気候条件と中世

文庫化を期に読んでみた、ブライアン・フェイガン『歴史を変えた気候大変動』(東郷えりか他訳、河出文庫)。主に13世紀から19世紀にかけての欧州の気候変動を概説しつつ、それが歴史に及ぼした影響を語っていくというもの。こりゃなかなか面白い。中世盛期が温暖で、その後寒冷化する欧州は、その変化の影響をかなり直接的に受けていたらしい。温暖だった中世には、北方系の人々がスカンジナビアから船でグリーンランドに渡るようになり、北アメリカもどうやら発見していたらしいという。それはひとえに温暖な気候の賜物。カトリックが四旬節中も食べて良いとしたタラやニシンの市場は8世紀頃からあるというけれど、これもまた水温の関係で生息域が変わり(中世にはノルウェー沖からその先まで南下)、12世紀にはスペイン北部のバスク地方の人々が捕鯨と合わせ、タラも捕って塩漬けを作っていたのだという。これはちょっと意外だった(苦笑)。海と同様、山も気候変化の直撃を受ける。寒冷化によって食料難になり、飢饉や疾病の蔓延は、人々の恐怖や不満を煽って、たとえば魔女狩りなどの遠因にもなった……。慢性的な食糧不足は、後にはフランス革命すらも導く要因の一つに……。

著者は結構慎重な筆さばきを見せ、気候を決定論的にではなく、歴史的要因のあるいは一番外側の枠組みを作るものというような視点から描いている。でも、読後感としては、気候が一定の影響力を持っているという強い印象が刻まれる。うーむ、このあたりが実に巧みなところだ。こうした記述方法は、一定の枠組みをもたらしているのではないかと仮定できるような要因を論じるには効果的かも。技術環境論なども、こういう論述方法に範を仰ぐのがよいかもなあ、と思ってしまう。

……そういえば去年から今年にかけて太陽の黒点が約100年ぶりにゼロになったとかいう話だったけれど、また気温が急激に下がるなんてことが起きるのかしら?

イングランド系舞曲

英国ものは大陸ものとどこか感覚というか感性というかが違う気がするのだけれど、大陸系の人が弾く英国ものはやはり大陸系に引っ張られる……のだろうか?そんなことを久々に思わせるのが、ラ・ベアータ・オランダ(La Beata Olanda)というドイツ系のグループによる『ジョン、来て、すぐキスして(”John come kiss me now”)』という一枚。表題は伝統的な旋律の曲(たぶん)。リュート界隈では逸名著者のアレンジ譜があり、ポール・オデットとかが弾いていて、よく知られている(と思う)。今回収録されているのは、おそらくはその伝承の旋律を用いたデーヴィッド・メル(17世紀のヴァイオリニスト)の曲。リュート用のものみたいにいろいろ変化していくような面白味はなく、なんだか平坦な印象。というか、このCD、全体になにかこう、やけにまったりゆったりしている印象が強い。決して演奏が悪いというのではないのだけれど、あえて言えば、踊れる舞曲のテンポをわざと落とし、あえて微妙な陰影を付けているという感じ(?)。うーん、こういうアプローチはちょっと久しぶりな気がする。個人的には少しばかりフラストレーションも……(苦笑)。でもこういうのが落ち着いていて良いという向きも絶対あるはず。

ちなみにジャケット写真はリュートのリブ(背中の丸みを帯びた部分)。

John Come Kiss Me Now – Suites, Divisions and Dances for Diverse Instruments / La Beata Olanda

強勢リズム

昨日の酒井健『バタイユ』では、若き日のバタイユが古典ラテン語よりも「ラテン語からフランス語への変移をなす半ば不純性な言葉」に執着していた理由を、言語を変貌させる「発話者たちの生の力、この生の際立ち」にあったと論じていて、その変貌の実例としてロマンス語の母音変化を挙げている。ゲルマンの強勢アクセントのせいで、母音に強弱が生じ二重母音化する話と、強勢が置かれない語末母音が弱音化する話。ガリアのロマンス語は強勢アクセントが形作ったということになるのかしら(?)。

となると、音調アクセントではない強勢アクセントというのは本質的にどういう現象なのか、なんてあらためて素朴な疑問が湧くのだけれど(笑)、ちょうど大修館書店の『月刊言語』6月号(特集:リズムを科学する)を眺めていて、馬塚れい子「言語獲得の基盤をなすリズム認知」という興味深い論考に目をひかれた。これはリズムの話だけれど、乳児の音声獲得のレベルにおいてすら、英語などの強勢リズムと、フランス語ほかラテン系の音節リズムとが区別されているという、ちょっと「衝撃的」(笑)な実験結果が報告されている。うーん、ちょっとびっくり。日本語などはさらに別の「モーラリズム」というものだそうだが、音節リズムの変種とする考え方もあるのだそうで、音節リズムとモーラリズムの区別は新生児にはできなかったりするという。

この強勢・音節・モーラの話について、ちょうど同じ『月刊言語』の同論文の話を、宗教学者でバロック奏者の竹下節子氏がブログで「フランス語の歌詞の聴き取りにくさ」という観点からまとめている。うん、確かに面白い。たとえば誕生日のときに歌う「Happy birthday to you」は、フランス版だと「Bon anniversaire」となるけれど、英語版が「ハピー・バースディ・トゥ・ユー」と強迫ごとに単語の切れ目が作られるのに対して、同じ強迫区切りを無理に仏語版に持ち込んでみると「ボナ・ニーヴェル・セー・ルー」みたいになって単語の切れ目がどこだかわからない(笑)。同じように、フランス語を学びたてのころは、フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」も「メロディへの語の当てはめ方がなんか変」とか思ったりしたものだ(英語からの類推のせい)。音節単位で音符に当てはめていくということがわかれば、どちらも納得できるんだけれど(笑)。

バタイユの中世

酒井健『バタイユ』(青土社、2009)を読み始める。というか、「中世」と題された第5章から先に読む(笑)。バタイユが中世にこだわっていたという話は知ってはいたものの、内実はあまり知らなかった。で、同書によると、そこに見られるバタイユの関心は、『エロティシズム』などにも共通する「生の連続体」の探求だったという。たとえば中世の武勲詩。バタイユはそれを文字に定着しただけのテキストとは見なさない。口承の語りのパフォーマンス、しかも演じるトゥルヴェールやその聴衆をも巻き込んだ、情動の発露としての生きたテキストを念頭に置いているのだという。そうした情動・情念の共有によって成り立つ共感、その一体性・連続性。まさにそれはバタイユの一環したテーマ系で、こよなく愛したというガリアのロマンス語で書かれた「聖ウーラリ哀歌」(同書に原文と訳が収録されている)や、レミ・ド・グールモン編纂の『神秘ラテン語』(口語ラテン語詩のアンソロジー)の愛読にも通じるものであり、また、イタリアの女性神秘家アンジェラ・ダ・フォリーニョの神秘体験への共感にも通底するという(それは新プラトン主義の流れの中にあるという)。

情念への傾倒、連続性への志向ということで、バタイユの中世へのアプローチはある種一貫したテーマとして描き出されている……。うーん、けれどもバタイユ自身もまた、中世の言語や詩作品、神秘思想などがそうであるように、どこかシステマティックなものから逃れ、逸脱していくような印象がつきまとうのだけれど……。その意味では、脱線と回帰を繰り返していくような同書の論述の脈路もまた、あるいはそうした逸脱感を体現しているのかもしれず、かくもバタイユは論述の困難な対象なのかもなあ、と改めて思ったりもする。その上で思うのは、自分でもかつて一時期こだわろうとしたことのある(大したことはないのだけれど……苦笑)、言語芸術の生きた側面へのアプローチという観点を、再び忘却の淵から引き上げてみたい気もするなあということ……か。

断章22 & 23

(Lamberz : 23 & 12、Creuzer=Moser : 24 & 12)

Τῆς οὐσίας ἧς ἐν ζωῇ τὸ εἶναι καὶ ἧς τὰ πάθη ζωαί, ταύτης καί ὁ θάνατος ἐν ποιᾷ ζωῇ κεῖται, οὐκ ἐν ζωῆς καθάπαξ στερήσει, ὅτι μηδὲ τὸ πάθος ἦν ὁδὸς εἰς τὴν παντελῆ ἀζωίαν ἐπ᾿ αὐτῆς.

それが生命のもとにあれば存在となり、それを受け取れば生の数々をなすような実体にあっては、死すらもなんらかの生命の一部をなすのであって、決定的な生命の欠如をなすのではない。(生命を)受け取ることもまた、生命の完全な欠如への道ではないからである。

Οὐ μόνον ἐν τοῖς ἀσωμάτοις (σώμασι) τὸ ὁμώνυμον, ἀλλὰ καὶ ἡ ζωὴ τῶν πολλαχῶς· ἄλλη γὰρ ζωὴ φυτοῦ, ἄλλη ἐμψύχου, ἄλλη νοεροῦ, ἄλλη φύσεως, ἄλλη ψυχῆς, ἄλλη νοῦ, ἄλλη τοῦ ἐπέκεινα· ζῇ γὰρ κἀκεῖνο, εἰ καὶ μηδὲν τῶν μετ᾿ αὐτὸ παραπλησίαν αὐτῷ ζωὴν κέκτηται.

同じ名前は非物体(物体?)にのみあるのではなく、生命もまた複数の名で呼ばれるものに属している。植物の生命、動物の生命、知的動物の生命、自然の生命、魂の生命、知性の生命はそれぞれ別ものだからである。超越するものの生命も別ものである。というのは、それもまた生きているからだ。たとえそれより後に生じるものは、それと同等の生命をもはや得ていないにせよ。