ホラー映画とプロセス理解

映画『1408号室』をレンタルDVDで視聴した。スティーブン・キング原作の結構正統派なホラー。キング原作ものは前の『ミスト』が良かったけれど、こちらもちょっと面白い。こちらは心霊スポット・ライターが「問題とされる部屋」で数々の怪奇現象に遭遇するというお話。で主人公のライターは必死にその現象の現出プロセスについての理解を試みるのだけれど、現象は加速度的に、そうした試みをはるかに圧倒する形で連鎖していく……。で、主人公が試みるそのプロセス理解こそがこの映画の一番の肝という気がする。たとえば想念が実体化するらしいくだりがあるのだけれど(想念の実体化といえば、タルコフスキーの映画版『惑星ソラリス』とかも、なんだか不気味な一種の「ミニ・ホラー」のようにも見えたものだが)、想念が実体化して「怖い」のは、そもそもあり得ない状況(キリスト教的には、それはまさに神にのみ許された所業ということで、複合的な意味合いがあるけれど)に晒されるからというより、その実体化プロセスがまったく理解も想像もできない、偽理論をでっち上げようとも納得できないから……ということを映画はまざまざと見せつけてくれる。逆に言えば、日常の世界を織りなす事物は必ずなんらかの既得のプロセス理解に裏打ちされていて、「現れ」の根底には、たとえ仮ものであろうとも、その現れをもたらす「生成」プロセスの受け入れ・理解が前提としてあり、その前提がないとき・崩れたときに事物はとてつもなく不気味なものと化す、ということ。まあ、当たり前といえば当たり前のことなんだけれども、このプロセス理解というやつは、それ自体を考え出すとなかなか一筋縄ではいかないものでもある(と思う)。

かつてのジョージ・A・ロメロのゾンビ映画とかは、その出現の唐突さが、たとえ「怖い」というのとは違っても、なにか最低限の不気味さを醸し出していた(びっくりシーンとは別に)。それは、一つにはそういうプロセス理解の不在・否定性を突きつけていたからだと思うのだけれど、翻って最近のゾンビものを見ると、ウィルスとかで異物の出現プロセスをすっかり固めてしまい(たとえば『28週後』『ドーン・オブ・ザ・デッド』(リメイク)、『デイ・オブ・ザ・デッド』(同じくリメイク)、はては『ボディ・スナッチャー』の再リメイク『インヴェイジョン』にいたるまで)、異物の出現はもはや「お決まり」でしかなくて全体につまらんという気がしなくもない。ところが一方で現実にウィルスが問題になれば、それ自体はいまだ十全なプロセス理解を得ておらず(専門家はともかく一般としては)、かくして漠然とした不安感が意味もなく広まってしまったりする。フィクションの中で扱われるプロセス理解は、すでにして現実のプロセス理解よりもはるかに単純で固着的だ。後者はというと、対象となる事物にもよるけれど、場合によりどこか思いっきり開かれていたりする……。

『1408号室』の主人公は、そういうプロセス理解を試みる中で、なんらかのハイテクな方法の可能性すら検討する。実際主人公に突きつけられる現象は、どこかサイコな拷問のようにも見え、主人公を追うわれわれ観客にも、途中で「これって神経系に直接働きかけて個人の妄想を生み出させているとか、そういう話?」みたいな、作品世界へのプロセス理解が促されてきたりもする。でも、観客レベルでのサスペンスフルなそういう仕掛けは、結果的に作品が醸すはずの怖さを大いに薄めているかもしれず、作品的に良いのか悪いのかちょっと微妙だったりもする(笑)。でも、いずれにしてもこの作品は、プロセス理解というものを考える取っかかりとして悪くない映画ではある(かな?)。

ドゥンス・スコトゥスの場合……

最近はアベラールなども、英米系の論者によってどこかそうなっているという話だけれど、原テキストと現代的な論者らによる読み込みとの間になにか乖離というか違和感というかが大きく感じられる中世の思想家の代表といえば、個人的にはやはり13世紀のドゥンス・スコトゥスだ。たとえば往年のジルソンのスコトゥス論などもそう。で、またもファルク本のメモになるけれども、ここでもスコトゥスは哲学史上の転換点を体現する者として描かれている。なにしろスコトゥスにおいては、知性の第一の対象は存在そのものとされ、結果として存在の一義性(あらゆるものの存在の共有)の議論が導かれて被造物から神へとアクセスする途が開かれ、と同時にその一義性の上に個物を個別化する原理、「このもの性」が置かれて、被造物のもつ有限性が哲学史上初めて肯定的に捉えられるのだから。世界を織りなす構造としての偶有性も初めて肯定され、その裏返しだけれど人間のもつ自由も高らかに肯定される。そもそもキリストによる救済というのも、原罪の回復・充足ではなく、栄化という肯定的な動きとして解釈される。普遍を個物より重んじるという古代ギリシア以来の伝統も一挙に転覆される……。ニヒリズムへの対抗原理みたいなものすらほの見えているかのような印象……。

うーん、しかしスコトゥスのテキストをちょこちょこと読み囓る位では、なかなかそういうヴィヴィッドかつ肯定的・称揚的なスコトゥス像には行き着かないのだが……。じっくり腰を据えて取り組めば、そういう解釈へと至るものなのかしら。精妙博士の異名をもつだけに、スコトゥスのテキストは煩雑。細かい議論が延々と続く、みたいな。このギャップをどう埋めればよいのか、あるいは視点を変えて、こうした現代的な議論でのスコトゥス像がどういう過程を経て現れてきたのかとか、なかなかに悩ましい問題ではないかしら(と個人的には思う……)。ファルク本ではハンナ・アーレントのスコトゥス解釈が時折引き合いに出されている。アーレントの『精神の生活』の第二部に出てくるのだという。あるいはそのあたりに、そうしたスコトゥス像成立を振り返る鍵がある?そのうちちょっと覗いてみなければね。

リュートtube 3

エグエスによるヴァイス「L’infidèle」の演奏。2006年のものらしい。CD収録のものよりは地味に弾いている感じ。映像の音はあまり良くないし、映像は組曲全体を3つに分割していて、いきなりブチっと切れるのがちょっと難点。ま、ご愛敬でしょうかねえ。とりあえず3分割のうちの1つめを挙げておこう。

トマスの天使論

またもE. ファルクの『神、肉体、他者』からのメモ。ほとんど末尾の方だけれど、第8章はトマスによる天使論(とりわけ『神学大全』の議論)。「天使」の認識その他の問題を取り上げ、フッサールの『デカルト的省察』に絡めて現象学的に見直すという趣旨。トマスが展開する議論がまさしく形を変えた現象学として読めることを示しているわけで、これがなかなか面白い(主眼は「他者」とのコムニオンがどう織りなされるかを探っていくということなのだけれど……)。質料をもたないとされる天使は、一方で知性的存在とされるわけだけれど、トマスはそこで「では天使の認識とは一体どういうものなのか」と問うことになる。それはまさにデカルト以前のデカルト的「我」のようなものということになる。けれどもそこでトマスは「では天使は他の天使をどう認識するか」と問い、そこから間主観性(フッサール)ならぬ「間天使論」が導かれ、独我論を脱するのだという。さらに天使は質料をもたないといいながら聖書では人々の前に姿を現すとされる。トマスはこの「現れ」をも問い直し、まさに天使についての現象学のようなものを展開するという。存在論を宙吊りにした「現れ」だけに特化した身体性……。

トマスによる天使の認識という面についてもっと長く検討しているものとして、ティシアナ・スアレス=ナニの『天使の認識と言語』(Tiziana Suarez-nani, “Connaissance et langage des anges”, Vrin, 2002)があるけれど、これも積ん読を解除して読み始める(笑)。この著者の前作では5人の神学者の天使論を大まかにまとめていたが、これはより範囲をせばめ、トマスと弟子筋のローマのジル(エギディウス・ロマヌス)に絞り、内容的にも認識と言語に特化したもののよう。トマスに関しては『神学大全』での天使論からとりわけ認識と言語に関する部分を詳細に検討しているようで、こちらも興味深い点があればメモしていきたいところ。

断章16

(Lamberz版:21、Creuzer & Moser版:22)

Τὰ πάθη περὶ τοῦτο [πάντα], περὶ ὃ καὶ ἡ φθορὰ· ὁδὸς γὰρ ἐστιν εἰς φθορὰν ἡ παραδοχὴ τοῦ πάθους, καὶ τούτου τὸ φθείρεσθαι, οὗ καὶ τὸ πάσχειν· φθείρεται δὲ οὐδὲν ἀσώματον, τινὰ δὲ αὐτῶν ἤ ἔστιν ἤ οὐκ ἔστιν, ὣστε πάσχειν οὐδὲν· τὸ γὰρ πάσχον οὐ τοιοῦτον εἶναι δεῖ, ἀλλ᾿ οἷον ἀλλοιοῦσθαι καὶ φθείρεσθαι ταῖς ποιότησι τῶν ἐπεισιόντων καὶ τὸ πάσχειν ἐμποιούντων· τῷ γὰρ ἐνόντι ἀλλοίωσις <οὐ> παρὰ τοῦ τυχόντος· <τῷ γὰρ ἐνόντι θερμῷ ἡ ἀλλοίωσις παρὰ τοῦ ψύχοντος καὶ τῷ ἐνόντι ὑγρῷ ἡ ἀλλοίωσις παρά τοῦ ξηραίνοντος, καὶ ἠλλοιῶσθαι λέγομεν τὸ ὑποκείμενον, ὅταν ἐκ θερμοῦ ψυχρὸν ἤ ἐκ ξηροῦ ὑγρὸν γένηται>.

(外部からの何らかの)被りは、[すべからく]消滅もまた属するところに属する。というのも、被りの受け入れは消滅へといたる道であり、被ることがあるところに滅することもあるからだ。一方、非物体は滅することがない。そのうちのあるものは存在し、あるものは存在せず、そのためなんら被ることはまったくない。というのも、ひとたび被ったものは同じではいられず、介入して被りを導き入れる性質によって変化・消滅するものとしてあらねばならないからだ。内的な変化は、偶然のもとで生じる<のではない>からである。<内的な熱における変化は冷いもののもとで生じ、内的な湿度の変化は乾いたもののもとで生じる。熱いものから冷たいものが生じたり、乾いたものから湿ったものが生じるとき、われわれは基体が変化したと言うのである>。

ὥστε οὔτε ἡ ὕλη πάσχει – ἄποιος γὰρ καθ᾿ ἑαυτήν – οὔτε τὰ ἐπ᾿ αὐτῆς εἴδη εἱσιόντα και ἐξιόντα, ἀλλὰ τὸ πάθος περὶ τὸ συναμφότερον καὶ ᾧ τὸ εἶναι ἐν τῷ συναμφότερον· τουτὶ γὰρ ἐν ταῖς ἐναντίαις δυνάμεσι καὶ ποιότησι τῶν ἐπεισιόντων θεωρεῖται. διὸ καὶ οἷς τὸ ζῆν ἔξωθεν καὶ οὐ παρ᾿ ἑαυτῶν, ταῦτα τὸ ζῆν καὶ τὸ μὴ ζῆν παθεῖν οἷά τε· οἷς δὲ τὸ εἶναι ἐν ζωῇ ἀπαθεῖ, κατὰ ζωὴν μένειν ἀνάγκη, ὥσπερ τῇ ἀζωίᾳ τὸ μὴ παθεῖν καθ᾿ ὅσον ἀζωία. ὡς οὐν τὸ τρέπεσθαι καὶ πάσχειν ἐν τῷ συνθέτῳ τῷ ἐξ ὕλης τε καὶ εἴδους, ὅπερ ἦν τὸ σώμα – οὐ μὴν τῇ ὕλῃ τοῦτο προσῆν – οὕτω καὶ τὸ ζῆν καὶ ἀποθνῄσκειν καὶ πάσχειν κατὰ τοῦτο ἐν τῷ συνθέτῳ ἐκ ψυχῆς καὶ σώματος θεωρεῖται· οὐ μὴν [καὶ] τῇ ψυχῇ κατὰ τοῦτο συμβαίνει· ὅτι οὐκ ἦν ἐξ ἀζωίας καὶ ζωῆς συγκείμενον πρᾶγμα, ἀλλὰ ζωὴ μόνον· καὶ τοῦτο ἦν τῷ Πλάτωνι τὸ ουσίαν εἶναι καὶ λόγον τῆς ψυχῆς τὸ αὐτοκίνητον.

したがって質料も被ることはないし–というのもそれ自身では性質をもたないからだ–、その内部に入ったり外部に出たりする形相も被ることはない。しかしながら被りは複合物に関与し、複合物において存在するものに生じる。なぜならそれは、介入するものに反する潜在力や性質に見出されるからである。おのれ自身のもとではなく外部から生命をもたらされるものは、かかる生命もしくは非生命を被ることができる。被ることなく生命のうちに存在するものは、必然的に生命のもとにあり続け、生命のないものは、生命がない限りにおいて、必然的に(生命を)被ることもない。変化や被りは質料と形相から成るもの、つまり物体に見られる–このことは明らかに質料には当てはまらない–が、同様に、生きること、死ぬこと、被ることは、魂と身体から成るものに見出される。確かにそれは魂そのものには生じない。なぜなら、それは非生命と生命から成る実体ではなく、生命のみから成る実体(プラグマ)であるからだ。このことはプラトンにとって、魂の本質(ウーシア)と定義はみずから動くことにあるということを意味していた。