「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

このところの色々

○静岡方面で地震多発の今週。想定される「東海地震」とは関係ない、と気象庁は相変わらず言っているけれど、素人目には一種の群発地震みたいな感じにしか思えない……。うーん……。でもこの「素人目」には実は長い長い歴史があるわけで、それ自体が面白いものだったりもする(思想史的に)。なんといっても最たるものはアリストテレスの『気象論』での地震の説明(365b21)。地中から吹き上がる発散物が、地上に抜け道を得られないときに一気に内側に流れるため地震が起きるというもの。大地震は夜に起きることが多い、とも語られている。日中は太陽が発散を押さえるからとされている。これって一種の対流の考え方で、温泉などもそれに関係しているとされていて、当時としては結構よくできた説明になっているんでないの(笑)。この説は17世紀頃まで普通に唱えられていたという話もどこかで読んだ気がする。ちょっとこの地震論部分の歴代の注解を追ってみるのも面白そうだ。

○先日テレビで放映していたアニメ版『時をかける少女』。前に一度DVDで見たけれど、今回の放映を録画して見直してみる。いや〜、これもよくできている。何も考えていない脳天気な現代的女子高生が、最後のほうではいろいろ思い悩むようになる。でも一番存在感があるのは、やはりかつては時をかけていたらしい「叔母さん」かしらね。主人公の少女をなぜかとてもおおらかに見守っている(笑)。物語のバランスとして、こういう「後景に退いたかつての主役」キャラを配したところがすばらしい(かな?)。

○少し前にNHK BSでやっていた5夜連続のガンダム30周年特番。これも録画でちょこちょこ視た。アニメ放映の前後に入る「宇宙世紀の歴史が動いた」というパロディが傑作。アニメ評論の氷川竜介氏の「歴史学者っぽい解説」がとてもよかった(笑)。ガンダムの宇宙世紀シリーズも、やはり上の「時かけ」の叔母さんじゃないけれど、基本的には前の主役たちが後景に退き、深い味わいをかもしているのが良いよね。

レオナルドの食卓?

これもちびちびやる就寝前本のつもりが、一気読みになってしまった(笑)。渡辺怜子『レオナルド・ダ・ヴィンチの食卓』(岩波書店、2009)。レオナルドが当時どういう食事を取っていたのかをめぐる、「想像の旅」(オビから借用)。学術的な研究書ではなく、料理研究家のエッセイという感じなのだけれど、レオナルドの手稿から料理に関係していそうな拾っていくとか、とても手作り感あふれる探求のアプローチが好ましい。個人的にはこういうアプローチ、なかなか捨てがたく、共感を覚えるなあ(笑)。食の話が中心かと思えば、そうでもなくて、レオナルドの蔵書を「覗いて」みたり、解剖手稿から当時の解剖について考えてみたり、より広いルネサンス時代の食事全般をまとめたりと、緩急自在な好エッセイ・好試論になっている感じ。

それにしてもレオナルドの日記は、食に関してはひたすら淡泊で、あまりに味気ない(苦笑)。著者は対照的に、同世代の画家ポントルモを取り上げている。何を食べたか、結構こだわって書いているのだという。結構極端な性格だったらしいという。結果的に当時の食に関する資料をもたらしたわけか。ポントルモってあまり馴染みがないなあと思っていたら、なるほどマニエリスムの要人なのね。

代表作の『十字架降架』(↓)。1525年から28年ごろの作。フィレンツェのサンタ・フェリチタ聖堂所蔵とか。写真によって発色がだいぶ違うけれど、全体に淡い感じが漂っている(?)。

Pontormo,_Jacopo_-_Kreuzabnahme_Christi_-_Icon_(164x263px)

「ザナドゥーへの道」

就寝前読書の楽しみにしていた中野美代子『ザナドゥーへの道』(青土社、2009)。つらつらと読むつもりが、いつのまにか一気読みに(笑)。エッセイと短編小説の中間のような形式で、中世から現代までの東西交流の様々な要衝(年代的・場所的)をめぐっていくという、カレイドスコープのような珠玉の連作。これは一気読みになるでしょう、どうしたって(笑)。軽やかな筆致で綴られるお話の数々は、とりわけ中央アジアへの憧憬を誘わずにはいない。12世紀に今の新疆ウイグル自治区(つい最近衝突があったばかりの)にあたる東トルキスタンを平定したグル・ハーンこと耶律大石が、西方のキリスト教世界の「プレスター・ジョン」に擬せられたというくだりや、やはり12世紀にエトナ山の噴火を逃れて石工になった青年が、十字軍でエルサレムに向い、やがてムスリムになって耶律楚材に会い、さらにモンゴルの大地で没したという壮大な話などがあるかと思えば、19世紀の碩学のオリエンタリスト、ポール・ペリオや、フランス海軍の軍医、ギュスターヴ・ヴィオーの話など、研究者・探索者の足跡にまつわる話もある。なんとも懐の広い、とても上質な幻想奇譚が12編。あー、満足。中野美代子氏といえば、ずいぶん昔に『仙界とポルノグラフィー』あたりを読んで以来な気もする。あとがきに姉妹編として挙げられている『眠る石–綺譚十五夜』とかも読んでみようかしら。

異本の論理

……とりとめもなく。

昨日はテレビで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』をやっていた。ちょうど日経新聞夕刊の映画短評が劇場公開中の『破』を褒めていて(絵も演出も素晴らしいみたいに書いている)、いやー、なんだかとても時代の空気の変化を感じますねえ……。『序』のほうは、なにやら細部は違うみたいだけれど、基本的にはテレビ版に準じていて、個人的にはいまさらあまり高揚感もなかった(苦笑)。基本的には異本という感じでしかないのだけれど……。結局、異本を読む(広い意味で)というのは、異本群(単に原本だけでなく)にそれなりの思い入れのあるマニアないし研究者でもない限り、それほど高揚できる所業ではないわけで。一方、作り手サイド(二次的な作り手も含めて)はというと、これは完結した作業について必ずどこか改訂したいという思いを抱き続けるものだと思う(たぶん)。こうして作り手と受け手の間に微妙な温度差が広がっていく……のかしら?あるいはそれが対流をなしていくとか?

そういえば、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、中世において広く流布したテキストだとされるけれど、本人自身が何度かかなりの加筆を行っているというし、流布したテキストというのもかならずしもどれかの完全版ではなく、一種の抄録版みたいなものがむしろ出回っていたみたいな話だった。テキストの受容は、その全貌でもって受容されるわけではない、というある意味ありふれた話なのだけれど、そういう一般的な作品受容という観点からすると、今の時代の映像作品も、時代も場所も対象も違っているといういのに、大きな流れとしては同じような道をたどるということになってしまっているのが興味深い。受容のパターンはそれほど違っていない……これって作品と人の関わりという意味で、媒介学的に(?)とても面白い現象・問題かも。

登攀せよ、類推の山

就寝前読書の本は、適度に面白そうだけれど実はそれほどでもない、というのがちょうど良いかも(笑)。それだと途中で放り出すこともなく、かといって眠らずに一気読みすることもない。でもたまにその中道から外れるものもある。で、久々に良い方に外れたのがルネ・ドーマル『類推の山』(巖谷國士訳、河出文庫)。すっごく遅ればせながら、一気読み。もとの邦訳は78年白水社刊ということで、文庫も初版96年だから、まあ多少ネタバレしても問題ないかな、と(笑)。これ、一種の冒険小説なのだけれど、なんだか学知探求の登攀の比喩のようにも見えてくる(笑)。通常のアプローチでは見えもしないしアクセスもできない超絶的な高さの<類推の山>。そこへの通路を、ある特殊な思弁(笑)でもって見出した一行。彼らは当然ながら、その山の登攀を計画する。そこに行くまでにもいくつもの逡巡があるのだけれど、そうして道の圏域に踏み出すと、またしても待ちかまえているのは麓での時間の無駄遣い(エントロピーですな)。それを脱して最初の小屋にまで登るも、新たなパーティにその場を受け渡すまでそこに止まらなくてはならないというルールが……。こうして登攀の行程はまだまだ先が長そうなのだが、作品は結局未完。うーん、少年老いやすく学成り難しというところか?登攀のための準備の描写がまたいい。最初、あれもこれもと荷物を詰め込む一行は、やがて結局は高度馴化が最も重要で、それを妨げるようなものをあれこれ持って行っても仕方がないということを悟るのだ。あ〜、なんだか身につまされるような気も……(笑)。