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「考古学」というアプローチ – 2

L'archeologie Philosophique (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)アラン・ド・リベラの『哲学の考古学』(L’archéologie philosophique (Bibliothèque d’histoire de la Philosophie))から続き。メモとして主要な流れを抜き出しておく。第3回講義の後半から第5回までは、ポルフュリオスの掲げた「問題」がいかに後代において普遍論争としてまとめられていくかを、多様な面から検討している。まず重要なのが、アレクサンドリア学派の最後の大物だったアンモニオス(6世紀:シンプリキオスの師匠)による折衷主義。彼はプラトン主義とアリストテレス主義との混成を目し、ポルフュリオスが触れようとしなかった哲学的・神学的問題にあえて踏み込んでいき、個物に対する普遍の在り方でもって「普遍」に三つの様態を区別する。「複数化前の普遍」「複数化における普遍」「複数化後の普遍」というもので、要するにそれぞれ、個別化していない絶対的な普遍としてのイデア、個別化した普遍としての形相、そして個物を認識する際の抽象化された概念を指す。この三分割はその後長く継承されていくことになる。

アレクサンドリアで活動していたアンモニオスの助手には、キリスト教徒だったヨアンネス・フィロポノスもいて、この人物がアンモニオスの講義内容の流通に力を貸している。三分割モデルはキリスト教化されたモデルとして、即座にシリアのキリスト教徒たちに取り込まれていったらしい。当然以後は、その三分割モデルが回顧的に、おおもとのポルフュリオスの「問題」に投影されることになる。7、8世紀の人物と目されるアルメニアのダビドによる註解から始まり、12世紀のニカイアのエウストラティオス、アヴィセンナ、さらにはアルベルトゥス・マグヌスなど、三分割モデルを継承した人々は多数いた。この三分割には、やがて「言葉」「概念」「事物」の三分割が(中世において)、さらにはプラトン主義、アリストテレス主義、ストア派の三つ巴の対立関係が(より後世の思想史において)投射されるようになる。リベラはそのあたりを丹念に追っていく。ポルフュリオスの掲げた問題そのものは、情報の劣化(間接的に言及されるだけになるなど)を伴いつつ継承されていくものの、その情報劣化のせいで、より大胆な解釈・刷新も可能になっていく(これは伝達作用の基本事項かもしれない)。

ストア派が引き合いに出されるようになる背景には、とりわけ悪の問題、すなわち偽のヒュポスタシス(位格)の問題があった。存在する事物には位格が備わっているとされるわけだけれど、問題なのはそれを伴わない、あるいは位格をもつ別のものに依存するしかない悪しき存在だ。この問題系は、プロクロスの失われた文書で言及されているのだという。メルベケによるそのラテン語訳が現存するといい、これを最初に訳出・刊行したのも例のヴィクトール・クザン(19世紀)だった。いずれにしてもこの存在論的なテーマは、「類や種は存在するのか、それとも純粋な概念でしかないのか、言い換えるなら、真の存在なのか空虚な概念なのか」というポルフュリオスのもとの問題に、容易に結びつく。で、それを普遍論争に重ね合わせていく嚆矢の一人に、ほかならぬクザンがいた、というわけだ。

リベラによると、普遍論争に関しても、実在論・唯名論のほかに、第三の項として概念論を加えて三分割とする考え方が近代に登場する。それはたとえば19世紀初頭の哲学者・博愛主義者、ジョゼフ=マリー・ジェランドなどに見られ、しかもそこでは概念論がストア派に結びつけられているという。ジェランドも唯名論を三種類に分割していて、ロスリン(アベラールの師匠)の極端な唯名論、アベラールの穏健な唯名論、ストア派のゼノンに見られる概念論(個体と心的操作を認める立場)を区別していた。ジェランドのこの三分割は、ドイツのヤーコプ・ブルッカーなどを経由したものだということだが、当然ながら上で触れた、はるか昔のアンモニオスの三分割の残響をなしている。また、ブルッカーは普遍論争の遠縁をなすギリシア哲学の学派として、プラトン、アリストテレス、ゼノンのそれぞれの派を挙げているという。ゼノンと概念論とがこうして結びつくのと同様に、アリストテレスと唯名論とが結びつくことになるわけだけれど、これには上のヴィクトール・クザンが絡んでいるという。民族主義的見地からフランス哲学史を価値付けようとしていたクザンは、12世紀のアベラールによるアリストテレス主義を見いだした。唯名・実在の二項対立に代えて、そのアリストテレス主義を含む三項対立としたことで、哲学史におけるフランスの存在感はいや増す結果になった。クザンは実際、アベラールをスコラ哲学の創始者、そしてデカルトをその終焉者として描き出している……。

ジェランドの重要なソースとなっている人物は、ブルッカーのほか、スコットランドの哲学者ダガルド・スチュワート(17世紀)もいるという話で、この後の講義では、リベラはそちらについて検討していくようだ。

中国思想の性善説・性悪説

悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)思うところあって、中島隆博『悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)』(筑摩書房、2012)を読んでみた。個人の内面にではなく、外部の社会的なものにつきまという「悪」の問題をテーマに、古代中国からの哲学思想を振り返るというもの。小著ながら実に面白く読むことができた。思想史的には、悪を内面の問題に帰着させるようになったのは12世紀の朱子学、15世紀の陽明学においてなのだといい、両者はともに性善説に立脚している。それ以前のはるか古代においては、たとえば自然災害などの災禍などをめぐる解釈として、「天人相関」の考え方(2世紀ごろから)があったものの、その解釈も一枚岩ではなく、徐々に天と人との間に関係はないという切断の思想が導かれていく(8、9世紀ごろから)。こうして人が天から切り離されたものというふうになっていくと、人の性(本来の性質)が改めて問題になる。性善説を唱えた孟子はそうした文脈の上にあったようだけれど、一方で孟子は地上に悪があるということを認めてもいたという。

そうした中での性善説はどういうことを主張しているのか。著者によるとそれは、仁や義は対他関係において発揮される徳(自己の内的完成ではなく)だからこそ幸福をもたらすというもので、超越的次元も内面も設定することなく、悪の存在を前提として、その上にあえて対他関係での善を実現しようという思想なのだという。善はしたがって、だまっていれば実現されるようなものではなく、目前の他者への惻隠の情を不在の他者にまで及ぼすような想像力の拡張を通じ、不断になされる作為的な努力が必要だとされる。内在的な善への傾向性は、努力によって実現に至らしめなければならないのだ、というわけだ。そしてそのための方途として儒家思想の「礼」が見いだされる、と。

この孟子の思想は、はるか後代(18世紀)に朱子学への批判の文脈で再浮上する。と同時に、孟子思想の先鋭化としての荀子(そちらは性悪説に立つ)もまたクローズアップされる。荀子の性悪説はどんなものだったか。儒家の「礼」概念を否定し自己充足の徹底化(非倫理)を図ろうとする荘子に、それはとくに対立していたといい、放置するならば壊れていくしかない人の性を、なんらかの調整作用によってマイナーリペアしていくというものだったらしい。そのために、社会的な規範としての礼の作為が必要であるとされる、というのだ。こうしてみると、孟子の性善説も荀子の性悪説も、一般に性善説・性悪説が引き合いに出されるときの意味合いと、だいぶ趣が異なることがわかる。同書は震災・フクシマ後に書かれたものということで、個人の内面に依らない社会的悪への対処を考えるというスタンスに貫かれており、アクチャルな事象を背後に見据えながら哲学史について語るという思想史家的実践としても高く評価できるように思われる。古代中国思想もなかなか興味深い、と改めて思う。

「考古学」というアプローチ – 1

L'archeologie Philosophique (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)アラン・ド・リベラの講義録の第二弾が出ていたので、早速ゲットし見始める。『哲学の考古学』(Alain de Libera, L’archéologie philosophique (Bibliothèque d’histoire de la Philosophie), Vrin, 2016)というもの。2013年から14年にかけてのコレージュ・ド・フランスの講義録で、先の講義録を補完する内容のようだ。リベラは自分が使う「考古学」というアプローチを吟味し直すところから始めている。10回の講義のうち、まだ冒頭の3回分をざっと見ただけだが、フーコーが取り組んだ知の「考古学」概念について、ここではさらなる精緻化を試みようとしているかのよう。そこで問題とされるのは、もはや単なる「ディスクール」ではなく、ロビン・ジョージ・コリングウッド(20世紀前半の英国人哲学者)を引き合いに、哲学史の領域は「疑問と応答(応酬)の複合体」(CQR : complexes of questions and answers)から成るという考え方のもと、そうした疑問と回答の相互のやり取り・ネットワークとして哲学史が再考される。その事例として、リベラはここで例のヴィクトール・クザンによる普遍論争の紹介を取り上げている。ポルフュリオスの問いかけが普遍問題として見いだされる過程にメスを入れようというわけだ。

ポルフュリオスの『イサゴーゲー』は冒頭で、イデアはあるかないかと問うている。実際には少し長い文(段落)であり、そこで示される問題というのは、(1)「類や種がそれ自体としてあるのか、それとも単に知性の中にのみあるのか」(2)「それらがそれ自体としてある場合、それらは物体的なものか、それとも非物体的なものか」(3)「それらは感覚的な対象とは離在的に存在するのか、それともそうした感覚的対象の中に、その一部として存在するのか」というもの。ポルフュリオスは、自分はさしあたりそれらについて判断しないと明言している。同書はアリストテレスの『カテゴリー論』への導入として書かれたものであり、ポルフュリオスはここで、同書の目的(σκοπός)がそうした形而上学にはないことを示しているように思われる。けれども同書は6世紀にボエティウスがラテン語に訳して以降、ポルフュリオスの意図とは別に、普遍をめぐる教説の参照元に押し上げられていく。クザンは、ボエティウスが上の3つの文言を最初のものに集約し、それが実定的に存在することを肯定していると見、しかもそれが類や種のみに限らず、差異や本性・偶有に対しても適用されていることを難点とし、ボエティウスがポルフュリオスを正しく理解していないと批判しているという。

クザンはその上で、ボエティウスに寄らない解釈を示していくというわけなのだが、そこでは『イサゴーゲー』が『カテゴリー論』の序文であり、その『カテゴリー論』が『命題論(解釈について)』の前段階をなしているという事実から、この一文が解釈されることになる。『命題論』の冒頭には、事物と魂における情感(概念)との区別が立てられている。ここから、『命題論』の解釈が『カテゴリー論』の目的の解釈(アカデメイア派に古来からその目的をめぐる議論があった)に、さらにはその『カテゴリー論』の目的の解釈が『イサゴーゲー』の解釈に、フィードバック的もしくは回顧的に投影されていくことになるのではないか……というのがリベラの見立てだ。クザンは上のポルフュリオスの三つの問いを微妙に言い換えているというのだが、すでにしてそこに、こうした回顧的投影の痕跡が見いだされる、ということもできるかもしれない。ポルフュリオスにとっては問題として定立されていなかった普遍についての問いが、こうして後から「投影」されることになる。「考古学」が分け入っていくべきなのは、そうした残照からの解釈の投影・応酬・照応関係そのもの、そうした構造そのものなのだ、ということになる。

フランス近現代のプラトン受容 – 5 (ブルデュー、ラカン)

プラトンと現代フランス哲学』の後半部の論考は、いわゆる「現代思想」の大物によるプラトンへの言及を読み解くことで、彼らがどこか奥深いところでプラトン思想と共鳴していることを明らかにする、という趣旨のものが多い。ドゥルーズもそういう扱いだったが、続いて登場するオリヴィエ・タンラン(ティンランド?)によるブルデューにまつわる論考(pp.239- 262)もそういう一篇。ブルデューはいわゆる「哲学素」をプラトンから汲み取りつつも、プラトンと対立する側、すなわちプロタゴラスの相対主義の側に立つ。つまり、臆見や言論が社会的な条件や文脈に根ざしていて、ゆえに普遍的な射程をもちえない、という立場だ。しかしながら、とこの著者も言う。ブルデューは他方で、学知の領域の社会構造を説明しようとし、理論構築の活動がそうした構造的制約のもとに置かれることで、逆説的に普遍的なものの産出が可能になることをも説いてもいる、というのだ。さほどラディカルではないブルデューの相対主義は「理性のリアルポリティクス」を提唱する。学問の場での社会的行為者同士の利害対立が、普遍的知を産み出す条件になっている、というもので、ある意味これは周回遅れのプラトン主義のようでもある。個人的にもプロタゴラスの相対主義の問題はなかなか興味深いので、そのあたりも含めてそのうち検討してみたいところではある。

とりあえず先を急ごう。ラカン思想とプラトンの絡みを論じたポール・デュクロの論考(pp.263 – 284)も、やはり同じような問題圏を形作っている。精神分析には哲学の「彼方」を目している側面があり、相対的ながら反アリストテレス主義的でもあり、その意味でプラトンの側へと接近してもいるという。ラカンの『セミネール』第19巻では、「プラトンはラカン派である」という一節すらあるのだそうだ。とくにそこで取り上げられるのは、『饗宴』における「愛」についての考察。ソクラテスは愛する側にのみとどまろうとし、愛の対象となることを拒絶する。論文著者のまとめによれば、この非対称性によってソクラテスは欲望の構造(つまり何も欲望しない、虚無への欲望)を明らかにし、あたかも精神分析医であるかのような立場を体現して、主体を欲望の意味の構造へと帰してみせる。これが「愛」についてのラカン流の解釈ということになる。

これは分析医がどうあるべきかといった倫理的な解釈(ラカンのセミネールはもとより精神分析医を相手にしたものだった)なのだが、同時に存在論的な解釈でもある(根源的な構造を問題にしているからだ)。そこで問題になるのは主体の存在。それは「一者」として在りはするものの、現前として在るのではなく、現前を可能にするようなものとして「在る」とされる(多数のシニフィアンを産み出す、不在としてのマスター・シニフィアン)。まさにここに、ラカンはプラトンを「ラカン派」として読み込もうとするのだ、というわけだ。一者のテーマは新プラトン主義的でもあるという意味で、これはなかなか示唆的でもある。論文著者によると、アラン・バディウは「ラカンは反プラトン主義をなんら標榜してはいない」と評しているそうだ。それは急進化し論理化したプラトン主義であり、ある意味きわめて古典的なのだという。著者は論文の冒頭のほうで、プラトンとプラトン主義は西欧文化全体を貫いており、それがラカンにも浸透しているのではないかという仮説を示しているが、こうしてみると、同書に収録の論文に依拠する限り、ブルデューにしろラカンにしろ、どこかそういうプラトンとの通底という側面が、案外否めないような気さえしてくる。

フランス近現代のプラトン受容 – 4 (フーコー、ドゥルーズ)

プラトンとフランス現代哲学』は、ヴェイユの後から第二部に突入する。ここから論文の趣向が変わり、フランスの現代思想(旧)の巨匠たちにおけるプラトンへの関わりが検討される。それまでの「研究者たち」にとっての「受容」とは違う側面が前面に出てくる。プラトン受容史というお題目からややずれていくような感触もなきにしもあらずだが、さしあたりざっとまとめておくことにしよう。

まず取り上げられるのはフーコー。フーコーの「自己への配慮」または「精神の鍛錬」の議論は、歴史家・文献学者のピエール・アドの議論に触発されたところが大きいとされるが、その両者のプラトンとの関わりについて相互の差違を明らかにしようというのが、アニッサ・カステル=ブシュシの論考。アドが主張する、古代世界の哲学とは生き方の選択にほかならないというテーゼは、ときにあまりに漠然としているとの批判も買ってきたらしいが、全体としては広範に適用可能なテーゼであり、たとえば精神の鍛錬という概念についても、アドのそれは、主体の修正・変容のなすための実践全体を包摂するのに対し、フーコーはそれを禁欲を構成する諸実践のような、より狭い領域・意味で見いだそうとする。実際アド自身が、フーコーの議論は「自己」にあまりに集中しすぎていると批判しているという。存在の美学や自己の彫琢といった狭い意味合いをアドは認めず、フーコーの議論に見られる「自己の内在化」の動きには、別種の動きないし別の在りよう、つまりおのれが普遍的理性などの一部をなしているといった、世界との別様の関わり方が必要になるのではないか、とアドは言う。論文著者によれば、アドの関心は、哲学が真理を越えて自己との関係を変貌させるその仕方に向けられている。対照的にフーコーは、形而上学的な側面、魂と身体の分離(つまりは死の問題)といった次元にさほど関心を向けないことも指摘されている。かくしてこの論考は、以前から漠然となされてはいたフーコー批判を、改めてアドを通してまとめたという感じの一篇になっている。

続いてエルザ・グラッソの論考はドゥルーズとプラトン主義の関わりを扱ったもの。ドゥルーズはストア派的なものの再解釈の立場を取り、もとよりプラトン思想には批判的だ。実際、イデア論が立脚するモデルと像というそもそもの対立図式をドゥルーズは批判してみせ、それらを生成変化という観点から存在論的一義性に帰そうともする。論文著者が示唆するように、これはまさに形而上学的な転覆だ。けれども、と論文著者は言う。実はプラトンそのものが、同時代的なミメーシスの混乱(ソフィストたちの乱立状況か)をみずから捌いてみせたという経緯があり、あらゆるものをシミュラークルに帰すというドゥルーズの哲学は、実は批判対象の当のプラトンに意外に多くを負っているのではないか、反プラトンでありながらも、根底はプラトン的(もちろん教条的プラトン主義とは異なる)ではないか、と。またこれは、上のフーコーのスタンスとも対照的ではある。