「集団論・民族論など」カテゴリーアーカイブ

「ジョングルール」の社会的認知

ジョングルールというと、当然ながら一般に音楽史において取り上げられる話題だけれど、これを職業としての確立という側面からアプローチしようという論考があったので、ざっと読んでみた。ネイサン・ダニエルズ「ジョングルールからミンストレルへ:一三世紀および一四世紀のパリにおける世俗音楽家の専門職化」(Nathan A. Daniels, From Jongleur to Minstrel: The Professionalization of Secular Musicians in Thirteenth-and Fourteenth-Century Paris, 2011)というもの。とりあえずメモ。全体は三部構成になっていて、第一部では世俗の音楽家に対する知識階級の評価の変化を追い、第二部では租税台帳から音楽家たちの社会状況を検討し、第三部でミンストレルのギルド化についてまとめている。どのセクションもなかなか興味深い話になっている。とくに個人的に惹かれるのは第一部。長らく教会は世俗音楽をまるで評価せず、ジョングルール(音楽家と芸人の両方の意味があった)などは救済の対象にならないとして悪徳の烙印を押してきた。とくに大道芸などでの身体の異様な使い方が、正常の動きに反するとして忌み嫌われていたようだ。ところが一三世紀になったあたりから、たとえばパリの神学者ペトルス・カントールとその一派などが、「officium」(務め)という側面を評価しはじめる。ジョングルールたちのもつスキルが「civitas」(社会)にとって有用であるという限りにおいて、ジョングルールたちは再評価の対象になっていく。トマス・アクィナスなどもそうした再評価に一役買っているという。またそうした変化には、大道芸の不自然な身体の動きから、音楽的パフォーマンスの面へと、論じる側の重点がシフトしていったという事情も絡んでいたらしい。1300年ごろにはグロケイオの『音楽論』(De Musica)が発表されるが、そこではある種の音楽がモラルや情動面のスタビライザーになりえ、全体として社会に貢献するといった議論が展開する。ちなみにグロケイオの同書は壮大な訳注と解説がついた邦訳がある(皆川達夫ほか監修、春秋社、2001)。あまりちゃんと覚えていないが、確かこの書は、器楽曲のところでビウエラについて言及したりしていたはず。

租税台帳をもとに、一三世紀前半にはあったという「ジョングルール通り」(現在のランビュトー通り:ポンピドゥ・センターの北側あたり)の住民の状況を読み取ろうという第二部も興味深い。その通りは音楽家たちばかりか、様々なスキルをもった人々が集まっていたといい、とはいえ音楽家たちはほかに比べて定着率が高く、やがてそれがミンストレルのギルドの母体となっていき、最終的に職業集団として公認されるようになっていくというわけだ。

中世の「ネイション」観

一般に、国民(ネイション)というのは近代的概念だとされ、中世などに当てはめるとたんに微妙な感じ、どこか落ち着かない感じがしてしまう。けれどもルネサンス期あたりでも、たとえばイタリアのナショナリズムは人文主義と密接に結びついていたとされ、そうしたナショナリズムの強化という時代の流れに乗じて、教皇たちはみずからをイタリア精神を体現する君主と捉えるようになり、都市国家側の野心と衝突することになる……なんて記述が、少し前に挙げたバラクロウ『中世教皇史』に見られたりもする。うーむ、では中世においてはどうだったのか。実際のところ、13世紀当時の大学において、学生が出身地別の「国民団」に属していたことはよく知られている。ブラバンのシゲルスなど、その団長として大暴れした話などが伝わっているくらいだ。総じて「国民」という意識はどの程度、あるいはどのように共有されていたのか。そのあたりがとても気になってくる……というわけで、リーズ・デーヴィス「中世世界における国民と国民的アイデンティティ:一つの擁護論」(Rees Davies, Nations and National Identities in the Medieval World: An Apologia, Revue belge d’histoire contemporaine, Vol.34, 2004)という論考に目を通してみた。近代以降についてのネイションの定義(アントニー・スミスによる定義など)には確かにそぐわないものの、中世においても人々は自分たちがなんらかの民族・国民に属していると信じていただろうという立場から、論文著者は中世研究においてもしかるべき「国民」概念を用いてよい、あるいは用いてしかるべきだと主張する。

その理由は、まずもってそもそも民族を指す意味でのnacio(natio)という言葉、あるいはgentes(民族・氏族)という言葉が中世の文書によく見られるからだとされる。ウェールズのルーワリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffudd)の書状が例として挙げられているほか、ウェールズで初のノルマン人司教となったベルナルドゥスの教皇宛ての書状(1140年ごろ)や、シチリアのフリードリヒ二世が民族同化の危険を警告する文書(1233年)など、いろいろな史料に見いだせるようだ。著者は、そもそも中世人の民族意識は私たちが考えるよりもっと生々しいものだったろうとしている。民族自体が神が創ったものとされ、血縁関係こそがその所属を規定していたというわけだ。それは現代人に負けず劣らず現実的なものだったはずだ、と。

論文の後半では、イングランドを例に、ネイション・ステートの成立プロセスを描いている(イングランドは12世紀ごろのきわめて早い段階から一種のネイション・ステートだった、という話)。それは基本的に、外敵に対する集団の自己規定、民族名の付与、過去の共有(ルナンが言うところの歴史的神話の創設)という形でのアイデンティティの確立というステップを踏んでいる。とくにこの第三の点は、もとはベーダの『イングランド教会史』があり、11世紀のノルマン・コンクエストを経てもなお、イングランドの歴史的神話は改編を経てその出来事に適応しそれを吸収していったとされる(反ティントンのヘンリーが1120〜30年代に著した『イングランド史』)。このあたりはちょっと図式的すぎる感触もないわけではないけれど、議論の入り口としては悪くない気がする。

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