ガリレイ

季節の変わり目という感じの天候が続いていたせいか、昨日からちょっと体調不良。まあ、ちょうどよい骨休めという感じではある……。で、今日はちょっとリハビリというわけで、先日購入した『現代思想』9月号(特集:ガリレオ、青土社)をパラパラとめくる。ガリレオがテーマになるというのは珍しい……って、なるほど今年は「世界天文年」だったし、ブレヒトの戯曲「ガリレオ(の生涯)」の新訳が出たりしているし。それにしても『現代思想』誌だけに、どの論者もガリレオを論じるにストレートなアプローチではない(笑)。もちろん興味深いエッセイや論考もあるけれど(ガリレオのデッサンについてコメントしている港千尋「望遠鏡のなかの星」および田中純「ガリレオと「見ること」」、科学史的な位置づけを前面に出したものとして伊藤邦武「ケプラーと天文学的仮説の真理」などなど)、表象系に流れず(笑)かっちりとした科学史的位置づけとか、科学史での最新の研究動向のようなものとかを扱った文章があってもよかった気がする……。

そういえば、ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイの音楽論(というかタブラチュアのたくさん入ったリュート本)『フロニモ』の邦訳が、リュートの師匠のところでまもなく刊行予定とのこと。これ、個人的にはフライングしてリプリント版(“Il Fronimo (rist. anast. Venezia, 1569)”, Bibliotheca musica Bononiensis, 1988)を少し前に入手(笑)。まだちゃんと目を通していないのだけれど、なかなかに面白そう。

14世紀のアヴェロエス主義

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』第2巻は、フランスのこういう連作ものにありがちなように、スタイルもアプローチも1巻目とは大幅に違っていて、個人的にはなにやら取っつきにくい。主体問題がとりあえず喫緊の問題ではないのだけれど、行きがかり上というか、もうちょっと中世にきっちりこだわった議論が読みたいと思い、オリヴィエ・ブールノワ編『主体の系譜学 – 聖アンセルムスからマルブランシュまで』“Généalogies du sujet – de Saint Anselme à Malebranche”, ed. Olivier Boulnois, Vrin, 2007)を見始める。これ、従来の論集に比べて特徴的なのは、どの論文もトマスやドゥンス・スコトゥスなどの主軸の人物たちではなく、アンセルムスはともかくとして、多くが14世紀の後期スコラを論者たちを主に扱っているところ。少し研究風土が変わってきたのかもしれない(?)。

ちらちらと見た限りでは、ジャン=バティスト・ブルネの論考が興味深い。「主体」としての個人意識の高まりが「アヴェロエス主義」への反動を契機として強まった側面を、トマス以後の14世紀の思想的風景の中に描こうというもの。たとえばアヴェロエス擁護派のジャン・ド・ジャンダンは、ブラバントのシゲルスを触発される形で、トマスが詰問したアヴェロエス的な能動知性の分離の考え方に、人間は身体と知性から成る集合体で、その理解も個別的理解と普遍的理解の結合した二重性にあるという新しい視座を出してくる。これに対して反対するのがリミニのグレゴリウスで、そういう二重性の人間像は日常的経験に反すると論究するのだという。これにさらに続くアヴェロエス擁護派オリオールのペトルスも、ジャンダンに近い議論を展開し、結局この集合体論・二重性論はそれなりの統一性があるものと見なされて、知性の分離の議論もかつての議論とは相当違った様相を見せるのだという……。

そういえば余談だけれど、このところブログ「ヘルモゲネスを探して」さんが、リミニのグレゴリウスによる興味深いスペキエス論について取り上げている。これは必読っすね。

断章30 (2/3)

Τὸ δ᾿ ἀμερὲς ἐν διαστατῷ ὅλον γίνεται κατὰ πᾶν μέρος ταὐτὸν ὄν καὶ ἓν ἀριθμῷ. κἀν ἀπείροις μέρεσιν εἰ τύχοι τοῦ διαστατοῦ, παρὸν ὅλον τὸ ἀδιάστατον οὔτε μερισθὲν πάρεστι, τῷ μέρει διδὸν μέρος, οὔτε πληθυνθὲν, τῷ πλήθει παρέχον ἑαυτὸ πολλαπλασιασθέν, ἀλλ᾿ ὅλον πᾶσί τε τοῖς μέρεσι τοῦ ὠγκωμένου ἑνί τε ἑκάστῳ τοῦ πλήθους [ καὶ πάντι τῷ ὄγκῳ καὶ παντὶ τῷ πλήθει πάρεστιν ἀμερῶς καὶ ἀπληθύντως καὶ ὡς ἓν ἀριθμῷ]. τὸ δὲ μερικῶς καὶ διῃρημένως ἀπολαύειν αὐτοῦ προσῆν τοῖς εἰς μέρη ἑτεροδύναμα ἐσκεδασμένοις, οἷς συνέβαινε πολλάκις τὸ ἀυτῶν ἐλάττωμα τῆς φύσεως ἐκείνες καταψεύδεσθαι καὶ ἀπορεῖν γε περὶ τῆς οὐσίας, ἀπὸ τῆς αὐτοῖς εἰωθυίας [ἡ] εἰς τῆν ἐκείνης μεταβᾶσι. /

τῷ μὲν ἄρα πεπληθυσμένῳ φύσει καὶ μεμεγεθυσμένῳ τὸ ἀμερὲς καὶ ἀπληθύντον μεμεγέθυνται καὶ πεπλήθυνται καὶ οὕτως <αὐτῷ πάρεστι>, τῷ δ᾿ἀμερεῖ καὶ ἀπληθύντῳ φύσει ἀμερές ἐστι καὶ ἀπλήθυντον τὸ μεριστὸν καὶ πεπληθυσμένον, καὶ οὕτως <αὐτοῦ ἀπολαύει ὡς αὐτὸ πέφυκεν, οὐχ ὡς ἐκεῖνό ἐστι>· τοῦτ᾿ ἔστιν, αὐτὸ ἀμερῶς πάρεστι καὶ ἀπληθύντως καὶ ἀτόπως κατὰ τῆν αὐτοῦ φύσιν τῷ μεριστῷ καὶ πεπληθυσμένῳ φύσει καὶ ὄντι ἐν τόπῳ, τὸ δὲ μεριστὸν καὶ πεπληθυσμἔνον καὶ ἐν τόπῳ πάρεστι θατέρῳ τούτων ἐκτὸς ὄντι μεριστῶς καὶ πεπληθυσμένως καὶ τοπικῶς.

部分をもたないものは、拡がりをもつものの中では、あらゆる部分において全体をなし、同一かつ数の上で一つとなる。仮に拡がりをもつものに無限の部分でもって遭遇するとしたら、拡がりをもたいない全体であるそれは、まず部分として示されて、部分に部分が与えられることもなく、また、まず複数として示されて、みずからが複数化して複数性に対応することもない。むしろ嵩をもつもののあらゆる部分、複数であるものの各々に、その全体を示すのである。また、嵩のあるいっさいのもの、複数であるいっさいのものに、部分をもたず複数にもならないものとして、また数の上では一つであるものとして示される。部分をもち拡がりをもつものとしての利を得ることは、異なる力を部分へと分割しうるものに属する事柄であり、それらは多くの場合、本性の力が劣っているとの誤った咎めを受け、通常の形態からそのようなものに変わる際には、存在するのも容易ではないとされる。/

このように、複数化し嵩を増すものの本性によって、部分をもたず複数化しないものは嵩を増し複数化するのであり、また同様に、部分をもたず複数化もしないものの本性によって、部分をもち複数化するものも、部分をもたず複数化もしなくなるのである。また同様に、その利を得るのは、そうした本性をもつがゆえであって、かくあるがゆえではない。つまりそれ(部分をもたず複数化しないもの)は、部分をもち複数化し場所にあるものに対して、その本性において部分をもたず複数化せず、場所をもたないものとして示され、一方、部分をもち複数化し場所にあるものももう一方の側に示されるが、そちらは、部分をもち複数化し場所にあるものとしては存在しないのである。

「Ad Gaurum」

先に挙げた論集『胚–形成と生命活動』の続き。とりあえず3分の2ほどまでざっと読み進む。この論集のもととなったシンポジウムのきっかけは、パリの国立図書館に一部のみ残る「Ad Gaurum」という文書にあるのだという。それだけにほぼすべての論者が、多かれ少なかれこの書に言及している。正式名は”Γαληνοῦ Πρὸς Γαῦρον περὶ τοῦ πῶς ἐμψουχοῦται τὰ ἔμβρυα”(胚がいかに魂を得るかについての、ガウロス宛ての書)で、タイトルに入っているように、誤ってガレノスのものとされていたのだという。後に内容・形式の両方からポルピュリオスと密接に関係していることがわかり、ポルピュリオス作とさえ言われるようになっていった、という話(ドランディ論文)。パリに残るのは不完全な文書だそうだけれど、ほかに発見されていないという貴重なもの。とはいえ、ピロポノスが参照していたり、さらに後のプセロスも引用していたりと、ビザンツ世界ではそれなりによく知られていた文書らしい(コングルドー論文)。だいたい、パリの写本自体が、1840年代にフランスの公教育相からのミッションを委託された考古学者ミノイデス・ミナスが、その一環としてアトス山の修道院から買い取ったものだという。うーん、その写本、いつか機会があれば国立図書館訪ねていって見たい気もするが、一般人はちょっと無理か……。

ま、それはともかく、「Ad Gaurum」は内容的には、胎内の胚は魂をもたずただピュシス的に成長し動くのみで、魂は出産の際に注ぎ込まれる(光の照射のような形で?)という立場だといい、アリストテレスのような発達論(魂は胚にすでに潜在するという立場)とは対立しているという。ピロポノスなどは一種の折衷論を採用している感じだけれど……(同じくコングルドー論文)。いずれにしても、アリストテレスの発達論はキリスト教の教義とも摺り合わせがしやすく、初期教父たちによる、中絶を認めない立場などにも援用されていたようで(プーデロン論文)、西欧のキリスト教世界では、やはりアリストテレス的な立場の優勢さが長く存続していくらしい(3世紀以降になるとガレノス的な生理学が広まるというけれど)、一方の「Ad Gaurum」がビザンツ世界でそれなりに広まっていったというのは、教義上の違いなども絡んで、ある意味とても興味深い話かもしれない。うーん、やはりビザンツは謎だな。というか、奥が深そう。

リュートtube 7 – 「牛を見張れ」

昨日は毎年恒例のビウエラ講習会。ナルバエスの「O gloriosa domina(おお、栄光の聖母よ)」から第二ディフェレンシアで参加。まだ取りかかったばかりなのであまりうまく弾けず、ちょっと顰蹙だったかも(いつものことだが……笑)。これの一連のディフェレンシアは10年くらいかかってもいいから全部ちゃんとできるようになりたいもんだなあ、なんて思ったり。ナルバエスといえば、「皇帝の歌」とかもあるけれど、一番ポピュラーなのはやはり「牛を見張れ」でしょうかね。YouTubeにもギター演奏とかがいろいろあるけれど、多くは前半までの短いバージョン。実は後にさらにディフェレンシアが続く。というわけで、そのロングバージョンから。演奏はヴァレリー・ソヴァージュという人。プロというわけではないみたいだけれど、YouTubeにはいろいろな曲がアップされていて参考になる(笑)。さすが古楽の世界では、プロに限りなく近いような人がゴロゴロいらっしゃたりする(チェンバロなんかは最たるものなのだとか)。こちらもそういう方かしらね。