「カルデア教義の概要」- 1

Τοῦ αὐτοῦ Ψελλοῦ ἔκθεσις κεφαλαιώδης καὶ σύντομος τῶν παρὰ Χαλδαίος δογμάτων

Ἑπτα φασι σωματικοὺς κόσμους, ἐμπύριον ἕνα καὶ πρῶτον, καὶ τρεῖς μετ᾿ αὐτὸν αἰθερίους, ἔπειτα τρεῖς ὑλαίους· ὧν ὁ ἔσχατος χθονιος εἴρηται καὶ μισοφανής, ὅστις ἐστὶν ὁ ὑπὸ σελήνην τόπος, ἔχων ἐν ἑαυτῷ καὶ τὴν ὕλην ἣν καλοῦσι βυθόν. Μίαν ἀρχὴν τῶν πάντων δοξάζουσι, καὶ ἓν αὐτὴν καὶ ἀγαθὸν ἀνυμνοῦσιν. Εἶτα πατρικὸν τινα βυθὸν σέβονται, ἐκ τριῶν τριάδων συγκείμενον. Ἑκαστη δὲ τριὰς ἔχει πατέρα, δύναμιν καὶ νοῦν. /

「同じくプセロスによる、カルデアの教義に関する要点的かつ簡潔なる説明」

物質的世界は七つあると彼らは言う。まずは第一の燃えさかるものがあり、その次に三つのエーテル状のものがあり、続いて三つの質料的なものがある。そのうちの最後のものが地のもの、明かりを嫌うものと言われる。それは月下世界であり、深淵と彼らが呼ぶ物質をみずからのうちに宿している。彼らはすべての始まりは一つであると信じ、それを一者および善として讃える。次に彼らはなんらかの父なる深淵を崇める。それは三つの三対から成り、三対のそれぞれは父、力、知を擁する。/

「ポッペアの戴冠」

2008年のグラインドボーン音楽祭で上演された『ポッペアの戴冠』(モンテヴェルディ/L’incoronazione De Poppea: Carsen Haim / Age Of Enlightenment O De Niese CooteをDVDで数回に分けてと観た。「舞台映えする」と評価されるダニエル・ド・ニースが肉感的に転げ回っているのが印象的(笑)。また、従者たちが性別を入れ替えて演じているのが面白い。ミニマルな舞台美術で、でかい布一枚がいろいろな場面を構成したりもする。エイジ・オブ・エンライトンメント・オーケストラは小編成ながら味わい深く、歌もいい。カメラで人物がアップになったりするときに、演出の細やかさもよくわかる(舞台を生で見ている人はそこまでわからないんじゃないかしら?)。指揮のエマニュエル・アイムはチェンバロの弾き振りで、なかなか堂に入っている感じ。パフォーマンスは全体的に高水準のようで、舞台もとてもセクシャルかつ緊張感のある優れもの。だけれど、個人的にはやっぱり入っていけないっすねえ、この世界。

『ポッペアの戴冠』は2回ほど実演を観たこともあるのだけれど、毎回なんというか、ポッペアが脳天気に描かれるほど、その脳天気さゆえにもたらされる悲劇の部分がとても不条理に見えてくる。セネカを死に追いやった後で、ネロとの関係を阻むものがなくなったとはしゃぐ姿なんか、かなりのグロテスク。というか空恐ろしい。ポッペアが政治的な野心をもっているように描かれるのならまだしも、情念に素直にしたがうだけで、そのツケがすべて、ネロの冷徹さを通じてすべて周りの人々に押しつけられていくようにしか見えない……と。うーん、こういう人物造形とこういう筋立てで、いったい何を描こうというのか、モンテヴェルディ。そもそもの元の意図がよくわからない。まあ、これがルネサンスからバロック的な逸脱感への移行ということなのだと言われればそれまでだけれど……。

でもこのプロダクションでは、演出のロバート・カーセンはなにやら最後にちょっとした皮肉なエンディングめいたいものを用意している(ように思える。ホントか?)。そう、戴冠してハッピーらっぴーで終わり、じゃちょっとね。

技術論の地平……

読みかけというか、飛び飛びに読んでいる堀越宏一『ものと技術の弁証法』(岩波書店、2009)。物質生活や技術の視点から生活誌を描くという一冊。一言でいえば便覧のような本。総論的なスタンスでもって、中世の物質生活の全般を細かなディテールを交えながら記していくというスタイルなので、項目別に読むことができる(笑)。飛び飛びに、というのはそういう意味。なるほど技術について史学的にまとめるとすればこういう形になるのも納得できる。けれども、個人的にはその先にあるはずの各論のほうへと関心が向く。というか、関心を向かわせるような配慮の記述が目につくというか。たとえば先のジャンペル本でも出てきたシトー会の技術力の話。労働の組織化という点で、シトー会はとても興味深い対象。で、同書では、修道院経営のあり方などについて言及されていて、研究・調査の手引きよろしく、どういった史料が使えるのかも示唆されていたりする。

……と、そんなことを書いていて、この「ヨーロッパの中世」というシリーズ全体がそういう感じの編集方針なのか、と思いいたる(苦笑)。全8巻というこのシリーズ、いつの間にか全巻刊行は目前で、6巻の「声と文字」(タイトル的には面白そうだ)を残すのみとなっている。

巨匠逝く

うーむ、やはり触れないわけにはいかない、レヴィ=ストロースの死去。その著書には個人的にいろいろ勇気づけられることしかりだった……。深く感謝しなくては。とはいえ、一方ではとりたててすごくfidèleな読者ではなかったかもなあ、という反省も……。最近はとくにそんな感じで、新しい邦訳とかが出ても購入は後回しという状態が続いていた。せっかくなのでbk1で『パロール・ドネ』を購入してみる。bk1はいきなり追悼ページを掲載している。ベルトレの評伝の邦訳や、新書らしい研究書が予約扱いになっているっすね。フランスの方でもたぶんいろいろレトロスペクティブがあるだろうし。ちなみに、フィガロ紙のページに在りし日の氏の映像などが(ブラウザで再生するのはちょっと重たい……フルダウンロードは有料)。

四次元主義……

中世の存在論とか個体化論などのはるかなる延長線ということで、現代の分析哲学系の形而上学も気になるのだけれど、これはこれでなかなか手強そうではある。そんなことを改めて感じさせるのが、セオドア・サイダー『四次元主義の哲学』(中山康雄監訳、春秋社)。まだ読み始めたばかり(2章まで)なのだけれど、時空的変化を踏まえた存在論という感じの基本スタンスを示す第一章はなかなか軽快な感じで進み、なるほど中核的なアイデアはそれほど面妖なものでもなさそうだ、なんて思えたのだけれど、2章の「現在主義への批判」にいたると、ちょっと個人的に読み進むのに疲れてくる(苦笑)。マクタガート以来の時制論のたぶん簡便な整理になっているのだろうけれど(?)、すでにしてかなり重厚な議論の積み重ねが背景にあるいることがわかる。うーん、そのあたり、なかなか簡単には入っていけないっすね。3章以降が再び四次元主義の具体的な話になるようなので、改めて期待しているところだけれど、まあ、ちょっと行きつ戻りつしながらゆっくりと進めていくことにしようかと。