新刊情報(ウィッシュリスト)

このところの中世史・中世思想関連本のリスト。

アンセルムス

これまた思うところあって、アンセルムスに注目したいと思い、瀬戸一夫『時間の思想史』(勁草書房、2008)を読み始める。というか、以前一度読みかけて中断していたのを再開。忘れているので、頭から読み直しているところ(苦笑)。『時間の民族史』『時間の政治史』に続く「時間三部作」の三作目とのこと。まだ5分の1に満たない始まりのところだけれど、前の一連の著作で展開していた、ベレンガリウスやランフランクスの神学議論のいわばおさらいから入っていく感じで、こちらもいろいろ思い出しつつページを繰る。ランフランクスの後を継ぐ形で登場するのがアンセルムスだ。ランフランクスが用いた議論のモデルを、神学的に裏打ちして完成させるというのが、同書での基本的なアンセルムスの位置づけらしい。瀬戸氏の著書はなんといっても、神学論上の実にアクロバティックな論理を読み解きながら、同時に時代背景としての政治史にも目配せするという、なんとも奥行きのある議論が特徴的。同書でもその持ち味はいかんなく発揮されていて、すでにこれまで以上の読み応え。世間的にはシルバーウィークだそうだが、これはその間で楽しめそうな感じ。

ビザンツ世界の「ニコマコス倫理学」

相変わらず、『「ニコマコス倫理学」中世ギリシア注解書』を少しづつ読む。やっと半分。ちょっと短いけれど総覧的なコメントになっているのが、リノス・G・ベナキスの論文。12世紀ビザンツでの『ニコマコス倫理学』注解は、エフェソスのミカエル、ニカエアのエウストラティオスが双璧をなしている模様。特にこのエウストラティオスの注解は、ロバート・グロステストの訳で西欧世界でも知られていたといい、西欧世界で初めて『ニコマコス倫理学』の注解書を記したアルベルトゥス・マグヌスも知っていた可能性が高いという。そのあたりに影響関係があるかどうかなどは今後の研究課題だとされている。なるほどね。ほかに逸名著者による注解書や、パラフレーズものが複数あるのだそうだ。

エウストラティオスについては、ミシェル・トリツィオの論文で、新プラトン主義、とくにプロクロスが内容・形式ともに大いに参照されていて、注解に大きく影響していることを論じている。また、ピーター・フランコパンの論文は、上の双璧の注解者を擁したアンナ・コムネーネ皇女(アレクシオス1世コムネノスの娘)のパトロネージについてまとめている。このアンナは「アレクシアド」という歴史書を著すほどの文人だったといい、『ニコマコス倫理学』の注解もこの人物の指示で作られたらしいのだけれど、実はアリストテレスというか哲学全般をそれほど重視してはおらず、基本的な関心はビザンツによるヘレニズムの理想の継承そのものにあったのだという。うーむ、パトロネージとイデオロギー、政治的野心のようなものは、やはり分かちがたく結びついているものなのだなあ、と(苦笑)。それにしてもやはりこの論集、いろいろと勉強になる。後半の諸論文にも期待しよう。

断章30 (3/3)

Δεῖ τοίνυν ἐν ταῖς σκέψεσι κατακρατοῦντας τῆς ἑκατέρου ἰδιότητος μὴ ἐπαλλάττειν τὰς φύσεις, μᾶλλον δὲ τὰ προσόντα τοῖς σώμασιν ᾗ τοιαῦτα μὴ φαντάζεσθαι καὶ δοξάζειν περὶ τὸ ἀσώματον· οὐ γὰρ ἂν τὰ ἴδιά τις τοῦ καθαρῶς ἀσωμάτου προσγράψειε τοῖς σώμασι. τῶν μὲν γὰρ σωμάτων ἐν συνηθείᾳ πᾶς, ἐκείνων δὲ μόλις ἐν γνώσει γίνεται ἀοριστῶν περὶ αὐτά, οὐχ ὅτι καὶ αὐτόθεν ἐπιβάλλων, ἕως ἂν ὑπὸ φαντασίας κρατῆται.

Οὕτως οὖν ἐρεῖς· εἰ τὸ μὲν ἐν τόπῳ καὶ ἔξω ἑαυτοῦ, ὅτι εἰς ὄγκον προελήλυθε, τὸ δὲ νοητὸν οὔτε ἐν τόπῳ καὶ ἐν ἑαυτῳ, ὅτι οὐκ εἰς ὄγκον προελήλυθεν, εἰ τὸ μὲν εἰκών, τὸ δὲ ἀρχέτυπον, τὸ μὲν πρὸς τὸ νοητόν κέκτηται τὸ εἶναι, τὸ δὲ ἐν ἑαυτῷ· πᾶσα γὰρ εἰκὼν νοῦ ἐστιν εἰκών.

Καὶ ὡς μεμνημένον δεῖ τῆς ἀμφοῖν ἰδιότητος μὴ θαυμάζειν τὸ παρηλλαγμένον ἐν τῇ συνόδῳ, εἰ δεῖ ὅλως σύνοδον λέγειν· οὐ γὰρ δὴ σωμάτων σύνοδον σκοπούμεθα, ἀλλὰ πραγμάτων παντελῶς ἐκβεβηκότων ἀπ᾿ ἀλλήλων κατ᾿ ἰδιότητα ὑποστάσεως. διὸ καὶ ἡ σύνοδος ἐκβεβηκυῖα τῶν θεωρεῖσθαι εἰωθότων ἐπὶ τῶν ὁμοουσίων. οὔτε οὖν κρᾶσις ἢ μῖξις ἢ σύνοδος ἢ παράθεσις, ἀλλ᾿ ἕτερος τρόπος φαντάζων μὲν παρὰ τὰς ὁπωσοῦν γινομένας ἄλλων πρὸς ἄλλα κοινωνίας τῶν ὁμοουσίων, πασῶν δὲ ἐκβεβηκὼς τῶν πιπτουσῶν ὑπὸ τὴν αἴσθησιν.

したがって、考察に際しては、両者それぞれの特性について習熟し、性質を混同しないようにしなくてはならない。あるいはむしろ、物体そのものに付随するものを、非物体について想像したり考えたりしてはならない。なぜなら、誰も純粋な非物体の特性を物体にあてがうことはできないからだ。誰もが物体と親和的である以上、非物体の認識上は難しく、非物体については確定できないのである。想像に捕らえられている限り、それはおのずとわかるものでもない。

かくしてあなたは言うだろう。一方には、体積へと進み出でるがゆえに、場所に在り、みずからの外に出るものがあるとするならば、もう一方には、体積へと進み出ないがゆえに、場所にはなく、みずからの内にある認識対象もある。一方には像があり、もう一方にその原型があるとするならば、一方は認識対象への関係から存在を獲得し、もう一方はみずからのうちに存在がある。なぜならすべての像は知性の像だからである。

また、両者の特性を想起する際には、その接合における異なった様相に驚いてはならない。もっとも、その全体を接合と称すべきであるならば、の話であるが。というのも、私たちは物体の接合を検討しているのではなく、下支えの特性において相互にまったく異なるものの様態を検討しているのだからだ。その場合の接合は、同種の実体にもとづく通例のものとは異なる。それは混淆でも混合でも、接続でも並列でもなく、同種の実体によるなにがしかの相互の結びつきとは異なるものとして現れる別様のものであり、感覚へと落ちてくるいっさいのものと異なるのである。

リンドベルイのヴァイス再び

おー、ヤコブ・リンドベルイによるヴァイスの新盤が出ていた!『シルヴィウス・ヴァイス – リュート音楽2』(Weiss: Lute Music Vol.2 – Sonatas No.39, No.50, Tombeau sur la mort de Monsieur Comte de Logy / Jakob Lindberg)。前作に続くソナタ2つ(No.39ハ長調、No.50変ロ長調)の間に「ロジー伯の死をめぐるトンボー」が挟まっているという構成。今回は前作のような16世紀の本物のピリオド楽器ではなく、英国のリュート製作家マイケル・ロウ作のスワンネック型13コースだそうだ。とても伸びやかな音。選曲もその楽器に合うものを厳選したということで、確かにとても華やかさに満ちた一枚になっている。二つのソナタと「トンボー」の沈んだ色合いの対比がすばらしい。リンドベルイのこのヴァイスは、バルトの重々しさに満ちたヴァイスでも、エグエズのラテン的な華やぐヴァイスでもなく、いわば両者の中間のよう。たおやかに朗々と歌い上げるヴァイスという感じかしら。これもまたいいっすねえ。