ボナヴェントゥラ論

おお、これは期待以上。さくさくと読めてしまって早くも5章めまで。坂口ふみ『天使とボナヴェントゥラ – ヨーロッパ13世紀の思想劇』(岩波書店、2009)は、本格的なボナヴェントゥラ論。70年代、80年代の同著者の論文をまとめた論集が、2000年代末の今出るというのもちょっと驚きだが、様々な論点を整理する手さばきの鮮やかさなどからすれば、もっとはるか以前に出ていてよいような一冊。各論文を貫くのは、トマスとボナヴェントゥラの対照性だ。天使を人間の上位ヒエラルキーと明言するトマスに対して、ボナヴェントゥラは人間が身体をもつことが天使よりも神の似姿に近いといった面もあることを指摘して、そのヒエラルキーを相対化する。そうしたスタンスの対立は、天使の複合性の議論(トマスに反して、ボナヴェントゥラは天使も質料と形相から成るという)、個体化の議論、個物の認識論へも持ち越されていく。個体化原理をあくまで形相にのみ求めるトマスに対して、ボナヴェントゥラは質料にも形相との結びつきを「欲求する」として、そこにある種の積極的な関わりを認める。ひるがえってそれは、個体こそを前面に置く考え方にもなり、かくして認識論においてもボナヴェントゥラはトマスに対立し、感覚的認識と知解とが一続きであることを示す(個物の直接的認識の立場)。そんなわけで、魂の機能区分についても、トマスとはまったく異なる立場を取ることになる……。

とまあ、実にあざやかにトマスとの対照が描き出される。こういう対照といえばドゥンス・スコトゥスなどをつい思い浮かべてしまうのだけれど、なるほどボナヴェントゥラはそれに先だってすでに同じような思想圏を形作っているというわけか。著者もまた、そうした対立をさらに広いフランシスコ会の思想動向としても捉えている。さらに、その思想圏を単純にアウグスティヌス主義とか、神秘思想とかで括ってしまうことの危うさも指摘している。13世紀特有の問題意識、史的文脈を忘れてはいけない、というわけだ。なるほど、とても刺激に満ちた考察。

断章29

(Lamberz : 31; Moser=Creuzer : 31)

Ὁ θεὸς πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ, καὶ ὁ νοῦς πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ, καὶ ἡ ψυχὴ πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ. ἀλλ᾿ ὁ θεὸς μὲν πανταχοῦ καὶ οὐδαμοῦ τῶν μετ᾿ αὐτὸν πάντων – αὐτοῦ δὲ ἐστι μόνον ὡς ἔστι τε καὶ ἐθέλει -, νοῦς δὲ ἐν μὲν θεῷ, πανταχοῦ δὲ καὶ οὐδαμοῦ τῶν μετ᾿ αὐτόν· καὶ ψυχὴ ἐν νῷ τε καὶ θεῷ, πανταχοῦ δὲ καὶ οὐδαμοῦ ἐν σώματι· σῶμα δὲ καὶ ἐν ψυχῇ καὶ ἐν νῷ καὶ ἐν θεῷ. καὶ ὡς πάντα τὰ ὄντα καὶ μὴ ὄντα ἐκ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν θεῷ καὶ οὐκ αὐτὸς τὰ ὄντα καὶ μὴ ὄντα καὶ ἐν αὐτοις – εἰ γὰρ μόνον ἦν πανταχοῦ, αὐτὸς ἂν ἦν τὰ πάντα καὶ ἐν πᾶσιν· ἐπεὶ δὲ καὶ οὐδαμοῦ, τὰ πάντα γίνεται δι᾿ αὐτὸν καὶ ἐν αὐτῷ, ὅτι πανταχοῦ ἐκεῖνος, ἕτερα δὲ αὐτοῦ, ὅτι αὐτὸς οὐδαμοῦ -, οὕτω καὶ νοῦς πανταχοῦ ὤν καί οὐδαμοῦ αἴτιος ψυχῶν καὶ τῶν μετ᾿ αὐτάς καὶ οὐκ αὐτὸς ψυχὴ οὔτε τὰ μετὰ ψυχὴν οὐδὲ ἐν τούτοις, ὅτι οὐκ ἦν μόνον πανταχοῦ τῶν μετ᾿ αὐτόν, ἀλλὰ καὶ οὐδαμοῦ· καὶ ἡ ψυχὴ οὐ σῶμα οὔτε ἐν σώματι, ἀλλ᾿ αἰτία σώματος, ὅτι πανταχοῦ οὖσα τοῦ σώματός ἐστιν οὐδαμοῦ. καὶ ἔστη γε ἡ πρόοδος τοῦ παντὸς εἰς τὸ μήτε πανταχοῦ ἅμα μήτε μηδαμοῦ εἶναι δυνάμενον, ἀλλ᾿ ἀνὰ μέρος ἑκατέρων μετέχον.

神はどこにもないがゆえにいたるところにある。知性(ヌース)もどこにもないがゆえにいたるところにある。魂もどこにもないがゆえにいたるところにある。しかしながら、神はおのれの後に生じたすべてのいたるところにあり、かつどこにもない(実際にそうであり、またそう望むように、それは神にのみ帰属する)。知性は神のもとにあり、他方では神の後に生じたもののいたるところにあり、かつどこにもない。魂は知性のもとにあり、身体のいたるところにあり、かつどこにもない。身体は魂のもとにあり、知性のもとにあり、神のもとにある。存在するものと存在しないもののすべては神から生じ、神のもとにあるが、神そのものは、存在するものでもなく、存在しないものでもなく、それらのもとにあるものでない(いたるところにあるだけだったとしたら、それはすべてであり、すべてのもののもとにあっただろう。しかしながらどこにもないがゆえに、すべてはそれによって、それのもとに生じたのである。なぜならそれは、他のものとは異なるものとしていたるところにあるからである。なんとなれば、それはどこにもないからだ)。同様に知性もいたるところにあり、かつどこにもないものであり、魂やおのれの後に生じたものの原因をなすが、知性そのものは魂でもなく、魂の後に生じたものでもなく、そうしたもののもとにもない。なぜならそれは、おのれの後に生じたもののいたるところにあるのではないばかりか、どこにもないからである。魂もまた、身体ではなく、身体のもとにもない。それは身体の原因をなしている。なぜなら、身体のいたるところにあり、かつどこにもないからである。すべてのものが行き着く先は、いたるところにあると同時ににどこにもないということはできず、ただ両方に順に与ることができるところである。

シンプリキオス

エピクテトスの『手引きの書』(ἑγχειρίδιον)へのシンプリキオスの注解書を一般向けに論じたイルセトロ&ピエール・アドの『古代における哲学の修得』(Ilsetraut & Pierre Hadot, “Apprendre à philosopher dans l’Antiquité”, livre de poche, Librairie Générale Française, 2004)を、だいぶ前に一度読んだシンプリキオス『エピクテトス「手引きの書」注解』の希仏対訳本(第一巻)( “Commentaire sur le Manuel d’Epictète”, tome I, trad. I. Hadot, Les Belles Lettres, 2003)を引っ張り出しながら、眺めているところ。これ、基本的に中庸の倫理をひたすら説いているような印象だけ妙に残っているのだけれど(笑)、今改めて見てみると、細かいところがいろいろ面白い。アド夫妻本が導きの糸になってくれているからかしら?

エピクテトスのもとの書は、弟子のアリアノスが師の講義を編纂した2つの書のうちの1つ。アドによれば、1世紀以降の教育形態は、それ以前の討論形式に代わり文書の説明が主になっていたとのことで、それに質疑応答(対話)が続くのが普通だったといい、アリアノスが編纂したのはその対話部分らしい。師の教えをおそらくは凝縮して伝えることが執筆目的だったのだろうという。で、時代がだいぶ下ってからのシンプリキオスの注解は、その執筆自体がすでにして一種の瞑想の修練だった可能性があるという。序文などは後期の新プラトン主義陣営の注解書の形式を踏襲しつつ、モラル的な面ではストア派と逍遙学派、プラトン主義のいわば折衷的なスタンスを取っているというわけで、うーん、なんだかそれは非物質界と物質界との「中庸」域をめぐる考察とでもいう感じ。実際、プラトン主義的には、エピクテトスの『手引きの書』は、非物質界の認識へと高まるための初級・中級段階(手引き書の内容もまた二部に分かれる)、ただし高みを目指すなら必須の課程という位置づけなのだという。なるほど、このあたりは漫然とテキストを見ていてもなかなか思い至らないところ(苦笑)。

リクールの記憶論……

昨日の続き。イザベル・ボシェの小著が最後に扱っているのがリクールの記憶論。リクールは記憶の帰属を三種類にわけて考えているというが(自分自身、近親者、他者)、この三分割の着想のもとにもアウグスティヌスがあったとされている。「精神(mens)」の内部に三位一体の像を求めていくというアウグスティヌスのそもそもの出発点が、リクールの記憶論にとっての出発点にもなっているという話。もちろんその後の展開は大きく異なる。アウグスティヌスは「記憶、知解、意志」の三分割にそのイメージを求めていくのであり、あくまで個人の魂を単体で考える。それに対しリクールの場合は、間主観性をも含んだ内省の面に三位一体のイメージを求めているのが独自なのだという。近親者に帰属する記憶というのは、要するに自己承認の記憶のこと(親や兄弟姉妹を通じて自己承認が得られる、と)。でそれは、個人の記憶(自分自身に帰属する)と、集団的記憶(他者に帰属する)の中間体であり、両者を架橋する媒体をなしているのだという。うーん、これはとても面白そうな議論だ。その自己承認の記憶という概念自体も、アウグスティヌスの『告白録』10巻から着想されているのだという。それはまた、記憶を支える「蓄えの忘却」というとても刺激的なテーマ(これも直接的にはベルグソンなどが着想源とされるけれど、間接的にアウグスティヌスの影響も考えられるという)へとも繋がっていたりもするらしい。こりゃ個人的にもリクールのテキストをちゃんと読まないと(苦笑)。

うーむ、それにしてもやはりアウグスティヌスは宝の山だなあ。三位一体のイメージの読み込みにしても、アウグスティヌスの三分割(記憶、知解、意志)は、リクールが記憶をさらに三分割してみせたように、分割されたそれぞれの項に、さらに入れ子状態に取り出すことができたりとかしないかしら……なんて(笑)。ま、それは単なる思いつきだけれど、さしあたりはリクールなどを通じて見たアウグスティヌス、という感じでもう少しこだわってみたいと思う。

リクールとアウグスティヌス

少し前にポール・リクールの小著『悪』を取り上げたけれど、そこで気になったのは、リクールに散見されるアウグスティヌスへの言及。で、そのあたりのことをまとめている論考はないかしらとか思っていたら、ちゃんとそのテーマで参考書が出ていた(笑)。イザベル・ボシェというアウグスティヌスの研究者による小著。タイトルもずばり『ポール・リクールの思想におけるアウグスティヌス』(Isabelle Bochet, “Augustin dans la pensée de Paul Ricoeur”, Editions facultés jésuites de Paris, 2004。リクールの思想的変遷とアウグスティヌスの絡みを時系列的に整理している。意外だったのは、悪の問題についての立場(アウグスティヌスがグノーシス的な枠組みをかえって温存してしまったといった批判など)が、上の『悪』のはるか以前、60年代の論文などに見えているという話。なるほど、そのあたりの話は結構古いのか。リクールはその後大きく解釈学を拡大して、『時間と物語』などを記すわけだけれど、そこでも出発点となっているのはアウグスティヌスの『告白録』への批判だといい、その後の聖書論や記憶論でも、アウグスティヌスのテキストへの参照が、その変遷の節々にに大きな影響を及ぼしてきたらしいことが示されている。ふむふむ。そのあたりのポイントも踏まえつつ、聖書解釈学あたりは改めてちゃんと押さえておきたい気がしている。