンスや近世などについても、従来の「正史」の偏りや間隙などはこれからもやはり大いに問い直されていくのだろうなあと思う。いろいろと楽しみは尽きそうにない(笑)。

「カルデア教義の概要」 – 5

/ Εἱ γὰρ κατὰ τὸ λόγιον μοῖρα ἐστι τοῦ θείου πυρὸς καὶ πῦρ φαεινὸν καὶ νόημα πατρικόν, εἶδός ἐστιν ἄϋλον καὶ αὐθυπόστατον. τοιοῦτον γὰρ πᾶν τὸ θεῖον, οὗ μέρος ἡ ψυχῇ· καί πάντα φασὶν εἶναι ἐν ἑκάστῃ ψυχῇ, καθ᾿ ἑκάστην δὲ ιδιότητα ἄγνωστον ῥητοῦ καὶ ἀρρήτου συνθήματος· καὶ καταβιβάζουσι δὲ τὴν ψυχὴν πολλάκις ἐν τῷ κόσμῳ δι᾿ αἰτίας πολλὰς· ἣ διὰ πτερορρύησιν, ἢ διὰ βούλησιν πατρικήν. Δοξάζουσι δὲ τὸν κόσμον ἀΐδιον καὶ τὰς τῶν ἄστρων περιόδους. /

/神託においてそれが神の火の部分をなし、燃えさかる火、父なる思惟であるとするなら、その形相は非物質的であり、みずから存在する。というのも、神的なものはすべてそのようであり、魂もその一部であるからだ。またそれぞれの魂にはすべてがあり、それぞれが、言葉に発しえたり発しえなかったりする象徴の、不可知の個別性を擁している、と彼らは言う。それらはしばしば、羽根の落下や父の意志など、様々な理由から魂を地上世界へと降下させる。彼らは、世界は永遠で、星の周回も永遠であると考える。/

コンベンショナルな世界?

外出時などの空き時間読書ということで飛び飛びに読んでいた松本章男『道元の和歌』(中公新書、2005)。体裁としては、道元が詠んだ和歌を、その生涯のエピソードや歴史的背景、想定される道元の心象風景から解説するという、ある意味とてもオーソドックスな入門書。読み始めると、「こういうのを読むと和歌も作ってみたくなるなあ」なんて思ったりもしたのだが……(そう思うのはそれなりに歳食ったからかしら)(苦笑)。道元の和歌、一見すると意外に素朴な自然を詠んでいるように見え、逆にその思想的な先鋭性とどこか相容れない感じが次第に強くなってくる(道元の仏教的世界観での自然は、すべからく流れとしてある、みたいな話じゃなったっけ?)。で、同書の解説を追っていくと、徐々にそこからある種の技巧の体系という側面が浮かび上がってくる。あたかも一切がコンベンションの世界であるかのように……。

たとえば「都にはもみぢしぬらん奥山は昨夜も今朝もあられ降りけり」という句の解説には、都のもみじから奥山を思うという趣向の古い神遊びの歌や藤原俊成の句が紹介され、道元は「古来の歌の着眼点をいわば倒置しているところが新しい」(p.80)と記されていたりする。「冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのが姿に見を隠しつつ」という句では、中国の禅僧が夜を徹して雪の中で達磨を礼拝したという話を絡めて解説している。この句は垂訓ではないかというわけだ。それぞれの句がどれもこんな感じだとすると、表面的な詩句を指すのはもはや自然物ではなく、かなり複雑な参照体系ということになりそうだ。なるほどインターテキストって奴ですな。うわー、これもまた参照元を知らなければ何もわからないという世界かも(苦笑)。安易に和歌を作ろうなんて思ってはいかんかもね、と反省する。