ヌメニオス

2日間ほど帰省。田舎では暇なので、たいてい何か薄めの読む本を持って行くのだけれど、結局読み切らずに持ち帰ることが多い(苦笑)。今回はBelles Lettresから出ているヌメニオスの断章の希仏対訳本(“Numénius – Fragmenets”, trad. Edouard des Places, S.J., Les Belles Lettres 2003)。で、今回は半分も進まずに持ち帰ってきた。でもこれ、内容的にはとても充実。2世紀後半ごろに活躍したヌメニオスは、新プラトン主義の成立そのものに貢献したなんて言われるけれど、その三神思想とかは実際にとても興味深い(Fr.21)。また、プラトン思想を標榜している当時の人々に、プラトンを正しく継承していないという厳しい批判を寄せたりもしている(Fr24)。ピュタゴラス思想との摺り合わせもあって、さらにモーセにも言及して、「プラトンとは、アッティカ語を話すモーセ以外の何者だろうか?」(Τί γὰρ ἐστι Πλάτων ἢ Μωσῆς ἀττικίζων᾿ ; )なんて言ったりしているという(Fr8)。うーん、このあたりの言及の中身はとても気になるところだ。とりあえず、後半もひととおり読むことにしよう。

廉価版も侮れない

昨日は恒例のリュート講習会。今年はクーラント2曲(ジャック・ビットネルほか)で参加。例によってコケ丸(笑)。ヘミオラの利いた三拍子の曲はなかなか拍子が取れないなあ。課題山積み。

で、これまた例によってクーリングダウンCD。今年はミゲル・セルドゥーラの演奏によりバロックリュートもの。『神秘のバリカード(内乱?)』。あまり期待していなかった廉価版(ブリリアント・クラシックのシリーズ)だったのだけれど、これは素晴らしい一枚。澄んだ音が響き渡る。ミゲル・セルドゥーラという人は若手ということで、期待していよう(笑)。ホプキンソン・スミスとかにも師事している。収録曲も結構奮っていて、ケルナーの「最長」とされるシャコンヌ・イ長調ほか、ヴァイス、クープラン、サン=リュック、エヌモン・ゴーティエのこれまた長い「カスケード」シャコンヌ、そしてジャック・ガロ。どれもいつか弾いてみたい曲。

Les Baricades Misterieuses -D.Kellner, S.L.Weiss, F.Couperin, J.de Saint-Luc, etc / Miguel Serdoura

異本の論理

……とりとめもなく。

昨日はテレビで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』をやっていた。ちょうど日経新聞夕刊の映画短評が劇場公開中の『破』を褒めていて(絵も演出も素晴らしいみたいに書いている)、いやー、なんだかとても時代の空気の変化を感じますねえ……。『序』のほうは、なにやら細部は違うみたいだけれど、基本的にはテレビ版に準じていて、個人的にはいまさらあまり高揚感もなかった(苦笑)。基本的には異本という感じでしかないのだけれど……。結局、異本を読む(広い意味で)というのは、異本群(単に原本だけでなく)にそれなりの思い入れのあるマニアないし研究者でもない限り、それほど高揚できる所業ではないわけで。一方、作り手サイド(二次的な作り手も含めて)はというと、これは完結した作業について必ずどこか改訂したいという思いを抱き続けるものだと思う(たぶん)。こうして作り手と受け手の間に微妙な温度差が広がっていく……のかしら?あるいはそれが対流をなしていくとか?

そういえば、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、中世において広く流布したテキストだとされるけれど、本人自身が何度かかなりの加筆を行っているというし、流布したテキストというのもかならずしもどれかの完全版ではなく、一種の抄録版みたいなものがむしろ出回っていたみたいな話だった。テキストの受容は、その全貌でもって受容されるわけではない、というある意味ありふれた話なのだけれど、そういう一般的な作品受容という観点からすると、今の時代の映像作品も、時代も場所も対象も違っているといういのに、大きな流れとしては同じような道をたどるということになってしまっているのが興味深い。受容のパターンはそれほど違っていない……これって作品と人の関わりという意味で、媒介学的に(?)とても面白い現象・問題かも。

TLG

久々にTLG(Thesaurus Linguae Graecae)を見たら、サイトのデザインが変わり、今風になっていた。リアルタイムアクセスのウィジェットまで付いている……。ギリシア語文献の最大のデータベースは、今なお拡充が続いているようで、相変わらず素晴らしい。いつの間にか、無料アクセス版の著者リストも大幅に拡充されている(前にはなかったプラトンやアリストテレスも入ったし、なんともまあ、ニュッサのグレゴリオスや、ナジアンゾスのグレゴリオス、ヨハネス・クリソストモス、ダマスクスのヨアンネスなども入っている!)。

去年だか一昨年だかあたりから始まった新料金スキームはちょっと微妙な感じだった。それ以前はアクセス時間制で、一回料金を払うと24時間分だったか(?)が得られた。間延びなユーザなので、個人的にはまだ10時間くらい残っている。たまにしか使わないユーザにはこれは大変ありがたい方式なのだけれど、金銭を受け取る側にしてみれば、これは間延びのしすぎということになるのだろう。そんなわけで、いつの間にか、年限方式になったのだった。個人ユーザの場合、100ドルで1年、400ドルで5年。ま、使い倒そうと思うなら、サイトの利便性からすれば決して高くはないと言えるかもしれないけれど(月2000円くらい払う有料データベースもザラだしね)、欲を言えばもっと弾力性のあるスキームにしてほしいなあとか思っていた(3年分とか、格安の半年分とかのオプションもあってほしい)。でも上の無料アクセス版の拡充ぶりを見て(これってオープンソースとクローズドソースの併存モデルだよね)、そちらも今後もさらに拡充してくれるなら、このスキームでもいいかもねという気がしてきた(笑)。

「ニンフの洞窟」

本格的な寓意的解釈の嚆矢とも言われるポルピュリオスの『ニンフの洞窟』。これの希伊対訳本(“L’antro delle Ninfe”, a cura di Laura Simonini, Adelphi Edizioni, 1986)を、積ん読解除で読み始める。テキスト自体はそれほど長いものではない。まだ3分の1くらいだけれど、すでにしてなかなか面白い。ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる一節をめぐり、洞窟やニンフの寓意、そこに古来より込められた多義的な意味をめぐる話が展開していく。ポルピュリオスの、これはコスモロジー系のテキストということになるのかしら。いずれにしても、洞窟はまずもって人間と神を繋ぐものであり、ヒューレー(第一質料でしょうね)の寓意であったり、質料から生成するコスモスの寓意であったりするという。その際の理屈が、洞窟は「自発的に形成される(αὐτοφυής)」からというのだけれど、考えようによってはこれはとても興味深いところ。原初的な形成(形相との混成?)がまずもって穿たれた「穴」として生じるというところに、ある種の形而上学的な可能性が感じられる(笑)。穴の形而上学というと分析哲学系の話題になってしまうけれど、「自発的」という部分も含めて「穿ち」の形而上学ということを考えることもできたりするんじゃないかしら、なんてね(笑)。とりあえずゆっくりとテキストの先に進むことにしよう。