「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

イリュージョン・コミック

実に久々の観劇。新国立劇場でのコルネイユ作『舞台は夢(イリュージョン・コミック)』(鵜山仁演出)をマチネで。最初はちょっとすべりそうな感じもあったのだけれど、途中からはなかなかテンポもよく、観客の笑いをうまく誘っていた。いや〜、それにしてもコルネイユの作品が上演されるというのがなにより珍しく、また嬉しい(笑)。1635年の作だけれど、いわゆる劇中劇もの。劇中劇としてはもしかして最初期?少し前に文庫クセジュからアラン・ヴィアラ『演劇の歴史』(高橋信良訳、白水社)を読んだけれど、その中でもこの作品は重要なものとして紹介されている。それによると、1630年頃、アリストテレスをベースにして、時、場所、筋が単一でなければならないという主張(三単一の規則)をする一派(「規則派」)が、それらは多様で構わないとする一派と論争を繰り広げた。で、規則派が優勢になるのだけれど、コルネイユは三単一の規則に従いながらそれを巧みにすり抜ける方法を、この『イリュージョン(後の「イリュージョン・コミック」)』で実現してみせたのだという。同書は劇中劇の成立史みたいな話は直接取り上げていないけれど、そのあたりの記述からも、劇中劇が成立するには、やはり劇の世俗化と、それだけでなくなんらかの精緻化がなければならないということが窺えるし、おそらくこのコルネイユがその嚆矢ということになりそうだ。うん、ほかの作品もぜひまた上演してほしいところ。

Monkey Business

Monkey Businessちょっとうっかりしていたのだけれど、先日、出先の駅近くの書店に平積みになっているのを見て購入した、柴田元幸責任編集の『monkey business vol.3.5』。vol.1が良かったので続けて買おうと思っていたのに、すっかり忘れていた(苦笑)。例によって岸本佐知子の「あかずの日記」はむちゃくちゃ可笑しい。電車の中で開いて、笑いをこらえるのがしんどいほどだった(近くにいた乗客がもしこちらを見ていたとしたら、顔を引きつらせているおっさんをきっと不気味がっていたことでしょうね)。寄稿している川上未映子とか川上弘美とか、なんだかとても「異世界」な文章の書き手たちが集まっている感じで、その変な違和感こそがこの雑誌(?)の最大の持ち味かも。なんでvol.3.5なのかと思っていたら、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(柴田訳)で丸一冊仕上げたのがvol.3だったのね。こちらは取り寄せて読んでいるところ。うーん、実に変な味わいの、これまた微妙な「踏み外し感覚」がずっしりくる短編がずらりと並んでいる。『ナイン・ストーリーズ』は初めて読むのだけれど、なるほど新潮文庫版(野崎孝訳)もあるのか。

幻想的なもの

雑誌と思って取り寄せたら、形態は書籍で、しかも新書版サイズで450ページ強……。なかなか力が入っているなあ、と思ったのが『SITE ZERO/ZERO SITE Vol.2 — 情報生態論:いきるためのメディア』(メディア・デザイン研究所) 。残念ながらあまり書店では見かけないのだが、『Intercommunication』誌もなくなった今、こうしたとんがった人文知の雑誌(?)にはぜひ頑張ってほしいところ。面白い体裁で、右から開くと単独論文や連載などが縦組みで掲載され、洋書のように左から開くと特集「情報生態論」の論考や記事が横組みで掲載されている。特集のほうでは、責任編集者らしいドミニク・チェン氏と西垣通氏の対談が面白い。久々に西垣節を聞いたなあ。

単独もののほうでは、冒頭の宮﨑裕助論文「決断主義なき決定の思考」が読ませる。シュミットの決断主義とデリダの決定の思考とを対比させて、主体に回収されてしまわない「決定・決断」のあり方を考えようというもの。でも、デリダ的な根底をさらうような議論は、テキストへの応答というあくまでリアクショナルなものであって、そこから現実的な政治、物象化した形での政治は出てきようがない感じもするのだけれど……。まさにこれは、存在と存在者のいずれに重きを置くのかといった問題にも通じていく。次に掲載されているカトリーヌ・マラブーの論考は、まさにその存在と存在者(有)との狭間の問いを取り上げているのだけれど、これが西欧の哲学的な深い問いであるというのに(中世はまさに、トマスなどによってそれがある意味で先鋭化した時代だ)、どこか妙にあっけらかんとした(失礼)印象を受けてしまう。そうした問題をハイデガーやレヴィナスやナンシーに限定して読み込もうとしているからなのかもしれないけれど、うーん、相変わらず今ひとつ煮え切らない読後感が残る(苦笑)。

余談だけれども、存在と存在者の差異もしくは狭間に垣間見えるものを、「ファンタスティックなもの」(幻想的なもの?)とするのは西欧の底流の一つ。怪物とか異界とか、そういったものはすべてそこに結びつけられる。最近DVDで見たのだけれど、スティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン監督作品の映画『ミスト』とか、あるいは話題になった『クローバーフィールド』とか、とにかく「外部」のものによって脅かされて、存在者としての人がおのれの存在の根源に向き合わざるをえなくなる、という話になっていて、なるほどこういう基本スタンスからは、たとえば日本版のゴジラのような、怪物がいつしか子供たちのダークヒーローになっていくという話はとうてい出てこないだろうなあ、と納得してしまう。逆に言うと、怪物がそうした根源性をすぐに失ってしまって、あっという間に物象化してしまう風土というのは何だろう、という問題もあるのだけれど(笑)。

*↓深まる晩秋の都内某公園

『チェーザレ』6巻

惣領冬実の傑作コミック『チェーザレ–破壊の創造者』はいつのまにか第6巻が出ていた。前巻の最後でいよいよ学生時代は終了で、政争のただ中へ……かと思いきや、ちょっとその後日談的。でも話としての起伏はあり、いろいろ大変な事件が起きている。後半はちょっとチェーザレとミゲルの幼少期の話。それにしても今回も精緻な絵づくりが凄すぎ。いつも楽しみな巻末のおまけは、作者によるピサの町並みの復元(早い話メイキングですね)と、ルネサンス期についての背景知識の解説(今回はクリスマスが近いからか、ミサの話)で、とりわけ前者の緻密な復元作業の過程が素晴らしい。そうしてできあがった復元図が惜しげもなくコミックの舞台に投入されていると思うと、なんとも贅沢。