「存在する」は行為なり?

先のジルジェンティの『ポリュピュリオスの特徴的思想』も中盤を超えて佳境(?)にさしかかったところ。中盤では、「パルメニデス注解」の現存する断章をポルピュリオスのものと特定したピエール・アドの議論をベースに、思想内容からその確認をし、ここから「一と存在」「存在と存在者」「知性」「三幅対」などのテーマの詳述に入っていく。ちょっと面白いのは、「ポルピュリオスが西洋思想史の流れの分岐点に位置づけられる。というのも、哲学史上初めて、存在する(essere)という動詞が行為として概念化され、その純粋な行為が第一原因と同一視され、と同時にそれが一者と存在の漸進的同化を準備したのだ」というくだり(p.219)。actus essendiというときのactusを単純に「現実態」と訳すことへの違和感は以前にも記したことがあったけれど、やはりそこには行為というか働きというか、そういう動的な意味合いが入っていることを確認させてくれる一節。うーむ、現実態=行為としての存在論は、先日のマクシモスの存在論なども含め、はるか後裔にまで連綿と継承されていくようだけれど、その嚆矢はポルピュリオスにありということなのか?けれどもちょっとこのあたり、テキストでの検証が物足りない感じもするのだが……。

新刊情報(ウィッシュリスト)

新緑の季節はゆっくりと本を読みたい。というわけで、またまた新刊の備忘録。

証聖者マクシモス

7世紀のビザンツ世界を代表するギリシア教父、証聖者マクシモスの思想を扱った、谷隆一郎『人間と宇宙的神化』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ最初の3章ほどだけれど、これはなかなかに重要という気がする。エマニュエル・ファルク『神・肉体・他者』も相変わらず読んでいるのだけれど、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナを扱った章(第二章)で、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの否定神学をラディカル化するエリウゲナは、一方で同じく翻訳を手がけたマクシモスの影響により、神の否定性を人間にまで拡張し、結果的に偽ディオニュシオス的な神と人との無限の距離を、模範論的な類比で「修正」する、とされている。ファルクは、エリウゲナにおいていわば「否定」が反転して「肯定」となる様を、エリウゲナのテキストから鮮やかにすくい取ってみせているのだけれど、どうもそこで取り上げられる論点は、マクシモス(あるいはもっと広くギリシア的伝統)の議論に予想以上に多くを負っている感じがする。

たとえば『人間と……』では、マクシモスのピュシスについての基本理解として、諸処のものごとはそれ自身の目的に促される動きにおいてあるとされ、その目的とは自足する原因なきもの、すなわち神だとされる。そこでは神もまた「不受動で活動的な働き」だと言われ、対する被造物の動きとはこの場合、生成(創造)と究極の目的との両極の中間とされる。一方、ファルクによれば、神(テオス)について語源から検討しようとするエリウゲナは、そこに「見る」(テオロー)と「走る」(テオー)の二つの意味を重ね、後者についての考察において、動く者としての神と、それによって統合される「動くもの」としての被造物を考えているという。神が「走る」とは、神がおのれ自身のうちにおのれを横切り、「両極」を繋ぐことであるとされている。うーむ、このあたり、実に見事にオーバーラップするでないの。

谷氏のその著書は、マクシモスの思想を体系的に扱っているので、もしかするとそれを参考に、エリウゲナのテキストとの照応関係をリストアップするなどしたら面白いかもしれない。とすれば、まずはやはりエリウゲナの主著『自然について』をちゃんと読んでみないと(笑)。

ブレヒト版「アンティゴネ」

ユイレ=ストローブの映像作品から、『アンティゴネ(1991)』(紀伊国屋書店、2008)を観る。正式タイトルは「ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版」(1948)。先日記したように『思想としての翻訳』を読んだばかりなので、この「ヘルダーリン訳」というところに激しく反応したのだけれど(苦笑)、本作ではヘルダーリン訳はあくまでブレヒトがベースに用いたというだけで、DVDパッケージのブックレットの解説(渋谷哲也)には、ヘルダーリン訳がそのまま継承されているのは全台詞の2割程度、とある(ほかに約3割がやや書き換えたものだとか)。もう一つの解説(初見基)には、ヘルダーリン訳やブレヒトの処理などについて、冒頭その他のいくつかの実例が紹介されている。とはいえブレヒト独自の部分についても、ヘルダーリン訳そのままであるかのような(実際は違うのに)「ずらされた」表現が全編に散見される、といったことが記されていてなかなかに印象的。実際、このドイツ語のセリフ回し、抑揚の感じなどがどこかギリシア語っぽく響いてくる気がするから不思議だ。作品そのものはまさに「ブレヒト版」で、細部や設定などかなりの変更が施されているという。うろ覚えながら、確かにソポクレスの原作とはいろいろ違っている気がする。映像的には、全編極端に動きが少なく(シェーンベルクの『モーゼとアロン』の映像化も大まかにはそんな感じだったけれど)、舞台空間となる屋外円形劇場跡(シチリアのセジェスタ劇場)に登場人物が立って喋るのを固定カメラがひたすら追うという趣向。というわけで、これはひたすら台詞の響きを味わい、そのやり取り(それ自体は結構面白く、舞台上のコロスがクレオンを批判したりとかする)を味わう劇。とはいえ、何度かそのセジェスタ劇場からはるか遠景の山などが映し出され、それがなんとも美しかったりもする(笑)。

ブックレットによると、件のヘルダーリン訳をそのまま用いて音楽にしたものとしてオルフの『アンティゴネ』があるそうだ。ちょうどブレヒトが本作を用意していたのと時を同じくしているのだそうで、そちらもぜひ聴いてみたいところ。

カルミナ・ブラーナ新盤

クレマンシック・コンソートによる35年ぶりの『カルミナ・ブラーナ』新録音!もちろんオルフのではなく、ブラヌス写本の原曲。いや〜、これまたすばらしい。堪能。非常に端正なピケットのニュー・ロンドン・コンソートによる全曲録音とはまったく違う方向性で人気を二分していたクレマンシック・コンソートの35年前の録音は、世俗的な祝祭感覚満載だったけれど、今回もその世俗感覚は健在。とはいえ年月のせいか、少しおとなしくなったというか洗練されたというか、端麗さが増した感じも。

いやー、それにしても最後の3曲なんかの盛り上がりは最高。CB185「Ich was ein chint so wolgetan(私はおとなしい娘でした)」のサビ「Hoy et oe, / maledicantur thylie / jusxta viam posite」、CB200 「Bache, bene venies(バッカスよ、ようこそ)」のサビ「Istud vinum bonum vinum, vinum generosum, / reddit virum curialem probum animosum」なんかは耳について離れない。ついいっしょに歌ってしまう(笑)。締めのCB196「In taberna(居酒屋で)」も実にいい。やはりこういう酒の歌が個人的にはお気に入り。ラブレー的世界に乾杯。

Carmina Burana -Original Version by Codex Buranus of 13th Century / Rene Clemencic, Clemencic Consort [SACD Hybrid]