今年の『中世思想研究』

学会誌『中世思想研究』(51号、中世哲学会編)が今年も出ている。早速入手。冒頭、いきなり衝撃。存命とばかり思っていた山田晶氏が、2008年2月に亡くなられていたことを知る。いくつかの追悼文が捧げられ、業績一覧もまとめられている。2008年の年頭は、先の長倉氏といい、日本の中世思想史研究の重鎮が相次いで亡くなるというmauvaise saisonだったのか……。

収録論文では、このところの研究対象の多彩化という意味で、土橋茂樹「バシレイオスのウーシア – ヒュポスタシス論」が、バシレイオスの著作に見られるウーシア論の時代的変遷を描いていて興味深い。また、シンポジウムの報告、秋山学「ビザンティン世界における『知』の共同体的構造」は、ダマスコのヨハネ(ダマスクスのヨアンネス)を中心とした写本の製作・伝承の実態を浮かび上がらせようとするとても面白いもの。写字生たちの取捨判断というか、一種の「編集指向」のようなものが、合本形式の写本の異同から読み取れるという次第。

リュートtube 8 – バッハ

バッハのリュート組曲2番からジグ。けれども今回はこの映像に注目ですかね。微速度撮影による蔵王と酒田市のどこか幻想的な風景が、ジュリアン・ブリームの演奏と融合して、ちょっとこれは至福のひととき。うーん、お見事。

分類思考

相変わらずの養生中。そんなわけで、いろいろな作業は中断中。本読みも滞りがち。そんな中、三中信宏『分類思考の世界』(講談社現代新書)を読む。連載がベースということだが、各章の頭にそれぞれ枕が配されているのはそのため(ちょっと多すぎる嫌いもないわけでは……)のよう。前の『系統樹思考の世界』よりも、どこか散漫な感じがするのもそのせいかしら(追補:そのあたりについて、あとがきで触れられていた)。基本的には、「種」概念を中心とした生物分類学の変遷をまとめたもので、とりわけマイケル・ギゼリンという人による「分類学の形而上学」の組み替えが軸線として据えられている。著者によると、それは種タクソンをクラスではなく、時空の制約を受ける個物と考える立場なのだそうで、その時空性をもった個物の形而上学をプロセス形而上学と称しているのだそうだ。うーむ、これは面白そう。なるほど、生物学的な分類は、まさに分類という営為の王道。そこから、その分類思考の枠組みそのものへの問いかけが出てくるというのも、ある意味当然の帰結なのかも、なんて。

あと、この本のカバーを外すと、そこにちょっとしたサプライズが。良いっすね、こういう遊び心満載の本作り。

福本ワールド

『カイジ』の実写版映画公開に合わせてということなのだろうけれど、雑誌『ユリイカ』10月号は特集が福本伸行。福本ワールドは絵柄も話もどこか異形。その異形ぶりは同誌に再録された初期短編(絵柄はずいぶん違うが)にもほの見える。主人公の高校生はなんと朝から酒飲んで路上で寝ているという、ラブコメにはまるで似つかわしくないキャラクター。なにかこの、すさみ方がすでにして異形だ。で、『ユリイカ』誌だけれど、特集の対象がそういう異形世界なのだから、批評・論考も異形のものが期待される。個人的に目を惹いたのは、タキトゥスによる賭博についての一節から始まる、前田塁氏の論考。ギャンブル(麻雀など)を扱う小説やマンガが、結局は和了形から遡行して展開が逆算される以上、作品はいわば賭博の偶然性をどう消去していくかというプロセスに始終せざるをえないことを看破している。賭博の本質は「描かれない外部」としてあるということか。論考の末尾を閉じるのは、今度は『ゲルマーニア』の一節という、なかなか手の込んだどこか「異形の」論考。

お詫び:メルマガ(10月10日発行予定分)

体調悪化により、10月10日に予定していたメルマガ(No.158)の発行をやむを得ず見送りました。この号は2週遅れの10月24日に発行したいと思います。ご了承のほど、お願い申し上げます。