ふたたび、政治と情動

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)2週間ほど、仕事関係でちょっと追われたせいで、ブログはあいだが空いてしまったが、ぼちぼち通常の活動に戻ろうと思う。というわけで、再び(みたび?)、政治の問題として情動の話。政治と情動を一続きのものとして扱う発想は、フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』(杉村昌昭訳、平凡社、2008-2016)でも共有される問題だ。この小著、原著は89年刊でありながら、政治的に無名時代のトランプが不動産王として、家賃の搾取などで貧困層を圧迫してホームレスを増産していることを批判した一節があり、一時期ネットでも話題になっていたように思う。改めて読んでみると、全体の話の流れは、相互補完的な三つのエコロジー(社会的エコロジー、精神的エコロジー、環境エコロジー)を再編し、社会・個人の実践を再構成しようという主張に要約できる。ここで言うエコロジーは、いわば様々な要因によって固着・汚染されしてしまった社会体・精神性・環境を、再び解きほぐして開放する、新たな主観性を編成する、という戦略を指すもののようだ。トランプの例などは、まさに社会における汚れとして扱われている(「別種の藻」がはびこっている、みたいに書かれている)。

三種類のエコロジーは相互に補完的で、それにより固定化した既存体制を再び「脱領土化」すると謳われている。ガタリの場合、社会的なものを重点的に取り上げはしていても、とりわけその中心的な問題領域をなすのはやはり精神的なエコロジーということになりそうだ。つまり、いかに情動の別様の管理、別様の編成を果たすのか、という問題。移民や女性、若者、高齢者などへの「隔離差別的な態度の強化」についてガタリは、それが「単に社会的抑圧の強化のせい」だけではなく、社会的作用因子の相対を巻きこんだ一種の実在的けいれん状態」(p.38)でもあると喝破する。このまさしくヘイトの問題では、憎しみの対象は、非現実的な「過備給」の対象にもなっていて、それは支配階級側だけでなく、下位階級にとっても同様だ、とガタリは言う。しかもそこでは、伝統的な社会制御の装置(調整を果たす諸制度ということか)は機能が悪化してしまい、いきおい人々は過去への回帰に賭けるようになってしまう、とされる。こうして非妥協的な伝統主義(極右ともいう)の台頭が準備されてしまう。ガタリはまた、抑圧的権力がいかにして被抑圧者の側にも取り込まれるのかも、社会と精神のエコロジーが立ち向かうべき分析的問題だ、と指摘してもいる(p.40)。打ち立てられるべきは新たな主観性、実在する各個人の特異性の生産にほかならない、右に倣えではなく、各人の差異こそが尊重されるように、と。

ガタリの本文は難解な用語が随所に用いられているけれども、要はこのヘイトの問題のように、今ある状態が実は追い詰められて生じた人為的なものであると解釈し、そういうものであるならば、それをほぐし、解放することも同じく可能なのではないか、ということを切々と述べている。そのために「エコロジー」を、単に環境問題の少数の活動家の思想に限定するのではなく、再編と再生をめざす一般的な運動へと変容させなくてはならないのだ、と。30年を経て、同書が実にアクチャルに読めてしまうような状況に現代社会が陥っていることは、ある意味残念でもあるけれど、同時にここで示されているような再編のプログラムを考え直すことは、今まさにここでの課題そのものでもある。

享楽と民主主義

ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論選挙が近づいたこの時期だからというわけでもないが、政治思想的なものを読みたいという欲求が再び募ってきた感じ。というわけでまずはこれから。ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論』(山本圭、松本卓也訳、岩波書店、2017)。精神分析の一大エコールをなしたラカンその人には、保守的なスタンスをおもわせるエピソードが多い印象だけれど、ラカン左派はリベラル派の思想に精神分析のタームを適用して政治理論のようなものを作ろうとしている一派らしい。同書の前半は主要論者の理論の批判的な比較検討で、あまり面白くない。後半の、実践的・分析的議論のほうがわれわれ一般読者的には重要(かな?)。扱われるテーマはナショナリズム、EUのアイデンティティ確立の失敗、消費主義社会、そしてポスト・デモクラシーの行方などだ。

いかにも精神分析の本らしく、ナショナリズムを支える集団的同一化が強固になり、なかば固着するには、情動的な備給が必要であって、そこには欠如をともなった享楽(とその裏側としての否定性)が控えていなくてはならない、と説く。そうした情動面は通常の政治学的議論ではあまり取り上げられることがないが、それこそがアイデンティティを支え、またそうした情動面のケアやサポートがないからEU的なアイデンティティはうまく機能してこなかったのだ、と。そこからさらに、消費主義的なポスト・デモクラシーにあっては、享楽の再考・再編、来るべき享楽をこそ考察しなければならないのだということになる、と。

確かにそうした情動面への注目は、重要な観点だとはいえるだろう。現行の社会が陥っている、むき出しの暴力のスパイラルに抗するためには、そうした情動面、とりわけ享楽の問題系を捉えなおす必要があるのだ、というのはその通りかもしれない。先に挙げたプロティノスが、肉体がもたらす攪乱要因を制御するために「政治的」という言葉を使っていたことと、これはある意味で響き合うところでもある。けれども、ここで示唆されている情動をめぐる理論も、あくまで仮説の域を出るものではなく、その意味では、ラディカル・デモクラシーを突き詰め、「否定性と享楽に対する別種の倫理的関係」(p.334)、ラカンいわく「もうひとつの享楽」をもって、現行のポスト・デモクラシーを超え出でるという、同書が説く戦略は理論上の戦略にすぎず、具体的に何をどう組織していくことができるのかは明らかになってこない……。うーん、精神分析特有のわかったようでもありわからないようでもある(?)説明も含め、このもどかしさをどうしてくれようか、というのが読後の直近の感想だ(苦笑)。

プロティノスの徳論

Traite 19 Sur Les Vertus (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)フランスのヴラン社が出しているプロティノスの年代順新解釈シリーズ。すでに『エンネアデス』から第31論文と第20論文の訳・解説本が出ているが、今度は第19論文を扱ったものが出ていた。『プロティノス―第19論文:徳について』(Traité 19 Sur les vertus (Bibliothèque des textes philosophiques), Dominique J. O’Meara, Vrin, 2019)。タイトルこそ「徳について」だが、具体的には、徳によりいかに神との合一をはかるかという問いが扱われている。もととなっているのはプラトンの対話編『テアイテトス』の176 a-bだといい、プロティノスはその注釈というかたちで神との合一を哲学の目的と規定してみせている。

というわけで冒頭の解説序文からメモ。純粋な知性としての神のほか、一者としての至高の神を置く新プラトン主義の神学体系においては、合一の概念も二種に区別されなくてはならない。合一する側が合一対象と同じ属性を必要とする場合と、そうでない場合だ。徳による合一は後者にあたる(神そのものは徳を必要としないからだ)が、今度は知性と感覚的なものとの関係性が問題として浮上する。徳とはここでは、魂が有するある種の調整力ということになるようだ。

プロティノスは徳も二種類に区別されるという。「政治的な徳」と称されるものと「上位の徳」だ。前者は要するに、肉体に由来する情動を管理し、感覚的な誤った知見を斥ける方途のことをいう。それを通じて人間の魂は超越的知性へと近づくことができる、と。後者は魂が情動への従属から解かれているときの力のことをいう。政治的な徳をもつからといって上位の徳をもつとは限らないが、逆に上位の徳をもてば、政治的な徳を潜在的に含み持つことになる。プロティノスによれば、魂それ自体は情動や不合理なものを属性としてもってはいないが、魂が肉体を活性化する際に、情動などの攪乱要素が肉体の側から生じてくるとされる。それを秩序づけ、管理するための力が徳(政治的な徳)であるという。プロティノスのこの見解は、プラトンの『国家』で示された徳概念についての、新たな定義なのだと解釈されている。

トマスとメレオロジーなど

意味論の内と外 ―アクィナス 言語分析 メレオロジー―今週の読書は主にこれ。加藤雅人『意味論の内と外 ―アクィナス 言語分析 メレオロジー―』(関西大学出版部、2019)。個人的には久々に読んだトマス・アクィナス論。トマスの存在論、中世のメレオロジー、さらに個体化論、認識論などについての著者の論考をまとめたもの。力点は最初の二つのテーマ、すなわち存在論の解釈とメレオロジーとに置かれている。最初の存在論については、とくに意味論的な観点から見た存在論が検討されている。とりわけbe動詞が主語を述定する文をめぐっての考察。トマスが(A)現実的存在、(B)心的存在を区別していることを指摘した上で、特にその後者についての解釈に重点が置かれる。たとえば「caecitas est」のような欠如や否定を表すような文は、論理形式的には「ある者に視覚が欠けている」という命題が真でありうることを述べているのだと解釈でき、したがって欠如や否定(悪など)についても、そうしたbe動詞文が成立することをトマスが説いているのだと解釈してみせる。

全体と部分の関係性を問うメレオロジー的な読みも、同様に刺激的。全体というものについてアリストテレスが示した、統合的全体(部分から構成される)と普遍的全体との区分に、トマスは「魂」を例とする能力的全体を加えてみせる。というか、実はこれはボエティウス以来の伝統になっていた区分らしく、トマスはそうした伝統を踏襲し、精緻化している、ということらしい。その三様の全体それぞれに、対応する部分の概念があるということになる。学術論文の集成なので、いささか言及されている事象や議論の重複などもあるけれども、現代的なタームや分析方法によって、トマスの晦渋なテキストから新たな解釈が導出されるという意味で、同書は両者の、ある種幸福な出会いのトポスと言ってよいかもしれない。

神経絶対主義?

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」なにやら売れ筋になってきているようだが、ステファン・W・ポージェス『ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」
』(花丘ちぐさ訳、春秋社、2018)
を読んでみた。提唱者ポージェスのインタビューによるポリヴェーガル理論の入門書。ポリヴェーガル理論(多迷走神経理論)はその名のごとく、交感・副交感神経のに分類に加えて、三番目の神経系の区分けとして迷走神経を挙げ、それが感覚的な知覚(パーセプション)とは異なる「ニューロセプション」という機能(いわば無意識的な情報伝達だ)を担っているとし、たとえば安全かどうかといった判断にかかわる情報を、外的な声や音の低周波などをもとに神経網が無意識的に受理している、といった仮説が示される。具体的な仕組みの検証がどれだけ専門的に進んでいるのかは、この入門書からはあまりよくわからないが、さしあたり高周波の音楽などを聴かせることによって、安全のメッセージを吹き込み、自閉症やPTSDの治療に高い効果が期待できるという話のようだ。

一見するところトンデモなどではなさそうだが、かつてドーキンスの利己的な遺伝子の議論がそうだったように、様々な誤解や流用に開かれていきそうな印象もないでもない。多元的な要素による諸現象を、一つの原因論(ここでは迷走神経)へと還元しようとするかのように読めてしまうところがあるからだ。「安全かどうかの判断はすべて無意識的な迷走神経の知覚によるのかどうか」といった疑問への回答まわりは曖昧で、やはり仕組みの実証的な説明がもう少しないと、すっきりとは腑に落ちない気がする。神経生理学から臨床指向へとやや性急にシフトしているあたりにも、逸脱した議論や反応・誤解を招きそうな気がする。もちろん臨床指向そのものは悪くないのだろうとは思う。迷走神経を絶対視するようなスタンスに陥らずに、有益な研究が蓄積されていくのだろうか。今後の展開に注目したい。