例によって、このところまとまった時間が取れないのだが、空き時間にリュカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une Histoire de la “Double Verité” (Conférences Pierre Abelard), Vrin, 2008)を読み進める。とりあえずまだ前半のみ(二章まで)だけれど、これもまた実に面白い一冊。哲学的真理と神学的真理があるといった、中世盛期において糾弾される考え方が、当時本当に広まっていたのかという問題については、その旗振り役だったとされるブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスなどの研究が近年進んだこともあって、必ずしも彼らがそうした議論を信奉し教えていたわけではないとの下方修正がなされ、しまいには「それは一種の虚構的な教えであって、中世の論者たちはそんなことを決して教えてはいなかった」との見解でにまで至っているという。でもそう聞くと、これもまた、曲がった棒をまっすぐにしようとして逆に曲げてしまうようなところもなきにしもあらずではないか、というくすぶり感が残りもする。その点を少し詳しく検証しようというのがこの著書だ。
確かにタンピエの1277年の禁令以来、パリ大学などの神学的な教えはある程度一枚岩にまとまった感もあるようだ。ただ著者はそこでちょっと意外な角度から問題にアプローチしていく。まず最初の章で取り上げられているのは、17世紀末から18世紀にかけて活躍した哲学者ピエール・ベールの例。歴史的に、アヴェロエス主義の副産物のように言われている二重真理説を、ベールはなんと宗教改革のルターに帰しているというのだ。で、著者によれば、確かにルターはパリ大学を中心としていた教説、「哲学と神学で、真となるものは同一である(idem esse verum in philophia et theologia」という教説に反対する立場を取っている。と同時に、15世紀の神学者ピエール・ダイイの「真理の協和」理論などを高く評価している。この真理の協和理論の格言「すべての真理はすべての真理と協和する」(omnia vera vero consonant)は、実は13世紀後半以降、『アリストテレスの権威』(Auctoritates Aristotelis)なる当時もてはやされた詞華集によって広く拡散したのだという。もとはグロステスト訳のアリストテレスの文言だというが、この詞華集のせいもあってか、もとの意味はだいぶ曲解されて伝わっているという。本来は、任意の賢者が真理について下す判断が誤っていたとしても、それはその賢者の判断対象が不確かな領域にまで踏み込んでいるからであって、正しい判断さえあれば真理は真として判断されうる、といった二重真理的な意味合いなのだというが、広まったバージョンはむしろ、パリ大学的な、一元論的な真理の格言となっているらしい。この後、1277年の禁令解釈が流転する様子が検討されている。
余談ながら、同書の主要部分を占める17世紀と18世紀についての歴史的跡付けについては、研究リソースとして専門的なデータベースの使用が言及されている。17世紀はEEBO(Early English Books Online)、18世紀はECCO(Eighteenth Century Collections Online)というのがあって、英語文献を中心に全文検索できるらしい。長い年月をかけて古書を猟渉するのに代わり、入手も困難な書籍が簡単に閲覧できるという意味で、これはなかなか画期的だ。研究の中味も当然変わっていくのだろう。マイナーな書籍や著者をも議論に引き入れることが可能になる反面、それだけに、こうしたデータベースを丹念に、網羅的に読み渉っていくこともまた、新たな、相当に骨の折れる作業になるのだろうな、と……。
ずいぶん前に囓りかけて中断していた、ビュリダンによる『生成消滅論』への注解書をまた改めて読んでいこうと思っているのだけれど、少し前にそのための参考書になるものを探してみたところ、ヨハネス・ティッセン「アリストテレス『生成消滅論』注解の伝統序文」(Johannes M.M.H, thijssen, The Comentary Tradition on Aristotle’s De generatione et corruptione. An Introductory Survey, The Commentary Tradition on Aristotle’s De generatione et corruptione, Brepols, 1999)というのを見かけた。で、ようやくこれにざっと目を通すことができた(残念ながら、このPDF、現在はダウンロード不可のようだ)。『生成消滅論』の注解については、アリストテレスのほかの著作に比べると研究が少ないようで、この序文ではまずアリストテレスのもとのテキストの要約・紹介し、続いてあまり現存するものがないというギリシアの注解の伝統について触れ、中世のラテン語訳(いわば旧訳。クレモナのゲラルドゥス、ピサのブルグンドゥス、メルベケのウィリアムの三つの訳があるという)、1400年から1600年ごろイタリアとフランスで行われた新訳の話が続き、それからラテン世界での註釈の伝統が取り上げられる。アリストテレス自然学の大学でのカリキュラムへの流入はもちろん転換点をなしているものの、『生成消滅論』がそのカリキュラムでどういう位置づけになっていたかはあまり注目されてこなかった、と著者は指摘している。一方でアルベルトゥス・マグヌス以降にその注解の流れもでき、とりわけ「ビュリダン派」(ビュリダン、ザクセンのアルベルト、ニコラ・オレーム、インゲンのマルシリウスなどを指す仮称とされている)による議論が大きな流れをなす、と。
前回取り上げた論集からもう一本、ウィリアム・カートニー「オッカム派はあったか?」(William J. Courtenay, Was there an Ockhamist School ? in Philosophy and Learning: Universities in the Middle Ages, ed. Maarten J.F.M. Hoenen et al., Brill, 1995)についてのメモ。1474年の勅令では、批判対象として名指しされているのは、実は「唯名論者」という表記ではなく、「革新派の博士たち」と記されているのだという。もちろんそこで筆頭に挙げられているのは、オッカム以下の非ドミニコ会系の主要な論者たちなのだけれども、実はこれには大元のリストがあるのだという。それはジャン・ド・メソヌーヴが15世紀初頭に著した普遍論で、オッカム、ビュリダン、インゲンのマルシリウスが批判されているのだとか。これが1427年のルーヴェン規約(実在論側の影響を受けている)や、1474年のルイ11世の勅令とそれに対する唯名論側の訴えなどを経て、微細な違いなどはそぎ落とされ、オッカム派イコール唯名論者という図式が成立していったらしい。ロスケリヌスやアベラールが前史として補われるなど、その系譜図が確立されるのはヨハネス・トゥールマイヤ(アヴェンティヌス)以降の16世紀。こうしてオッカムと唯名論者は一種の「復興創設者」となり、それに思想的に連なる人々は「一派」をなしていると考えられるようになったのだという。そんなわけで、現代の歴史家からすると、この15世紀から16世紀にかけて発展した歴史観は正確なものとはいえない、というわけだ。ただし一方で、14、15世紀当時、なにがしかのそうした一派(オッカム派)があると考えられてたのも確かのようだ。