「言葉の学」カテゴリーアーカイブ

時間表現へのアプローチ

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)空き時間にKindleで読んでいた瀬戸賢一『時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)』(筑摩書房、2017)。これが小粒ながらぴりりと辛い山椒のような一冊で、とても好感をもった。著者はレトリック研究を主に手がけてきた言語学者・英語学者。日本語表現を中心に、さらには英語表現などをも普遍的に捉え、時間の表象がどのようになされているかという問題を扱っている。内容的に大きなポイントとなるのは二つ。一つは時間の「流れ」の表象・メタファーについて。時間が流れるという場合の、未来から過去へと流れこんでくる方向性と、人間が時間の中を進んでいく場合の、過去から未来へと進んでいく方向性の二つを浮かび上がらせ、それらの織りなしが問題とするなど、認識論的に大変面白い問題を投げかけている。もう一つは、「時は金なり」という、ある意味資本主義を反映・下支えしているメタファーへの批判。資本主義がある意味行き詰まりを予感させる昨今において、これからの世界に必要なのは、それに変わる別のメタファーではないか、として興味深い提案を示している。メタファー研究から投げかけられる、新たな認識的転回の提言。こういう、ある意味地味なところから大きな展望が開かれるという、その様がなんとも素晴らしい。良書。

クラテュロス(後半メモ)

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)少し遅くなってしまったが、クラテュロスの後半についてのメモ。それまで長く続いてきたヘルモゲネスとの対話の後で、ソクラテスは今度はクラテュロスと向き合う。ものごとの名前が慣習にもとづくとするヘルモゲネスに対して、クラテュロスは名前はなんらかの自然本性に結びついていると考えている。ソクラテスも前者に向き合う際には、後者のような議論を展開しているように見え、最終的にはギリシア語の音の一つ一つ(音素)が、基本単位として、なんらかの抽象的な意味をミメーシス的に担う、という話にもなる。「ρ(ロー)」が速い動きを表すとか、「ι(イオタ)」が細やかさを表すとか……。ところがクラテュロスに対すると、今度はすでに何度か示されているような言葉の不純さの議論(「当代語はいずれも外国語などに影響されて不完全な状態になっている」という指摘など)をもとに、クラテュロスの言う、言葉が本性を表すというテーゼに反論していく。絵画がミメーシスとして、余計なものをつけたり削除したりするのと同様に、言葉も本性を正確には模写しないこと、数には似た名前がつけられないこと、また学びの観点からすれば、名前から本性を知ろうとするよりも、事物そのものから知ろうとするほうがよいことなどが、主な論点として示される。こうして対話はいつもながらの唐突さで終了する。

この後半部分についての論考は邦語のものも多少あるようで、ネット上で探しても何編か見つかる。たとえば、クラテュロスについてのモノグラフとして、田中あや『「名前の正しさ」と名指しの本性的正しさ ――プラトン『クラテュロス』研究――』(慶応義塾大学、博論、2016)(PDFはこちらという博論が公開されている。内容を細かく分けて検討した労作のようだけれど、長大なのでまだきっちり読めておらず、今は取り上げないでおく。ここではさしあたり、中澤務「プラトンの『クラテュロス』における「名前の正しさ」」(『哲学』第44巻、1994, pp.166-175)を見ておこう。この論文は、ソクラテスが相手にしているヘルモゲネスとクラテュロスには、ともに名前のかたちと事物との関係を名前の正しさだと見なして、名前の使用について誤った考えをもっているという共通点があるといい、ソクラテスが批判するのはまさにその「名前の使用についての誤り」なのだと喝破する。クラテュロスとの対話部分に関しては、とりわけクラテュロスの唱える「虚偽不可能論」が問題だとされる。ソクラテスが名前を音素にまで分解するのは、クラテュロスの説の本質を明らかにするためであり、その本質とは、名前に含まれる情報こそが唯一重要で、それは間違い得ないとされるということだ。けれどもソクラテスは、名前に含まれる情報以外にも事物との関係性(結びつき)がありうるとして、これを批判している。その別様の関係性とは、まさに名前の使用における実際的な結びつきであり、名前はものの理解(事物の本質についての学び)を経なければ、コミュニケーションへと開かれていかない。ソクラテスはそう考えている、というのが主要論点。個人的には、このクラテュロスに対するソクラテスの論究が、コミュニケーションそのものの問いを俎上に乗せているとまでは(一見するかぎり)実感が沸いてこないようにも思えるのだが……。このあたり、解釈の余地が広くあることは確かだろう。

【雑記】言語の力

公開中の映画『メッセージ』(原題:Arrival、ドニ・ヴィルヌーヴ監督作品、2016)を観た。主人公が言語学者のSF。言語学者を主人公に据えた作品は『アリスのままで』(グラッツァー&ウェストモアランド監督作品、2014)もあったけれど、そちらはアルツハイマー病の話。これも人の尊厳や人格的同一性についての問題提起の映画ではあったけれど、言語学的・言語哲学的に踏み込んでいくわけではなく、言語学者という設定が生かし切れていたかどうかは微妙なところでもあった。一方、今回の映画は、未知の生命体とのファーストコンタクトを題材に、まさに言語と認識の問題に(もちろんほんの少しだけではあるけれど)立ち入っていこうとしている。エンターテインメントだけれど、それはそれで好感が持てる。仮にそんなファーストコンタクトが現実にあったとしたら、同作に描かれたように、やはり軍が先頭に立って指揮するだろうし、言語学者・記号学者も動員されるだろう。そのあたりは、なるほどそれなりにリアリティがあるかもしれない。音声の区切りすらわからない状況で、最初の意思疎通を図るために、文字を見せる(幾何学図形とかではなしに)というのも秀逸なアイデアだ。もっとも、フィクションの要をなす嘘もあって、劇中で言及されるサピア=ウォーフの仮説は、現実の認識は言語の枠組みによって制約を受ける、というもので、言語がある種の認識能力を導く・開花させるという話ではないと思うのだけれど、映画ではこれが拡大的に解釈されて終盤に重要な役割を果たしていく。言語の力といったテーマが全体を貫き、まさにカナダ人監督の多言語環境あってこその一作という気もするし、また、ここには完全言語(神の言語、アダムの言語)をめぐる長い伝統の息づかいも感じられる。

個人的にはまた音楽がよかった。ミニマル・ミュージック的・環境音楽的な流れとドローン(通低音)が、独特な雰囲気を盛り上げている。というわけで、サントラを挙げておく。

クラテュロス(前半までのメモ)

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)プラトンの初期対話篇の一つ『クラテュロス』をLoeb版(Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1926-39)で読んでいる。現在ほぼ折り返しのあたりぐらいのところまで。とりあえずメモ。名前の正しさについてという副題が示すように、名前(名称)とは何かという問題をめぐる対話篇。クラテュロスが、名前は普遍的に決まっているとするのに対し、ヘルモゲネスがそれは社会的に約束事として決まっているという立場を取り、ソクラテスがそこに加わって持論を展開していく。とはいえ、クラテュロスとヘルモゲネスのいずれかに軍配が上がるのかには今のところ決着はつかず、ソクラテスは両者の折衷的なスタンスを取っているようにも見える。全体はほとんどヘルモゲネスとソクラテスの対話で進んでいき(後ろのほうではクラテュロスとの対話になるようだが)、いつしか話は、神々の名前、天体、元素、時節を表す名詞、あるいは価値を表す形容詞などの、語源の話に移っていく。

ひたすらギリシア語での話になっているが、ソクラテスの方法論は割と一貫していて、より古いギリシア語古形にこそ語源があると考え(このあたり、多少強引に民間語源的な説明をつけているような部分もあるが)、そこから文字の付加もしくは削除、置き換えなどを通じて、当代(対話がなされている時代)のギリシア語の語彙になっていると推測している。何気に面白いのは、(細かい話なのだけれど)その具体的な語源の議論。たとえば「みにくい(αἰσχρός)」という語には、「命名者」(ここではソクラテスはそういう特定者を想定している)による「流れ(ῥοῆ)」の阻害への非難がくみ取れるとされ、「つねに流れを阻む(ἀεὶ ῖσχοντι τὸν ῥοῦν)」がその語源になっていると記されたりする。同じように、「有害な(βλαβερὸν)」も、「流れを阻害しようとする(βουλόμενον ἅπτειν ῥοῦν)」が語源であるとされたりする。なにやら、流れもしくは正常に流れていくことに関わるテーマが、垣間見えるようにも思われる。ソクラテスが展開する語源分析そのものは、あまり研究の対象になっていないような印象なのだけれど(?)、こんな感じで案外面白い問題を含んでいるかも、なんて妄想したりもする。

中国思想の言語と政治

Timaeus. Critias. Cleitophon. Menexenus. Epistles (Loeb Classical Library)つい先日、プラトンの書簡集をLoeb版(Timaeus. Critias. Cleitophon. Menexenus. Epistles (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1929)で読了する。とくに重要とされる第七書簡は、よく指摘されるように、プラトンが哲人政治を理想としつつも、その現実的な変節ぶりを受けて、次善の策として法治主義をよしとするという形になっていて、『政治家』などの考え方にダブっている。執筆時期も重なっているということか。けれどもここで気になるのは、その次善の策とされる法律による支配の内実だ。プラトンは明らかに成文法による支配と考えているように思われるが、初期のころに見られた、とくに書かれた言葉に対する懐疑の姿勢(『ゴルギアス』)は、ここへきてきわめて現実主義的な対応へと転換しているようにも見える。言語への懐疑がリアルポリティクスに絡め取られてしまう、ということだろうか……。

残響の中国哲学―言語と政治これに関連して、ちょうど読み始めた中島隆博『残響の中国哲学―言語と政治』(東京大学出版会、2007)が、中国の古典の例だけれども、ほぼパラレルな議論を投げかけていて興味深い。同書の第一部は、言葉と政治をめぐる議論として、『荀子』、言不尽意論・言尽意論の系譜、『荘子』、六家(諸子百家)のその後の展開などを取り上げている。ここでとりわけ注目されるのは、『荘子』に見られるという言葉(とくに書き言葉)への恐れだ。言葉は統治の基本をなしているとされるのだが、問題は言葉にはそれを乱す力もあるという点だ。したがって言葉の考察はまさに政治学と一体化している。で、『荘子』だが、そこでは意→言→書という価値的なヒエラルキーが設定されていて、前者が後者を包摂する関係にあるとされる。その最も重要とされる「意」は、いわば言語の外部のようなもの、言語を言語ならしめている当のもの、ということになり、かくして言は意を尽くすことができないという言不尽意論が出てくる。意に達するには、言を忘れなくてはならない、と。面白いことに、言尽意論者とされる王弼(226-249)が、意→象→言というかたちで、言の手前に象なる原初的な書き言葉を置いているのだという。それは予め忘却された原エクリチュール、ということらしい。意に至るには、その象こそを忘れなくてはならないとされているのだという。『荘子』のほうは、言を忘れたところ、是非や可・不可の対立の手前に、根源的なオラリテ(声)が鳴り響く状況を考えている、と著者は解釈している。原オラリテか原エクリチュールか。これは悩ましく(?)、また興味深い問題でもある。

また、次の指摘も興味深い。性悪説に立脚する『荀子』の場合は、意を尽くすことができない(言不尽意論)からこそ、ある種の強制力(刑罰)を導入することを説くとされるが、言を不要と見なす点において、それを忘却しようとする言尽意論と重なり合っている、とも同書では説かれている。要は二項対立ではなく、どのような条件が言語に必要なのかが問題なのだ、と。またさらに、同書の冒頭には、少し前に取り上げた、文字や画の誕生にまつわる張彦遠の一文が引用されているが、そこでは書字の確定によって、霊怪が姿を隠せなくなり鬼が夜哭いた、という部分に注目している。文化によって自然が文化化され、自然の秘密が露呈されると、もう一つの秘密である鬼もまた、その姿が露わになる、というのだ。文字と幽霊的なものとが複雑に絡み合っている様子だというのだが、これはとても意味深な一節だと思われる。