ヴィオラ・ダ・ガンバ

「ヴィオラ・ダ・ガンバはリュートの妹?」という国内版タイトルに惹かれて(笑)、レベッカ・ルソーの『タッチ・ミー・ライトリー』(Panclassics、PC 10210)というCDを聴く。ガンバを弾いているのはスロヴァキア出身の奏者。ガンバのほかにバロック・チェロなども弾くらしい。で、この国内版タイトルが示唆するように(笑)、このアルバムの特徴はなんといっても、一部リュートのレパートリーを取り込んでいること。ダウランドから2曲(超有名なラクリメは、合奏用ではなく、リュート独奏用の譜にもとづくもの)、デュフォーとゴーティエ(疑問符付きらしいが)それぞれのサラバンド、さらにヴァイスのサラバンド「プラハにて」。これはロンドン手稿譜からのもの。うーん、リュートで聴くのとはだいぶ印象が違うけれど、これはこれで味わいがある。独奏楽器としてのガンバの魅力がそこそこにわかるというもの。ほかの収録曲でも、ウィリアム・コーキンなどは面白いし(「わたしを傷つけぬ良き人は誰?」などは先の「ジョン、すぐ来てキスして」とほぼ同じメロディライン)、サント=コロンブはまあ定番っぽいけれど、最後のほうのテレマンの無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバ組曲もなかなかいい感じ。

Baroque Classical/Touch Me Lightly: Rebeka Ruso(Gamb)

ビザンツのイメージ本、読み再開

この間取り上げた根津由喜夫『夢想のなかのビザンティウム – 中世西欧の「他者」認識』。2章に入ったところでいろいろ用事などがあったりして中断していたけれど、晴れて読書再開(笑)。この第2章は「シャルルマーニュ巡礼記」を取り上げている。著者によれば、これにはルイ7世の東方遠征の記録や、サン・ドニへの聖遺物の「由来記」が色濃く反映されているといい、そもそもの成立がそのサン・ドニ周辺だろいうということで、カペー朝との絡みなど、政治的な要素も読み込むことができるテキストということらしい。で、全体的な話は、東方にもっとすごい王がいると奥方に言われたシャルルマーニュが、その王を探す旅に出かけ、途中で聖地に立ち寄り(聖地が目的地でないのがすごい)聖遺物の数々を得て、それからコンスタンティノープルで「ユーグ」というそのすごい王に会い、ホラ話の実現(神の加護による)という試練を経て、そのユーグを超えた王となって帰国するという、立場逆転物語。この話の構成やモチーフなどの解釈が一番の読みどころ。ユーグの宮殿が風力で動いたり、黄金の犂を繰っていたりするディテールの解釈は、諸説の紹介と相まってとても面白い。そもそもなぜ「ユーグ」というフランス名なのか、という問題の解釈も興味深いし。著者は総括的に、ビザンツに対する西欧人のコンプレックスや、勇猛さでは勝っているという自負が随所に読み取れるとしているけれど、全体としてどちらかといえば口承的なテキストだけに(たぶん)、浮かび上がるのはむしろ民衆寄りの(?)、あくまで類型化されたビザンツのイメージのような気もするのだけれど……。うーん、個人的にももう少し考えてみよう。

「ザナドゥーへの道」

就寝前読書の楽しみにしていた中野美代子『ザナドゥーへの道』(青土社、2009)。つらつらと読むつもりが、いつのまにか一気読みに(笑)。エッセイと短編小説の中間のような形式で、中世から現代までの東西交流の様々な要衝(年代的・場所的)をめぐっていくという、カレイドスコープのような珠玉の連作。これは一気読みになるでしょう、どうしたって(笑)。軽やかな筆致で綴られるお話の数々は、とりわけ中央アジアへの憧憬を誘わずにはいない。12世紀に今の新疆ウイグル自治区(つい最近衝突があったばかりの)にあたる東トルキスタンを平定したグル・ハーンこと耶律大石が、西方のキリスト教世界の「プレスター・ジョン」に擬せられたというくだりや、やはり12世紀にエトナ山の噴火を逃れて石工になった青年が、十字軍でエルサレムに向い、やがてムスリムになって耶律楚材に会い、さらにモンゴルの大地で没したという壮大な話などがあるかと思えば、19世紀の碩学のオリエンタリスト、ポール・ペリオや、フランス海軍の軍医、ギュスターヴ・ヴィオーの話など、研究者・探索者の足跡にまつわる話もある。なんとも懐の広い、とても上質な幻想奇譚が12編。あー、満足。中野美代子氏といえば、ずいぶん昔に『仙界とポルノグラフィー』あたりを読んで以来な気もする。あとがきに姉妹編として挙げられている『眠る石–綺譚十五夜』とかも読んでみようかしら。

断章28

(Lamberz:38、Creuzer=Moser:40)

Παραστῆσαι βουλόμενοι ὡς ἐνδέχεται διὰ λόγου τὴν τοῦ ὄντος ἀσωμάτου ἰδιότητα οἱ παλαιοί, ὅταν αὐτὸ ¨ἕν¨ εἴπωσι, προστιθέασιν εὐθὺς ¨πάντα¨, καθ᾿ ὅ ἕν τι τῶν κατ᾿ αἴσθησιν συνεγνωσμένων· ὅταν δὲ ἀλλοῖον τὸ ἕν τοῦτο ὑπονοήσωσιν, οὐχ ὁρῶντες ἐπὶ τοῦ αἰσθητοῦ τὸ ὅλον τοῦτο ἕν πάντα [καθ᾿ ὃ ἕν], τῷ πάντα αὐτὸ ἕν εἶναι συνῆψαν τὸ ¨ἓν καθ᾿ ὃ ἕν¨, ἵνα ἀσύνθετόν τι νοήσωμεν τὸ πάντα εἶναι ἐπὶ τοῦ ὄντος καὶ σωρείας ἀποστῶμεν. καὶ ὅταν δὲ πανταχοῦ αὐτὸ εἶναι εἴπωσι, προστιθέασιν ὅτι οὐδαμοῦ· ὅταν δὲ ἐν πάσιν εἶναι καὶ ἐν παντὶ τῷ ἐπιτηδείως αὐτὸ δέχεσθαι δυναμένῳ μεριστῷ, προστιθέασιν ὅτι ἐν ὅλῳ ὅλον. καὶ ὅλως διὰ τῶν ἐναντιωτάτων αὐτὸ δεδηλώκασιν, ἅμα ταῦτα λαμβἄνοντες, ἵνα τὰς ἀναπλαστικὰς ἀπὸ σωμάτων ἐξορίσωμεν ἀπ᾿ αὐτοῦ ἐπινοίας, αἳ παρασκιάζουσι τὰς γνωριστικὰς ἰδιότητας τοῦ ὄντος.

非物体的存在の特性を、言葉によって可能な限り示そうとした古代人たちは、感覚のもとに認識される何らかのものが「一」とされる限りにおいて、「一」と言うときにはすぐに「すべて」と付け加えた。それが別種の「一」である疑いを抱いたときには、「一」である限りのその「すべてである一」を感覚において目にできるわけではないことから、「その一とはすべてである」という言葉に「一である限りでの一」を付け加えた。そうすることで、存在において「すべてである」とは、構成された何かではないことをわれわれは認識し、累積の概念から遠ざかることができるからである。彼らはまた、「それはいたるところにある」と言うときには、すぐに「どこにもない」と付け加えた。「あらゆるものにある」と言い、すべての部分においてそれを適切に受け取ることができると言う場合には、それは「全体の中の全体である」と付け加えた。総じて彼らは、最も相反するものを同時に取り上げて、それを示したのだった。そうすることで、われわれは物体から練り上げた概念をその認識から排することができるからである。そうした概念は存在の特性の認識を曇らせてしまう。

ジラール・ド・ルシヨン

根津由喜夫『夢想のなかのビザンティウム – 中世西欧の「他者」認識』(昭和堂、2009)を読み始める。12世紀ごろの文学作品4本をもとに、作品中のビザンツ人の描かれ方などから、中世人がビザンツ世界をどう捉えていたかの一端を見ようという論考。まだ第一章だけしか見ていないけれど、取り上げられている「ジラール・ド・ルシヨン」がすでにしてそれ自体でむちゃくちゃ面白そうなのだ(笑)。これは未読。同書に概要がまとめられているのだけれど、シャルル禿頭王とビザンツ皇女姉妹をめぐって仲違いしたジラール・ド・ルシヨンが、その王の軍隊に攻め込まれ、逃亡者に身を落とし、妻となったその皇女の姉のほうの計らいで王と和解し、最後にはサント・マドレーヌ聖堂の建立話ががからんでさながら聖人伝みたいになるのだという。うーん、これはそのうち読んでみたいところ。

著者は作品のモデルになった歴史上の人物たちを掘り起こし、主要なモチーフ(姉妹の交換など)についても同じく史的な源流を探ろうとしている。きわめて堅実なアプローチ。ビザンツとの絡みについては、カロリンガ朝のビザンツとの関係が詳しく語られているけれど、作品を通じての「他者」受容史というあたりはあまり触れていない。まあ、まだ第一章だから、これからいろいろ展開するのだろう。二章以降は、「シャルルマーニュ巡礼記」、クレチアン・ド・トロワの「クリジェス」、そしてゴーティエ・ダラス「エラクル」が取り上げられる。この最後の作品も知らないものなので、さらに楽しみ。