「言葉の学」カテゴリーアーカイブ

プロクロスの『クラテュロス註解』

Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronte夏前に『クラテュロス』を読んだが(こちらこちらを参照)、それとの関連でプロクロスによる『クラテュロス註解』も見始めた。イタリアはボンピアーニ社から出ている希伊対訳版(Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronte, a cura di MIchele Abbate, Bompiani, 2017)。まだざっと全体の三分の一に眼を通しただけだけれど、いつものプロクロス節(新プラトン主義的・発出論的な物言いが、様々に変奏されて繰り返される)がここでも堪能できる。『クラテュロス』は言葉が社会的な約束によるものなのか、それとも事物の本質を普遍的に表すものなのかという問題をめぐる対話篇。前半三分の二を占めるヘルモゲネスとの対話では、社会的な約束によるとするヘルモゲネスの説をソクラテスが粉砕する。後半になると一転して、本質主義的な物言いをするクラテュロスを批判する。両成敗的な展開を見せるテキストだけに、プロクロスがどのようにアプローチしていくのかが注目される。

……というか、根底には発出論の図式がある以上、そこから逸脱することはないだろうと、ある程度その予想はつく。実際、たとえば言葉による事物の定義についてのコメント一つとってみても、その産出者は「知性」(ヌース)であり、各々の固有性を構成するかたちで各々の事物が分割される、などと言われる。分割と構成はアリストテレス的なディアレクティケーの操作でもあり、かくして新プラトン主義とアリストテレス主義との折衷的なコメントも散りばめられていく。しかしながら、やはりというべきか、「事物の後に生じるディアレクティケー(プラトン的な)が崇高であるように、認識の実践後にこそ名前もまた正真なものとなる」などとも記されている。そしてまたミメーシスの原理により、名前は形相を、したがって数を模倣する。そこから導かれるスタンスは、クラテュロス的な本質主義に親和的なものとなることがわかる。実際、ヘルモゲネスに反論するソクラテスの文言と同様に、プロクロスも本質論的な立場を擁護し、慣習説・規約説に反論してみせている。さらにはプラトンのほかの対話篇からの引用をも援用していたりもする。こうしてプロクロスは、知性と名前の関係性を、原理と結果、モデルと像という関係性として改めて強調してみせる。もとの対話篇に即して、話はその後、立法者としての名づけ親、すなわちデミウルゴスのほうへと向かっていく……。

こうなると、逆に対話篇の後半(というか最後の三分の一程度)に展開するクラテュロス批判、つまり、本質論への批判をどう扱っていくのかがとても気になってくる。けれども先取りして言うならば、残念ながらどうやらプロクロスのこの註解は、ヘルモゲネスとの対話の途中(407a8-c2)で唐突に中断されてしまっている(orz)。意図的なものなのかどうか不明だが、ちょっと拍子抜けではある。けれども、架空的にありうべきクラテュロス批判の手がかりのようなものを見いだせないかと問うてみるのも悪くはないかもしれない……そう思い直し、そのあたりを含めて少しメモを取りながら読み進めることにしよう。なにか興味深いポイントがあれば、追って記そう。

通詞の現象学 – 1

蘭学と日本語杉本つとむ『蘭学と日本語から、二つめの論文「現代文法用語の翻訳と考察」を見てみた。これまた中野柳圃が著した『九品詞名目』という語学研究書(オランダ語の品詞を分類・解説したもので、成立は18世紀末とされる)を取り上げ、その内容を文献学的な手法で考察している。品詞は9つに分類されていて、今とは呼び方が異なるものも多い。というか、当初の品詞名の翻訳は相当に難しいものだったろうと推測される。今でいう名詞は静詞、形容詞は虚詞、分詞は動静詞、副詞は形動詞、接続詞は助詞、前置詞は慢詞などとなっている。とりわけ興味深いのは、今でいう「冠詞」で、これは「発声詞」と訳されているのだそうだ。

論考ではこの発声詞について、それが柳圃の意訳であると指摘し、機能などをもとに、日本語の性格として言われてきた「発語」、荻生徂徠の「発語ノ辞」などに関連づけて訳出したのだろうと記している。「冠詞」の訳語が登場するのは、『蘭学梯航』(1816)、『和蘭文範摘要』『魯語文法規範』(1813)、そして論文著者が見いだしたところでは、宇田川槐園『蘭訳弁髦』(1793)が最も早いという。とはいえ、素人考えながら、この「発声詞」という名称はもっと複雑な感触を伝えている気がする。そもそも「発声」という語から、音声を念頭においたアプローチ、認識論的解釈を見て取ることも可能なのではないか……などと。

そんなわけで、手がかりを求めて、ネットで公開されている櫻井美智子『英文法事始』(東京女子大學附屬比較文化研究所紀要 47, 105-120, 1986)(PDFはこちらという論考を見てみた。それによると、本邦初のオランダ語文法書とされる、同じく中野柳圃の『和蘭詞品考』も、やはり品詞分類と用法を考察しているという。もっぱらイギリスの事例ではあるけれども、同論考によれば、18世紀には、16世紀から続くラテン語ベースの文法と、独自の文法体系を打ち立てようとする流れとの二つが存在していたらしい。八品詞(冠詞を除いた)の分類というのは、ラテン語文法での分類法がそのまま踏襲されたものだという。実は冠詞に関しては、もとのギリシア語文法の伝統では、八品詞に含まれていたのだそうだ(一方で形容詞が独立した品詞扱いされていなかった)。しかしながらラテン語には冠詞がなかったことから、ギリシア語文法で副詞に含まれていた間投詞が、代わりに加えられて新八品詞となった。こうして八品詞は、紀元前一世紀のギリシアの文法家ディオニュシオス・トラクス(あるいはそれ以前)からあり、ラテン語では6世紀ごろのプリスキアヌスを経て整備され、やがてそれが各国語の文法にも受け継がれていくこととなる。冠詞を加えて九品詞とするというのはその後の流れだ。こうしたことを踏まえるなら、柳圃の「発声詞」という訳語が、なにかその間投詞(感情や応答などを表す)の流用の経緯、残響を感じさせるようなものになっている、と述べることはできないだろうか。訳出にあたって柳圃は、おそらく相当にいろいろ調べたに違いないが、いずれにしてもアルカイックな経緯が、訳語という形で部分的にせよ蘇る(言い過ぎならば、原義の一端が露呈する、とか)というような事態を、ここに目の当たりにすることができないだろうか……。もちろんこれは、今のところ個人的な想像(妄想?)にすぎないのだけれども。

「考古学」というアプローチ – 4

L'archeologie Philosophique (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)リベラの講義の続きとなる第8講。これも大まかなラインとポイントをまとめよう。前にも出てきたように、「言葉」「概念」「事物」の三分割路線のはじまりには、ポルフュリオスの問題提起と、プロクロスによる「悪」の問題を位格と絡めた議論(悪には固有の位格はなく、他の位格に寄生的に依存するという考え方)があった。リベラによれば、そこからやがて、(1)普遍と悪とが同列になるのではという問題、(2)普遍の地位と虚構の地位の問題が生じてくるようになる。まず一つめについては、前述の通り、ストア派が絡んで問題は複雑さを増す。例として新たに上げられているのが、オリゲネスによる『ヨハネ書註解』第二巻だ。

ヨハネ書には「すべては彼(御言葉)によって生じ(Πάντα δι’ αὐτοῦ ἐγένετο)、一つも彼なしには生じなかった(καὶ χωρὶς αύτοῦ ἐγένετο οὐδε ἓν [ὁ γέγονεν])」という一文があり、ὁ γέγονεν「生じたもの」を後半の文の主語と取るか、それに続く別の文(「そのうちに生命があった(ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν)」)の主語と取るかで解釈が変わってくる。つまり「彼なしには生じたものは一つもなかった。生命は彼のもとにあった」と取るのか、「彼なしには一つも生じなかった。生じたものには生命があった」と取るのか、というわけだ。オリゲネスはこれを哲学的に註解する。「すべて」があらゆるものを含むとすれば、悪や罪なども御言葉によって生まれることになってしまい異端となってしまう。それを避けるために、一部の論者は悪が「無である」(固有の位格をもたない)と考えた。一方で一部のギリシア人たちは「類」や「種」も無であると考えている(ストア派が暗示されている)。また、神にも御言葉にもよらないものは「無」であるとも考えている、と……。オリゲネスが述べているのは、ストア派によるなら、悪も普遍も存在しないのではなく、位格を付されていないだけで、「何かの事物ではない」わけではないということになる。ここに「存在論(オントロジー)」と「何性論(ティノロジー)」の領域の区別が課せられる、とリベラは考える。ストア派は存在よりも「何かの事物であること」を上位に位置付け、それに非物体的なもの・言い表しうるもの(レクトン)を置いた。それは固有の位格をもたないが、思考に従属した存在と見なされる。ここに、普遍と悪がある種同列に位置付けられることになる。

二つめの普遍と虚構の話は、続く第9講で検証される。ヤギシカ(tragelaphos:中世あたりまでは存在しえないものの代表として取り上げられた)や「黄金の山」などの問題も古くから議論され、前者はもともとアリストテレスの『分析論後書』に見られるといい、6世紀の新プラトン主義的アリストテレス注釈者エリアスなどは、ヤギシカと抽象的な普遍とのあいだには差異があるとし、前者を名前のみのもの、後者を事物に基礎をもつものとして区別しているという。この前者が、名目的定義という概念をもたらし、中世に引き継がれることにもなるのだが、当然そこにはポルフュリオスの三分割(言葉的ロゴス、概念的ロゴス、本質的ロゴス)からの流れもあったようだ。ストア派は、上の悪の話と同様に、虚構も普遍も同じような地位にあると見なすのだが、これに対し新プラトン主義の側は、普遍をどうにか虚構の上位に置きたいと考え、虚構を心理的構築物(ψιλὴ ἐπίνοια)に、そして普遍を思惟(ἐπίνοια)に位置付けてみせる……。このような古くからの歴史的文脈は、近現代にまで命脈を保っており、リベラはフーコーの知の考古学に再度立ち返り、言表行為のコンテキスト理解の重要性を改めて強調して、綿々と続くその流れを概観しようとする。……とこんな感じでなかなか面白い議論になっている。

通詞の現象学 – 0

蘭学と日本語思うところあって、杉山つとむ『蘭学と日本語』(八坂書房、2013)を読み始める。これは基本的に蘭学についての著者の論文集。まだ一本目の「中野柳圃『西音発微』の考察」を見ているだけなのだけれど、噂にたがわず、すでにしてとても興味深い。中野柳圃は江戸時代の通詞・蘭学者(1760 – 1806)。その柳圃に『西音発微』という書があり、日本語の五〇音についての考察が展開されているのだという。蘭学による西欧の音声学の影響を受けてということなのだろう、そこではいち早く近代的な音韻論の萌芽のような記述があり、当時優勢だった国学の見解と見事に対立するものとなっているらしい。たとえば語末の「ん」の音(撥音)。柳圃はこれを「ん」であると認めているが、伝統に立つ大御所の本居宣長などは、これをすべて「む」であると一蹴しているのだという。柳圃と宣長のアプローチの差を、著者は「科学的考察」と「観念論」との対立であると読み解いている。さらには喉音(ア行の音)と唇音(ワ行、ハ行などの音)との差についても、柳圃の側が優れた指摘を行っているという。

柳圃における現象へのアプローチは、蘭学の影響と言ってしまえば簡単だが、それはもっと丁寧に深めていく価値がありそうに思える。通詞的な作業が内的に開いてくパースペクティブとか。そのような観点から、同書はいっそうの精読に値するような気がする。そんなわけでこれを「通詞の現象学」という側面から読むことができないかと考えてみたい。通詞という役割の内実や、そこから開かれたであろう、そして当人の学術的営為を深いところで駆動したかもしれないそのパースペクティブの実情、そしてその言語観の成立などなど、様々な方向性が考えられる。とはいうものの、蘭学がらみの話はまったくの門外漢なので、多少とも時間がかかりそうではあるけれど、追って順にまとめていくことにしたい。

【基本】アリストテレス『命題論』再訪

Categories. On Interpretation. Prior Analytics (Loeb Classical Library)プラトン『クラテュロス』に続き、アリストテレスの『命題論』(『解釈について』)を復習する( Categories. On Interpretation. Prior Analytics (Loeb Classical Library))。名詞と動詞の区別の話から、命題の肯定・否定の話などへとシフトしていくのだが、久々に眺めてみて、やはり一番面白いのは、肯定命題にはそれぞれ対立する否定命題が一つだけあるというあたりの話。「「人間である」の否定形は「人間ではない」であって、「人間ではないものである」ではないように、また「白い人間である」の否定形は「白い人間ではない」であって、「白くない人間である」ではない」(21b1〜4)というふうに、否定が名詞(ὄνομα)ではなく動詞(ῥῆμα)にかかるというところがミソ。けれども、全体的にどこか巧妙な感じを与える議論展開ではある。これについては、次の論考が参考になる。高橋祥吾「アリストテレスにおける命題の対立関係と問答法」(『比較論理学研究』第2号、広島大学比較論理学プロジェクト研究センター、2005、PDFはこちら。アリストテレスがこの連辞用法でのbe動詞の否定を、否定命題を作る際の原理に据えていることを指摘している。さらにそれは命題の真偽での対立関係について、全般的に当てはまるといい、命題の矛盾対立関係が、命題の要素における概念レベルの対立とは関係ないことが示されている。そしてそれこそが、イエス・ノーを明確にする「問答法」(διαλεκτική)の問いをつくるために必須なのだとされる。アリストテレスの巧妙さの正体は、同論考によると、もともとのῥῆμαの定義が不十分であり、その中で「である」の特殊性によってその不完全さを補完している点にあるとされている。なるほど。では、もっと精緻な定義がなされるとしたら、それはどうなるだろうか、といったことを思ってみたりもする。