「医療史・医療占星術」カテゴリーアーカイブ

デカルト医学?

デカルトあたりになると、やはり研究者の層が厚いこともあって、いろいろと面白い論考が転がっていそうな気がする。そういったものの一つ、PDFで公開されている山田弘明「デカルトと医学」(名古屋大学文学部研究論集、vol.50, 2004)を読んでみる。デカルトと医学の関わりを、その生涯にわたる様々な著作・書簡・ノートなどから拾い上げ、再構築してみせるという主旨の興味深い論考。そもそもデカルトはポワチエ大学で法律と同時に医学の基礎を学んでいた可能性があるのだとか。最初期の著作『精神指導の規則』でも、伝統的な医学についての言及があるという(体液の話や、黄疸と憂鬱質についての話など。後者はモンテーニュ経由かもしくは古代の医学書から直接取得した知識だろうというが、どちらであるかの特定はなされていないようだ)。またアムステルダム時代には解剖学にも関心を示しているという。とはいえ、デカルトは1630年ごろまでには既存のものではない医学思想を追求しようとしており、アリストテレス以来の人間=ミクロコスモスというモデルを斥けているのだという。

その流れで興味深いのは生命原理としての「火」(光なき火)というテーマだ。心臓を炉ととらえ、その中に生命の炎は灯されると言い、さらにその火は微粒子の運動を意味するとされる。デカルトの「機械論」はまさにそうした粒子の物質的運動から全体を見るというものであるわけだけれど、このあたりは確かにどこか、普通は断絶した当のものとして挙げられるアリストテレスの、ある種の解釈の発展形から導かれているような印象も受ける。一方で精神に関しては、デカルトはそれを別次元の実体として捉え、「身体とともに滅するわけではない」みたいなことを述べているし、アリストテレスの影は想像以上に大きい印象なのだが……もちろん、そのあたりの整理もどこかに転がっていそうな気はするけれど……。

またそれとは別に、この論考では、1640年代においてもデカルトが医学研究の同時代的成果に注意を払っていることや、デカルト形而上学と解剖学の間にある種の「相互浸透」が見出されることなども指摘している。この後者は興味深い指摘だ。医学的知見は形而上学の支えになっているといい、一方で形而上学は一つの世界観として医学思想を基礎づけてもいるという。デカルトの伝記にある、肺炎をリューマチと誤診して亡くなったというエピソードをもって、デカルトは医学に関してはまるで素人だという話もそれなりに聞いたりするけれど、実はその学術的な歩みにおいて医学はかなり重要な部分を担っていたという議論こそが、同論文のまさに肝の部分をなしている。で、それが文献的・実証的なアプローチで展開される様子は、なんとも重厚な読み応えだ。

ガレノスと魂付与の問題

以前メルマガのほうで、中世の胚胎論を見たのだけれど、そのときに翻訳(仏訳)で眺めた「ガウロス宛て書簡」(問題含みながら一応ポルフュリオスに帰属させられている)という文章の原文が、校注版・対訳の形で刊行されている。『ポルフュリオス:胚が魂を受け取る仕方について』(Porphyre, Sur la manière dont l’embryon reçoit l’âme, collectif, Vrin, 2012)。『書簡』の議論は出生時に理性的魂が外部から注入されるというのが主要な論点なのだけれど、外部からという点は何度も強調されるものの、具体的にどのタイミングで、どのようなプロセスで注入されるのかは(ある意味当然というべきか)曖昧にぼかされている。今回読み直してみて、改めてそのあたりがとても気になった。

原文・対訳に先立って収録されている解説論文のうち、個人的にとくに興味深いのはヴェロニク・ブドン=ミヨーによる「ポルフュリオスに帰された『ガウロス宛て書簡』と、生命付与に関するガレノスの理論」(Véronique Boudon-Millot, L’AD GAURUM attribué à Porphyre et les théories galéniques sur l’animation de l’embryon, pp.87-102)と題された論考。ガレノスが生命付与に関して取り上げた文章というのはそもそも見当たらず、魂がどういった性質のものなのかすら与り知らないという姿勢を示しているというのが従来からの見識だったというが、2005年にテッサロニキで、ガレノスの晩年の書とされアラビア語訳しか伝わっていなかった『自らの見解について』といういわば思想的「遺言」の、ギリシア語全文が再発見されたのだそうで、それにより、ガレノスの基本的な姿勢がいっそうはっきりとしたという。ガレノスは魂というものは端的に「知りえない」事象であると考えていて、「身体が四元素から生成する以上、魂が身体とともに作り上げられるのであれば、同じく四元素から生成し、別の原理によるのではありえない」といった内容の文言(ちょっと正確ではないけれど)も記しているのだとか。種子に魂が宿っている可能性(『書簡』はこれを否定するのだけれど)についても、全面的に採用も否認もできないと慎重な立場を取るという。基本的に治療を重んじていたガレノスは、魂の付与よりもむしろ、発生を司る機能を特定することに注力している。『書簡』が擁護する出生後の理性的魂の付与については、ガレノスはこれを支持しておらず、解剖に依らずにはどの部位が関与し、その機能は何かはわからないとして、暗に脳の形成期(肝臓と心臓に続く)にそうした「魂」と呼ばれるもの諸機能が成立すると見ているらしい。かつてはガレノスの書かもと言われていた『書簡』だけれど、こうしてガレノスと真逆の思想的立場に立っていることが改めて明らかに……。

外傷治療の歴史

ちょいと忙しいので短めのものしか読む時間がないが、リチャード・D・フォレスト「初期の外傷治療の歴史」(Richard D. Forrest, Early history of wound treatment, Journal of the Royal Society of Medicine, vol.75(3), 1982)は、わずか8ページの中に前史時代から中世までの傷治療の歴史を押し込むという荒技的な概論(笑)で、その凝縮ぶりがかえって面白かったりする。医療的知識について同論文は、四大文永や南米、ポリネシアなどで同時多発的に発展したというあたりの多元モデルを採用している。その上でアレクサンダー大王の遠征でインド医術がローマに達していたなんて話も紹介している。エジプトの治療法はギリシアに受け継がれ、一方でギリシアには独自の医療的伝統もあり、トロイア戦争には外科医が従軍していたという話もある。けれども焼灼(しょうしゃく)や結紮(けっさつ)による止血はまだ未熟だったのでは、と。包帯は紀元前5世紀ごろから技術として確立される(ヒポクラテス)。ローマ帝国においてもギリシアの医師は重宝がられ、後にラテン語での知識の普及も始まる(ウァロ、ケルススなど)。そしてガレノスが登場し、ギリシア・ローマ期の医学は頂点に達する。

ガレノス以後、医学知識をまとめたパウルス・アエギネタ(7世紀)の『摘要』がイスラム医学に受け継がれるものの、アラブ世界、ユダヤ世界では、外傷も含めて病人に触れることがタブーとされ、その結果フィジカルコンタクトを免れえない外科医には、なかなかなり手がいなかったという(←要確認?)。10世紀にはイスラム医学の中心はバグダッドからコルドバへ。前にも出たけれど、アルブカシス(アッ=ザフラウィー)などが登場する。で、西欧中世。外科に関してはサレルノから12世紀にはボローニャに拠点が移り、ルッカのフーゴーとその息子のテオドリクスを輩出。さらに13世紀末にはミラノのランフランクスの助力でフランスはリヨンに外科施療所が出来る。やはりベースとなったのはガレノス流の治療法。さらにモンペリエでもアンリ・ド・モンドヴィルが主導し外科治療が教授される。さらに14世紀にはギ・ド・ショーリアックがその後を継ぐ。ちょうど火薬がヨーロッパに導入され、最初の大砲が使われたのが1346年で、砲撃の外傷治療をめぐる議論がわき起こる。イングランドのジョン・アーデンなどがそれに当たり、モンペリエの外科技術が各地に拡がるが、一方で傷の縫合はすたれ、焼灼が一般化。ギリシア・ローマの外科的教えは多くが失われた(?)……。うーん、この論考は概説なのでこう言ってはナンだけれど、細かく確認したいことが山のように出てきた。時間的余裕が在るときにいろいろ見ていくことにしよう。

外交官としての医者(4〜6世紀、東ローマ帝国)

ブロックリー「6世紀の外交官としての医者たち」(R.C.Blockeley, Doctors as Diplomats in the Sixth Century AD, Florilegium, 1980)という小論を眺める。ローマ世界では総じてそれほど地位の高くなかった医者は、4世紀以降、外交特使として派遣される例がたびたび見られたという。帝国末期の宮廷付きの医者たちは「アルキアトリ・サクリ・パラーティ(archiatri sacri palatii)」と呼ばれ、行政官として高い地位を享受していた。たとえば神学者ナジアンゾスのグレゴリオスの弟、カエサリウスなどもそういう一人で、後に属州ビティニアの財務官になっている。6世紀ごろの東ローマ帝国では、ホスロー1世のササン朝ペルシアとの和平交渉などにおいて、そうした医者たちが特使として派遣されて大いに貢献したという(ステファノス、シリア出身のウラニウス、ザカリアスなど)。ホスローの宮廷ではギリシア・ローマの伝統的な技法、とりわけ医学が重宝がられ、やがてギリシアの文献がパーレヴィ語に訳されてたりして、後の一部のアラブ世界での翻訳の基礎となったともいう……。

個人的には、ちらっと出てくるナジアンゾスのカエサリウスが気にかかる。けれど、ざっと見にはネット上にあまり詳しい説明はないみたい。詳しいのはwikipedia (en)のエントリだったりするけれど、それによると、コンスタンティウス2世とユリアヌスの宮廷付きの医師を歴任したものの、ユリアヌスの異教の復興に際してその宮廷を去り、ウァレンス帝の時代にビティニアの財務官(quaestor)になっているわけか。で、ニカエアの大地震の後に兄グレゴリオスの勧めで洗礼を受けるも、地震後の疫病で命を落とし、兄が葬儀を行ったという。兄が記した弔辞がその生涯についての主要な典拠となり(弟をキリスト教的禁欲のモデルとして讃えているという)、これがもとで弟も後に列聖されるのだとか。

10世紀末イスラムの天才的外科医

西欧が学問的に蒙昧の時代とされていた9世紀から10世紀ごろ(実はそこまで蒙昧ではなかったというのが近年の流れではあるわけだけど)、イスラム圏では植物学、薬学、化学などが開花し、医学研究が隆盛を極めていた……で、そんな中できら星のごとく登場したのが、アッ・ザフラウィーという人物。敏腕の外科医として活躍し、外科の発展に大いに貢献したほか、医学的な大著を残しているという。というわけで、この人物を紹介するアーティクルとして、モハメルド・アミン・エルゴハリー「アッ・ザフラウィー:近代外科の父」(Mohamerd Amin Elgohary, Al Zahrawi: The Father of Modern Surgery, Annals of Pediatric Surgery, vol.2, 2006)(PDFはこちら)というのを読んでみた。折しも西欧では、外科処置は床屋や肉屋の所業とされ、トゥールの公会議(813年)での「外科は医学校とすべての本物の医師により放棄されるべし」との決議がずっしりと重くのしかかっていた(?)頃合い。一方のイスラム世界では、治療や教育のための病院組織の発展(11世紀)という人類史的に重要な貢献がなされていた。そんな中でアンダルスに登場し活躍したアッ・ザフラウィーは、後に両世界の架け橋をもたらすことになる。長大な主著『処方を入手できない者のための処方の書(通称:解剖の書)』(كتاب التصريف لمن عجز عن التأليف)は、1150年にクレモナのゲラルドゥスによって翻訳され(オリジナルに描かれた器具などの挿絵ごと)、18世紀ごろまで重要な医学文献として参照されていたという。ウィリアム・ハンター(実験医学の父とされるジョン・ハンターの兄)などもそれで学んでいるのだとか。挿絵で描かれている器具の多くはザフラウィー自身の考案によるものだという。「○○の嚆矢」という事例のリストは様々で、○○の部分には脱脂綿の使用とか、血友病の説明とか、歯科矯正学的記述とか、膀胱結石の切除での鉗子の使用とかいろいろなものが入る。うーん、これはなかなか壮大だ。天才的な外科医ということで、小説とか映画とかの主人公にできたりしないかしら(なんとも月並みな発想だが)。

wikipedia (en)より、1531年のピエトロ・ダルジェラータ訳によるアッ・ザフラウィーの外科・医療器具論のページ