より細かく掬い上げる

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)ブリュノ・ラトゥールが中心となって提唱するアクターネットワーク理論は、最近のモノの実在論などにも通じる、興味深い方法論に思える。要は社会的・自然的に存在するあらゆるものをアクター(働きかけるもの)と捉え、その作用が連なって(エージェンシー)織りなす連鎖(ネットワーク)として現象を捉え返そうとする思想、ということらしいのだが、そうは言っても、個別的な作用の具体的な記述がどんなものになるのかは今ひとつ見えない。というわけで目下、そのラトゥールによる社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)』(伊藤嘉高訳、法政大学出版局、2019)を読んでいる。まだ前半に相当する第一部のみ。

アクターネットワーク(ANT)の入門と銘打っているが、それにしてはずいぶんと長大な入門書。けれども記述そのものは比較的平坦な印象で、その意味では入門を謳っているのもわからないでもない。とはいえアクター概念、ネットワーク概念などのそこでの解説は、従来概念との対比から、否定的に(これではない、あれでもない、と)浮かび上がらせる手法が用いられていて、そのせいもあってか、やはり定義的にどこか不明瞭な部分が残ってしまう感じも否めない。一方で、主流の社会学が振りかざすような、どこか大まかな概念、大仰な理論によらず、調査対象をいっそう広げ、相互連関の記述を精緻化し、従来ならば救い取れなかったような作用や連関をもっと丁寧に拾い上げようとする姿勢であることはわかるし、そこだけは共感できる。ただしそれは学問的には困難な道とならざるをえない印象だ。なにしろ一般の学究の徒は、ただでさえ論文作成に追われ、結果的に細やかな事物の相互連関にまで時間をかけて問い詰める余裕などなさそうに思えるから。細やかさを極めようとすれば、それだけいっそう論文の生産は遠のいてしまいそうだ。

ラトゥールもそうした問題を取り上げており、テキストによる報告そのものにも、従来とは違うスタンス・姿勢で臨む・認識することをあえて提唱しているようだ。第一部の末尾には、ある博論過程の学生がANTを擁護する教授のところを訪ねてくるというシチュエーションでの、架空の対話が幕間として挿入されているが、博論にANTを活用したいという学生と、指導教官ではないらしい教授とのやり取りはまったく噛み合わず、そこからは学問的な姿勢そのものの差異が示されてくる。どこか諧謔的(さらには自虐的?)なやりとりは、制度化された学問ではない新たな学問姿勢を問題にしているかのようだ。研究そのものがアクターやその作用に連なっていくような観点、そして複数の細やかなノートテイキングの推奨など、同書の前半最後の章で示されているのは、論文生産の現場すらをも根底から作り変える可能性ということ……なのだろうか。

雑感:今年もLFJ

個人的なメモ。連休後半の土日、例年同様にラ・フォル・ジュルネ音楽祭に行く。今年は例年以上に人出があった感じもした。ここ数年は、個人的に民族音楽とその周辺を狙うというのが普通になってきていて、今年もその路線で公演をはしごする。聴くことのできた主な公演としては、シルバ・オクテットによるロマ&クレズマー&バラライカ音楽、ヴォックス・クラマンティスによるアルヴォ・ペルトの声楽曲、音楽祭の表題にもなっていた「Carnet de voyage」というプログラム(ギタリストのエマニュエル・ロスフェルダーが、バンドネオンや弦楽四重奏団、ソプラノなどと絡むというもの。カスタネットのお兄さんがいちばん美味しい役どころだった)、カンティクム・ノーヴムに尺八、箏、三味線、二胡を配した編成による「シルクロード」というプログラム、ロイック・ピエール指揮によるミクロコスモスというグループの「La nuit dévoilée」。ほかに現代曲のプログラムなどもいくつか。

総じて、以前によりも演出の要素が重視されるようになってきている気がした。たとえば「シルクロード」のパフォーマンスでは、曲のつなぎをスムーズに処理し、自然に次の曲へと移行していく演出だった。これがなかなか見事に決まっていて、洋の東西を巧みに行き来する様が描き出されていたと思う。それにもまして今回特筆すべきはミクロコスモスのパフォーマンスか。観客席をも巻き込んで、舞台を立体的に活用する演出。ときおり使われる音叉の音やライティングの妙とも相まって、デミウルゴス的な世界の誕生というか、カオスからの秩序の形成、不安や恐怖から安寧への移り変わりが描写されていく。舞台を中心に会場は深淵な空間と化したかのよう。演奏されたのは主に現代の作曲家の作品だったが、とても印象深い舞台だった。

ガレノスのディスクラシア論

Method of Medicine, Volume II: Books 5-9 (Loeb Classical Library)今週は多少連休向け読書もしているものの、個人的には通常通りの読みものも読み進めないと気分が悪い(笑)。そんなわけでとりあえず、ガレノスの『治療法論』から第7巻を見ているところ(まだ半分程度)。底本はLoeb版(Method of Medicine, Volume II: Books 5-9 (Loeb Classical Library), ed. I. Johnston & G. H. R. Horsley, Harvard Univ. Press, 2011)。この第7巻というのは、それまでの個別的な理論からいったんまとめにシフトような体裁になっていて、経験論者、方法論者、教条論者といった当時の各派を批判しつつ、ヒポクラテスへの原点回帰を持ち出して、いわゆる理論としてのディスクラシア(異混和)について語っている。すなわち温冷乾湿の4態のアンバランスから疾病が生じるという理論。アリストテレスにも見られるそうした理論を、ガレノスはここで現実に即したかたちで割と丁寧に取り上げていて、バランスを取り戻すための方策についても論じている。たとえば温冷よりも乾湿の不均衡が対応が難しいとし、温浴やミルクの摂取などを勧めていたりする。ガレノスの理論志向がよくわかる一章という感じだ。

雑感:WSL環境

世間的には連休初日だということもあり、とりあえずITがらみの雑文でお茶を濁そう。このところ実に久々に、OSのインストールから設定への流れを楽しんでいるところ。

2週間ほど前、古いiMac(2009モデル)にWindows10を入れるというのをやってみた。win10のディクスイメージをCD-ROMに焼き、そちらからブートしてインストール。古いMacOS(El Capitan)付属のBootcampユーティリティからドライバを拝借しそれらもインストール。時間はそれなりにかかったが、これで無事に古いiMacでWin10が立ち上がる。ただ、キーボードはMac仕様なので使いにくく、そのためネットで対処法を探し、レジストリなどを少々いじったりしてカスタマイズしたりした。久しぶりのインストール作業は面倒ではあったけれど、それなりに楽しい(笑)。

さらにその後、今度はWSL(Windows Subsystem for Linux)を有効にして、Windows環境にLinux環境をこしらえてみた。前に別のwinマシンのWSLにUbuntuを入れてみたことがあったので、今回は有償で出ていたPengwinパッケージ(Debianベース)とX410を入れてみた。合わせて3000円(期間限定?)なり。そちらもインストール自体は簡単だけれど、その後のカスタマイズではそれなりに時間がかかった。大きな問題はいくつかあり、そのうちの1つが日本語フォント導入後のgtk-3.0。メニューその他の表示(文字やアイコン)がとにかく大きすぎて、そのままでは使えない。けれどもどこで設定するのか探すのに手間取る。ホーム下の.configディレクトリから、gtk-3.0ディレクトリ下のsettings.iniでフォントは変更できるけれど、openboxディレクトリ内のrc.xmlも編集しないといけないことがわかるまで、ああでもないこうでもないと結構時間をロスした。

日本語入力も、fcitx-mozcの導入で入力自体はできるものの、GUIでのemacsはもとより、geditやleafpadといった軽量エディタでも、あるいはfirefoxでもインライン入力ができないという問題に遭遇。fcitxの設定で直るという情報はあちこちにあったのだけれど、何度やっても有効にならない。ところが昨日、何かの拍子にいきなりインライン入力ができるようになった(emacs以外)。なぜいきなり直ったのか不明。タイミングとしてはwindows用キーボードを別途使い始めてから直ったので、何かそのあたりに要因があった……のかしら???

残る大きな問題は二つ。一つは、Windows側でコピーしたものをXwindow側でペーストできない点。ターミナルでならできるので、ターミナルで開いたemacsとかなら問題ないが、できればGUIエディタなどでもWindows側からコピー&ペーストしたいところだ。もう一つは、Linux側に入れたVisual Stuido Code(やはり最初は表示が大きすぎたが、ユーザ設定でzoomを設定することで解決。これも設定箇所を見つけるのに手間取ったものの一つ)でのpythonの連携など。連休中にこのあたりはなんとかなるのかならないのか……。でもこういうのをいじくり続けるのは決して嫌いではない(笑)。

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。