断章8

Πᾶν τὸ γεννῶν τῇ οὐσίᾳ αὐτοῦ χεῖρον ἑαυτοῦ γεννᾷ, καὶ πᾶν τὸ γεννηθὲν φύσει πρὸς τὸ γεννῆσαν ἐπιστρέφει· τῶν δὲ γεννώντων τὰ μὲν οὐδ᾿ ὅλως ἐπιτρέφει πρὸς τὰ γεννηθέντα, τὰ δὲ καὶ πρὸς ἐκεῖνα ἐπιστρέφει καὶ πρὸς ἑαυτὰ, τὰ δὲ μὸνον ἐπεστραπται πρὸς τὰ γεννήματα εἰς ἑαυτὰ μὴ ἐπιστρέφοντα.

みずからの本質によって生み出すものはすべて、おのれに劣るものを生み出し、生み出されたものはすべて、その本性により、生み出したものへと向き直る。生み出すものには、生み出されたものへといっさい向き直らないものもあれば、そちらに向き直ったりみずからに向き直ったりするものもあり、生み出されたものにのみ向き直り、みずからには向き直らないものもある。

通俗的唯名論(雑感)

『クーリエジャポン』の2月号を見ていたら、森巣博「越境者的ニッポン」という連載で、枕部分に、ネオコンに通底する考え方としてサッチャーの言葉だという一句が引かれていた。「社会なんてものは、ない。あるのは個人と家族だけだ」というのがそれ。うーん、びっくり(笑)。そんなことをノタまっていたとは知らなかったなあ。なるほどこれは通俗的な意味での「唯名論」だ。これがネオコン思想に結びつくというのは合点がいく。自己だけがすべてであとは存在しないというわけか。まあ、もちろん唯名論的には、ごくごく大雑把なもので(だから通俗的というわけなのだが)、「オッカムの剃刀」をご都合主義的に適用し、恣意的なサイズでふるってみせているわけだけれど、やはりこういうのは同じ唯名論的な視座からも批判されなくてはならないだろうなあと改めて思う。そう、もう一段ギアチェンジをして、「個人なんてものすらもしかしたらないかもしれない、あるのはある種のプロセスだけかも」とするとかね。ここで通俗は通俗なりに、実在論的な反転(ドゥルーズの通俗版のような)が生じうるというわけで(笑)。

……とそういうふうに記してハタと気がつくのは、昨日の『イカの哲学』にあった「エロティシズム態」なる用語で語られていたものが、その通俗的な実在論的反転に重なってくるということ。他の生命をモノとか商品とかに還元しない方便というのは、声高に「生命の尊重」みたいなことを唱えるという平常態的対応もあるだろうけれど、もう一つ、案外そういう通俗的唯名論の反転の方途もあるかもしれないあなあ、なんて。あらゆるものをモノ・商品と捉えると、さしあたり自分までもがその範疇に入ってしまい、あらゆるものが売り買いのトランザクションでしかなくなり、さらにその売り買いを見据えるなら、不思議とそこに流転する流動体のようなプロセスが見えてきたりして、すべてが流れの中にあることがわかり、まるで同じ一つの生命現象のように重なって見えてくる……とかならないもんだろうか。いやいや、これはいわば「エロティシズム態」的妄想ですけどね。うーむ、さてそろそろ平常態に戻るとしようか……(笑)。

実存のイカ……

小著だけれど、体裁も中身もちょっと面白い新書『イカの哲学』(集英社新書)を読む。波多野一郎という若くして没した哲学者の哲学的寓話『イカの哲学』を、中沢新一が「解説」するという一風変わった作りの体裁。そのもとの哲学的寓話は著者(波多野)の体験記にもとづくもので、特攻経験を経てアメリカに留学していた日本人学生が、バイト先の水産加工場で陸揚げされたイカの群れを目にしたのをきっかけに、ある種の平和思想に目覚めるというもの。「解説」(?)部分はこれにある種の現代思想風なリファレンスを絡めることによって、そこから大きな「平和学」を取りだそうとするのだが、これがまた注釈・注解を超えて、もとの『イカの哲学』に触発された別様の哲学的寓話になっている感じ(笑)。とりわけ鍵となるのが、援用されるバタイユのエロティシズム論。生き物に内在する、個体を超えようとする連続性の原理を「エロティシズム態」として、個体の維持にのみ奔走する「平常態」と対立させ、両者のせめぎ合い・相克から新しい平和への視座を見つけようとする。なるほど多少論理の飛躍もなきにしもあらずだけれども、「実存の相互理解」といった単純・素朴ながらとても難しい問題を突きつけるというスタンスはちょっと情感に訴えるものもある。それになにより、こうした「埋もれたテキスト」を現代思想風の語りで掘り起こすというのは、企画としてもっと色々あっていいような気がする(笑)。

キケロの自然学へ

今年は年越し本の消化がなかなか進まないなあ……(苦笑)。これもその1つ。角田幸彦『体系的哲学者キケローの世界』(文化書房博文社、2008)。キケロの『アカデミカ』『神々の本性について』、倫理学系の著作のそれぞれについて、いわば注解のように、学派の伝統や社会背景などを潤沢に織り込んで解説したもの。これは原典にあたるとき手元に置いておきたい一冊かも。キケロは折衷主義みたいに言われることが多かったと思うけれど、ここでは基本スタンスとしてその折衷主義に肯定的な意味を付している(これはどうやら世界的な研究動向らしい)。その懐疑主義的姿勢についても、著者は「吟味主義」と言い換えてみせる。個人的には12世紀のキケロ主義の流れという文脈でキケロを読み直そうとだいぶ前から思っているのだけれど(なかなか進んでいないのだけれど)、どうもそれだと倫理学系が重視される感じになってしまうが、この同書を読んで、むしろその『神々の本性について』が重要かも、という気がしてきた。これはコスモロジーも含む自然学の対話編。未読なのだけれど、著者の解説によれば、キケロのテキストには、エピクロス派への共感や自派であるストア派そのものへの批判、アカデメイア派的な姿勢などが複合的に示されているらしい。それにもまして、個々の思想内容、たとえばストア派的な熱(エーテル)の考え方などは、12世紀のコンシュのギヨームあたり(?)に影響しているような印象が強い。うん、キケロのテキストの中世での受容とかも、ちゃんと確認してみたい。

再びアウグスティヌス

先に挙げたマリオンのアウグスティヌス論『自己の場所に』は相変わらず少しづつ読んでいるところ。3章目が終わって全体のほぼ半分。デカルト的な確たる自己というものを措定しきれないアウグスティヌスは、そこに大きく口を開けた深淵、「自己」への到達不可能性を見いだす。記憶すらも、認識・思考の「自己」への現れを担うとされ、「自己」は遅延へと先送りされる……。その場に浮かび上がるのは幸福な生への「望み」だが、その望まれる対象もまた、望まれることによって成立するという構図で、見いだされるのはマリオンの言うところの「飽和した現象」ということに……。執拗なまでに現象学的な言葉に置き換えられるアウグスティヌスのテキストは、なんだか広大な海のようにも思えてくる。『告白録』が導きの糸ではあるけれど、マリオンは様々な著作からの引用でもってそのいくつものうねりを作り上げているというか。うーん、圧巻。まいった。

……すると逆に、そうした置き換えとはまた別のアウグスティヌス解釈も読みたくなってくる。と、その関連もあって、新たに加藤信朗『アウグスティヌス「告白録」講義』(知泉書館、2006)も読み始めているところ。これは『告白録』を、(著者言うところの)心理主義的解釈ではなく、構成的解釈でもって読むという趣向の講義。自伝的部分を神から離れまた帰るという二段階の過程として捉えるというスタンスを提唱しているわけだけれど、これは新たなスタンダードかもしれない、と。こちらもまた、タイプの異なる丹念な読み込みから、後半部分では哲学的な問題へと踏み込んでいくようなので(「メモリアの中での神の場所」という章題がすでにして示唆的だ)、とても楽しみ(笑)。

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