「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

雑感:今年もLFJ

個人的なメモ。連休後半の土日、例年同様にラ・フォル・ジュルネ音楽祭に行く。今年は例年以上に人出があった感じもした。ここ数年は、個人的に民族音楽とその周辺を狙うというのが普通になってきていて、今年もその路線で公演をはしごする。聴くことのできた主な公演としては、シルバ・オクテットによるロマ&クレズマー&バラライカ音楽、ヴォックス・クラマンティスによるアルヴォ・ペルトの声楽曲、音楽祭の表題にもなっていた「Carnet de voyage」というプログラム(ギタリストのエマニュエル・ロスフェルダーが、バンドネオンや弦楽四重奏団、ソプラノなどと絡むというもの。カスタネットのお兄さんがいちばん美味しい役どころだった)、カンティクム・ノーヴムに尺八、箏、三味線、二胡を配した編成による「シルクロード」というプログラム、ロイック・ピエール指揮によるミクロコスモスというグループの「La nuit dévoilée」。ほかに現代曲のプログラムなどもいくつか。

総じて、以前によりも演出の要素が重視されるようになってきている気がした。たとえば「シルクロード」のパフォーマンスでは、曲のつなぎをスムーズに処理し、自然に次の曲へと移行していく演出だった。これがなかなか見事に決まっていて、洋の東西を巧みに行き来する様が描き出されていたと思う。それにもまして今回特筆すべきはミクロコスモスのパフォーマンスか。観客席をも巻き込んで、舞台を立体的に活用する演出。ときおり使われる音叉の音やライティングの妙とも相まって、デミウルゴス的な世界の誕生というか、カオスからの秩序の形成、不安や恐怖から安寧への移り変わりが描写されていく。舞台を中心に会場は深淵な空間と化したかのよう。演奏されたのは主に現代の作曲家の作品だったが、とても印象深い舞台だった。

ベイズ推定をめぐる歴史

パズルゲームの「数独」では、上級問題になってくると、ある数が2つのマスに入る可能性があってほかの手がかりがなく、論理的推論だけでは判断できないような場面が出てきたりする。そんなときの対処法は、やはりトライ&エラーに限る。とりあえず入れてみて、ほかのマスがうまく埋まるかどうかを見てみる、というやり方。うまくはまれば、それでほかのマスが一挙に埋まったりする。当てずっぽう、あるいは決め打ちという感じではあるけれど(苦笑)、作業効率は悪くない。で、こうしたやり方は案外広く用いられている印象もある。機械学習・深層学習の教科書などでよく眼にする「ベイズ推定」「ベイズ定理」なども、ごく基本的なところの発想はそういうトライ&エラーにあるらしい。

文庫 異端の統計学 ベイズ (草思社文庫 マ 3-1)なんでこんな話をしているかというと、次の本を読んでいるところだから。シャロン・バーチュ・マグレイン『異端の統計学 ベイズ (草思社文庫 マ 3-1)』(冨永星訳、草思社、2018)。まだ冒頭150ページ弱の第一部を見ただけだけれど、これがなかなか面白くて引き込まれる。トーマス・ベイズが1740年代に発見し、その後ラプラスが精緻化したというこのトライ&エラー型の確率論(「事後確率は事前確率と尤度の積に比例する」という定理)の盛衰を、時代に沿って順に詳述していくというもので、ノンフィクションの群像劇的な面白さを味わうことができる。盛衰というが、第一部に関しては、その悲劇的ともいえる毀損の数々が描かれていく。主要登場人物で著名な数学者だったラプラスの存在にもかかわらず、ベイズ推定はおもにその主観的な推測と、初期設定となる等確率の無根拠さによって散々な攻撃に曝され、文字通り粉砕されてしまう。けれどもその理論の発想は、一部の人々、とくに他領域の研究者らによって徴用・温存されて、やがて日の目を見ていくことになる……と、なかなか情感に訴えるストーリー展開が待っていることは予想がつくが、いずれにしてもこれは実に骨太のサイエンスライティング。

文字と生きもの

文字渦今年の年越し本は、このところ普段あまり読んでいないフィクションものから円城塔『文字渦』(新潮社、2018)。文字、とくに漢字にまつわる短編集なのだけれど、これが良い意味で人を食ったような、外連味たっぷりの異色短編の連作になっている。古代中国とSF的な未来世界とを行きつ戻りつしながら、生命になぞらえた漢字たちの諸相が描かれるという寸法。どこか小気味よい、壮大な法螺話(失礼)。

作品全体を貫いているのは、その「文字と生きもの」のアナロジー的な重ね合わせ。これはなかなか興味深い問題系でもある。そのアナロジーはいつ頃からあるのか、どのようにして成立してきたのか、などなど。書画を見るときに、どこかゲシュタルト崩壊的な操作を意図的に適用して、描かれた字の止めや跳ねのダイナミズムを見るというのはよく言われることだけれど、漢字というものがそもそも本来的にそうしたダイナミズムを内に含んでいるものだと捉えるなら、そのまま書字は生命の躍動へと直接的に接合できるかもしれない……というあたりが、おそらくはそのアイデアの基幹になっているのだろう。したがってそれは決して新しいものではなさそうだ。ただ、それをなんらかの物語に落とし込むのはなかなか容易ではないように思われる。この作品では、古代中国の書字の成立史や、より現代的・未来的な情報処理の話などが複合的に絡み合い、かなり錯綜感のあるアウトプットになっている。書字を扱うフィクションだけに、音読できないような字や、意味すらも連想できないような字が出てくるのも当然か。ページの字面は漢字で黒っぽくなり(現代の出版の世界では結構嫌われる作りだが、反面それはとても贅沢と言えるかもしれない)、ときおり可読性の限界のようなところにまで突き進んでもいく……。というわけで、これは刺激的な仕掛けに満ちた、読み手に挑みかける巧妙なフィクション、というところ。

カントと後成説

明日の前に

このところ空き時間にゆっくり読んでいるのが、カトリーヌ・マラブー『明日の前に』(平野徹訳、人文書院、2018)。まだやっと三分の一の5章までだが、これが決して侮れない力作。ここで提唱されているのは、一言でいうならカントの読み直し。同書がとくに注目し中心課題に据えているのが、アプリオリなもの(先験的なもの)が実は根源的には「獲得されたもの」である、という逆説めいた議論。これがカントの言明としてあるのではなかったか、という問題だ。たとえば認識上のカテゴリーが、カントにおいては、予め備わっている超越論的なものというよりも、獲得されるものとして受け止められ、当時の生物学的知見から借用した「後成説」的に説明されていたりするというのだが、そうなるとアプリオリとアポステリオリの区別、前成説・後成説の区別は、カントにおいては重なり合わないことになり、思考そのものに反・超越論的で発生的な過程があるかのように読めることになる。もっとも、カントのテキスト上のそうした箇所はどこか曖昧な場合が多いようで、多義的な解釈が可能でもあるらしい。この解釈上の重大問題を、同書はカントの諸テキストと同時代以降の研究書を突き合わせながら検証していく。当時の生物学における発生論的知見が、カントにどれほどの影響を与えていたのかも興味深いが、それ以上に、当然ながらこれはカント哲学の根幹にかかわるある種の地雷原でもある。そこをどう回避しうるのか。これはなかなかサスペンスフルな設問だ。

メイヤスーが相関(主体と対象との根源的な相互関与の構造)主義批判を打ち出し、アプリオリな総合以前の「先立つもの」を持ち上げていることに絡めて、マラブーはそうした動きが実はカントのある種の読み方、つまりカントにおける基礎付けの欠如を指摘する傾向を改めて浮き彫りにしていることを指摘してみせる。その上で、そうした読み方のさらに先に思弁的実在論を、やや性急に展開するのが果たしてよいのかどうかを、カントの読み方の「可能性の条件」を丁寧にたどることで検証するというのが、マラブーの基本的モチーフとして冒頭に掲げられている。というわけで、これは古くて新しい問題を改めて捉え直そうとする一冊でもあり、と同時に、思弁的実在論とはまた違う別の道をどこかに見いだそうとする試み・苦行でもあるようだ。それはどういうかたちで立ち上がりうるのだろうか?

理不尽なもの

夏休みモードなのでヒマネタを。近頃話題の映画カメラを止めるな!』(上田真一郎監督作品、2017)を観てきた(以下ネタバレありなので、同作を未見の人はスルーしてください)。

前半がワンカットワンシーンで37分続くゾンビストーリー。その前半にカメラがだいぶ揺れるせいで、ちょっと映像酔いというのか、多少具合が悪くなってしまう。でも、ワンカットとして(本当にそうなのかどうかはこの際問題ではない)これだけやれるのは見事ではある。もちろん今やお決まりのパターンの連続ではあるのだけれど、ある意味堅実な演出のようにも見える。ところどころにちょっと変な演出や動きが入るのだが、それもご愛敬と思わせるほど。実はその変な動きの背景にはそれなりの理由があり、それが後半で明らかになっていくわけなのだが、これは一転してドタバタのコメデイのよう。けれども実によく考え抜かれた構成になっていて、全体としては作品や映像業界への愛に貫かれた登場人物たちの必死の思いが描かれ、そんなわけでこれは特定のジャンル映画に対する愛に満ちた一本だというのがよくわかる。……よくわかりはするのだが、ちょっと待ってと思ったのは、ゾンビ映画そのものが本来もっていた恐怖の原型、つまり理不尽で得体の知れないものが意味なく襲ってくるという部分へのオマージュがなかったなあという点。

日本の伝統的な怪談などでは、怪奇なものの成立根拠はいつしか恨みつらみに回収される気がするが、西欧的には、怪物は秩序に回収されない外部、成立根拠があいまいで乏しいがとにかく理不尽に襲いかかってくる不条理なものとして存在感を放っている。怪物が生まれた経緯などの説明は一応なされても、それだけでその理不尽なものが襲ってくる根拠にはならない。そうした理不尽さは、もちろん日本の怪談にもないわけではないし、西欧の怪談にしても個々人の恨みの念とかが前面に出される場合もあるし、そのあたりの区分は突き詰めていけば曖昧模糊なものになりそうだが、少なくとも図式的には、あるいはベースとしては、そういう対比を描けるように思う。ゾンビ映画はまさにそうした理不尽なものの襲来を描いている典型。ゾンビ映画のはしりとなった68年の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』にしてからが、ゾンビ(同作ではまだそういう呼称ではなかった)はすでにしてそこに「ただ居て」襲いかかってくるのだった。生きた屍というのにも実は長い伝統があり、中世くらいまでは遡れるらしい(たとえばこちらのBBCの歴史雑誌の記事を参照。このあたりの心性史は要注目かも)。

というわけで、後半が幸福な達成感で終わるのではなく、何か回収しきれていない不気味なもの(それは日本的な恨み節とかでもまったく構わない気がするが)が、最後の最後で炸裂するような展開、笑いが再度凍りつく展開を期待してしまった。ないものねだりのような感想で申し訳ないが、もしそれがあれば、本作は快作を通り越して傑作になったに違いない、なんて思ったり(偉そうで失礼。夏休みだからね……)。