アラン・ド・リベラの『哲学の考古学』(L’archéologie philosophique (Bibliothèque d’histoire de la Philosophie))から続き。メモとして主要な流れを抜き出しておく。第3回講義の後半から第5回までは、ポルフュリオスの掲げた「問題」がいかに後代において普遍論争としてまとめられていくかを、多様な面から検討している。まず重要なのが、アレクサンドリア学派の最後の大物だったアンモニオス(6世紀:シンプリキオスの師匠)による折衷主義。彼はプラトン主義とアリストテレス主義との混成を目し、ポルフュリオスが触れようとしなかった哲学的・神学的問題にあえて踏み込んでいき、個物に対する普遍の在り方でもって「普遍」に三つの様態を区別する。「複数化前の普遍」「複数化における普遍」「複数化後の普遍」というもので、要するにそれぞれ、個別化していない絶対的な普遍としてのイデア、個別化した普遍としての形相、そして個物を認識する際の抽象化された概念を指す。この三分割はその後長く継承されていくことになる。
さてさて本筋に戻って、中世哲学関連の話を。このところ、中世哲学の研究史についていろいろと興味深いトピックが出てきている気がするが、これなどはまさにその王道というか、正面切っての精力的な取り組みになっている。カトリーヌ・ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代的理性–ピエール・ベールからエルネスト・ルナンまで』(Catherine König-Pralong, Médiévisme philosophique et raison moderne: de Pierre Bayle à Ernest Renan (Conférences Pierre Abélard), Paris, J. Vrin, 2016)。18世紀から19世紀にかけての、中世研究の成立史を追った一冊。全体は四章構成になっていて、最初が概論的な中世研究史、次がアラビア哲学の認識問題、第三章は神秘主義vsスコラ哲学、第四章はアベラールの受容の変遷史を扱っている。著者本人も序文で記しているように、全体を俯瞰した後、徐々に問題圏を絞り込んでいくという構成になっている。
個人的に注目したいと思ったのは、とくにこの第四章のピエール・アベラールの受容の変遷。18世紀の啓蒙主義時代のアベラール評価は、基本的にその自伝や同時代の証言などにもとづき異端的とされ、さらにエロイーズとの手紙などの関連で、物語的な(ロマネスクな)人物像で彩られていた。さらにその異端的な部分(スピノザ主義の先駆として、あるいは無神論者として)がドイツの哲学史研究者によって強調され、19世紀初頭までそうしたネガティブな評価が優勢だったという。普遍論争の絡みでも、アベラールはプラトン主義者と見なされ、実在論の人という形で評価されたりもしている(まあ確かに、そのように読める箇所がアベラールのテキストには随所に見られるのだけれど)。これに異を唱える先鋒となったのが、ヴィクトール・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)で、主に校注版の編纂を通じて、アベラールの評価を180度変えていくことになる。聖書の注解書に見られる正統教義の理解(スピノザ主義や無神論ではない)、『sic et non』に見られるスコラ哲学の嚆矢的なスタンス、師のロスリンを発展させた形での概念論的なスタンス(プラトン主義ではなく、むしろ唯名論に近い)などなど。
前回取り上げたルカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une histoire de la “Double Vérité” , vrin, 2008)から再び。同書の第4章(最終章)はとくにイタリアの16世紀を取り上げている。イタリアは実に特徴的だ。13世紀に禁令が発せられたフランスのパリ大学などとは違い、同時代のイタリアの大学には神学と哲学の対立関係はあまり見られない。それは一つには学問分類の違いがあったからだという。イタリアの場合、自由学芸の教育は神学のもとではなく、伝統的に医学のもとに従属していたのだという(神学は大学機構の中で、どちらかといえば周辺に追いやられていたらしい)。ところがやはりそちらにもその後は紆余曲折があって、15世紀末か16世紀にかけて、「信仰に反する」議論への反論が重要な問題として再浮上する。