放言日記「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2000年10月〜2001年2月

02/25: ミール
ロシアの人工衛星ミールがもうすぐ落下される。最悪の場合、燃え切らない塊が地表に降り注ぐなんてこともあるかも、という話。とはいえ、被害があった場合でも局地的に限られることがわかっているせいか、それほど騒がれてはいない。軌道の真下に来る日本でもごらんの通りだ。もちろんいたずらに騒いでもしょうがない。だけどこれからは、2000年問題のようなあからさまに世界的レベルの危機よりも、「潜在的には世界に関係する局地的な危機」というものが一段と問題になっていくことは必至。もはや厳密な「対岸の火事」なんてものは存在しないかもしれないわけで。ミールの一件も、被害が出ないに越したことはないが、いずれにしても将来的な危機管理に向けて教訓を得るためのチャンスには違いない。

話はちょっと変わるが、最近J.P.クレベール『ミレニアムの歴史』(杉崎泰一郎、金野圭子、北村直昭訳、新評論)を読んだ。それによると、1000年当時の西洋では、ロマン主義に深く影響された歴史家ミシュレが言うほど、民衆レベルで恐怖にあえいでいたということはなかったというのが実情ではないか、とのことだ。民衆の感性には、おそらくはそうした不安・恐怖をかわすだけの社会的回路があったのだろう。黙示録的なものへの感受性は、20世紀の科学技術の発展によってかえって勢いづいてきた側面も確かにある。問題は、科学技術の発展に伴って、そうした社会的な回路がなくなってきてしまっていることだ。だからこそ、妙ちきりんな新興宗教などは、トップダウン型の神話を振りかざして、そうした失われた回路(それはボトムアップ型のものだと思われる)の代替物だとみずからを宣言するのだろう。だけど本当に重要なのは、そういう社会的回路を再構築することなんじゃないだろうかと思う。そう、それは地域的な現実対応型のネットワークになるんじゃないかな…と。


02/20: ケア
沈没した「えひめ丸」の水中の映像は、確かに大型トラックに衝突した軽自動車を思わせるものがある。全面的に米海軍に責任があるわけだから、船体引き上げをやってもらうのは当然という気がするが、外交上の圧力でもってそれくらい取りつけられないなら、それこそ内閣の責任問題だ。ゴルフがどうのこうのというのも頭に来るが、そういう約束を取りつけられないとしたら、それこそ首相だけじゃなく、関係者全員無能だということになる。それにしても「土下座しろ!」とまで叫ばずにいられない遺族の精神状態に、何の手も打たない官僚どもというのも頭に来る。米国側は、ハワイの日本語を喋れる精神科医の派遣を申し出たそうだが、日本の領事館は「必要ない」と言って涼しい顔で断ったというでないの。本当にこの国の責任者はイカれている。被害者・弱者のケアなんか必要ないという本音が見え見えだ。いくら口では福祉だケアだと言ったところで、こういうところで本質的な無頓着が暴露されてしまう。そりゃ日本ではカウンセリングの文化は根付いていないかもしれない。だけど、それが有用であることは広く認められている事実だ。ないよりはあった方が数倍よい。そういう有用性が実感されていけば、そうした文化だって根付くはずだ。結局、今の段階では自助努力しかないのか。だけれど、自助努力の活性化が為政者の怠慢を助長する構図になってはならない。
02/12: ファイル交換システム…
個人的にNapsterは使ったことないのだが、さらにすさまじそうなGnutella(グヌーテラ)というのが注目されているそうだ。これって起動すると、アドレス的な近場を探し始め、別のマシンでGnutellaが立ち上がっているとそれをも巻き込んで探しまくるのだそうだ。Napsterが所在情報をサーバで管理するのに対し、こちらは完全にピアツーピアなんだそうで、一元管理じゃないので取り締まりもほとんど無効とか。あとは水際での処理くらいしかできないとのこと。ネットに繋がった任意のマシンから自由にファイルを探して取ってこれるというのは、一見面白そうではあるけれど、これってつまり「発信」という概念そのものが崩壊するってことなんでないの?ま、崩壊とはいわなくても、もしこれが一般化したら、発信の概念は大幅に変化していくんじゃないだろか。音楽配信に限ったことではないのは当然。作者概念は薄らいでも、それを引き継ぐ発信者概念では、まだ「構築の意思」が介在している。Webページ一つとってみてもそうだ。だけど例えば、書きかけの文書すら受信されてしまうという状況になったら、そうした構築の意思すら揺らいでいくんじゃないだろうか。そしたらかえって誰も情報を提供しようとしなくなったりしないだろうか?それに、「勝手にうちのマシンをのぞかないでくれ」という声も当然出るだろうけど、「じゃあ繋がなければいいじゃん」と一笑されてしまいそうだ。するとパブリックなマシンを除き、プライベートな個人端末がスタンドアロンのマシンに逆もどり、なんてことも…。うーん、なんだか制約からの解放を唱う技術は、どこかで衰退をまねく技術に反転していくような気がする…。
02/06: インターフェース再び
リュートを習い始めたこともあって、この間チューナを買う。いわゆるオーディオのチューナではなく「調律器」というやつだ。これがまた面白い。昔は音叉などで合わせていたが、時代は変わったもんだ。形状はほとんどテスタに近い。音を拾うとメータの針が振れるのだが、それで合わせるというもの。このアナログ感覚がまたとてもよいぞ。しかも標準ピッチ(A音、つまりラの音を440Hzにする)だけじゃなく、バロック系の415Hzとか392Hzとか、あるいは350Hzなんてのにまで合わせられる(どういう場合に使うんじゃ?)。音叉が手もとにないため、ずっとギター教則本の付属CDで合わせていたのだが、これが狂いまくっていることも判明した。うーむ。

だけんど、こうして機械に頼っていくことを思うと、なんだか落ち着かない気分にもなる。この間の航空機のニアミス事件も、最終的にはパイロットの目視で緊急回避できたとかいう話だし。この一件、管制官のミスだというが、コンソールのインターフェースの問題とかじゃないのかしら、という気がしなくもない。もうだいぶ前だが、とある外来系のソフトウエアハウスの売り込みを手伝ったことがある。その会社の売りが、管制システムなどにも応用できる開発用ライブラリや描画エンジンだったのだが、日本では「GUIは別に…」という感じでイマイチの反応だった。今はどうだかしらないが、GUIは当時、エンジニアが一番ナメてかかる部分だった。ちゃらちゃらしたカラー表示なんてお遊びじゃん、というわけだ。そりゃデスクトップにアイコンが並んだからって別に便利って気はしないけどね。だけれどインターフェース全体で考えた場合、視覚的コントロールが有益な場合というのも当然出てくる。要は使い分けなのだ。そのあたりの柔軟な対応というのは今ちゃんと出来ているんだろうか、というのが気になる。話をもどすと、上記のチューナなんかの場合には、デジタル表示やGUI表示の必要はないわけで(笑)。今後もこのままでいってほしいものだ。


02/01: 「ひま」ということ
連日報道されている新大久保の転落事故。昔の駅のホームってせり出していたような気がするのだが、ここのはそうなっていない。せり出したホームの場合、電車に乗り込む部分の真下が小さいながらもスペースとして空いている。昔の転落事故で助かったケースというのは、どうやらそこに間一髪で身をすべり込ませて事なきを得ているらしい。ところが最近のホームというのは、そういう空間がなくなり、ホームは線路に対して切り立った崖のように垂直にそびえている場合がほとんどのようだ。このいわば「遊び」の部分の消失が、事故の場合に助かる可能性すらも削いでいる。一部のホームには、転落したらすぐにホームに登れるような足場を設けているところもあるというが、登るのと空間に転がりこむのとどちらがたやすいのだろう?

効率優先で「遊び」がなくなってしまうというのは大きな問題だ。フレキシブルであるということは、まずもって「余地」を広く取るということであるはず。これは人だって同じ。バブル景気に踊らされてきたアメリカでは、このところ「ダウンシフター」という人々が増えているという。「効率優先で金銭を稼ぐだけがすべてではない」という感覚が広まっているというこの話、もちろん一種の反動だが、さもありなんという気がする。イリイチなどは以前から「プラグを外せ」と提唱していた。文化的な営みはそういうところからしか生まれないし、そうでなければ人に対しても物事に対しても柔軟には接することができない。文脈こそ違うが、イリイチは『テクストのぶどう畑で』(岡部佳世訳、法政大学出版)で聖アウグスチヌスの言葉を引用している。「<ひま>を愛しなさい。そしたらこの世の悦楽を慎むことができるでしょう。しかしいずこにあっても、誘惑がついてまわることは覚えて置かれるように」。ひまというのは重大な問題なのだ。


01/24: 「独学者」の高慢?
このところ仕事でまさに缶詰。こんなのは1年数ヵ月ぶりだ。このページの更新すらままならない…と思っていたら、この間変なメールが届く。Medio/Socioの方で取り上げた某書籍について、どこぞの誰かが「私は◯◯について20年研究しているが、その私に訴えてこない本の価値は疑わしい」という、理屈にすらなっていない放言を送りつけてきたのだ。なんなのだ、これは?あまりのアホらしさに返事も書く気がしなかった。「訴えてこない」というなら、なぜ訴えてこないのかが明示できなければ意味がない。それを語れないなら、メールだろうと口にすべきではない。当り前のことだ。こんなんでコミュニケーションを図れる気でいるのだろうか。この送り手は独学を名乗っているが、20年もやってそんなこともできないのでは情けない。この送り手には、ガンダムシリーズの『逆襲のシャア』でアムロがシャアに言うセリフ「なんと器の小さい!」を捧げてやろう(笑)(シャア扱いするだけでも喜んでいただきたいものだ)。学問の制度的な機構の中にいようがいまいが、誰だって「独学」であるはず。20年ということだけで偉そうにするなんざ愚の骨頂だ。ちゃんと分かるように語っていただきたいもんだ。
01/13: マクロ志向への旅?
どこぞの宣伝「2001年普通の旅」も笑えたが、雑誌『ユリイカ』の今月号、特集のコピーにも思わず笑った。「2001年大江戸文化の旅」。今ちょっと忙しくなってしまって中身はちゃんと読んでいないのだが、ざっと目を通した中では田中優子と高山宏の対談がとりわけ面白かった。大筋は、歴史学をやろうとすると細かな文献批評ばかりになって、マクロな視点でものを見るというのがなかなかできなくなるという話への批判。最近とある若手研究者からメールをいただいて伺ったのだが、ヨーロッパ中世史についても同じような状況(しかもヨーロッパにおいてすら)にあるという話だった。なんだかなあ。中世史家など、現代的な問題をも視野に入れて独自の視座から発言したら面白かろうにと思ってしまうんだけどね(ま、そのためにはまずもってむちゃくちゃ博識じゃないといかんだろうけど)。とにかくマクロ志向のアプローチってのはなかなか刺激的なんじゃないだろうか、と。
01/09: 速度と「年齢」
報道が相次ぐ成人式のバカ騒ぎ。偉いさんの挨拶を妨害するなどのバカ騒ぎを見ていると、成人式なんかやめてしまうか、対象年齢を引き上げた方がいいような気がしてくる。今の人は実年齢の2割から3割引いたくらいが昔の(明治期くらいまでの)人の年齢に相当するのだ、なんていわれる。つまり、昔は40とされた「不惑」は、今や50歳くらいに相当するのだそうだ。ならば成人式も25歳を対象にするとかしてもいいのでは?(笑)。

この年齢の「2割から3割引き」という話、結構よく耳にするけれど、その根拠はなんなのだろう?平均寿命に対する比率でずらしていけばそうなるということか。だけれど一部には、かなり感覚的に述べているような印象の発言もある。比率の計算がなされたがゆえに感覚に影響を与えているのか、あるいは精神年齢の感覚から比率計算が持ち出されたのか、ちょっと不明。情報の加速度化が、かえって内的な時間感覚を遅延させている、な〜んて考えるとちょっと面白いんだけどね(相対性理論みたいだ(笑))。とにかく時間意識と速度の問題って面白そうなので、フッサールあたりをちゃんと読んでみようかしらんとも思う。


01/07: 焦点のずれ
最近、身体への回帰ということでバレエなんかもとても気になってきた。で、定番中の定番『白鳥の湖』をいまさらながら観に行く。バレエはやっぱロシアでしょ、というわけでレニングラード国立バレエの公演。演奏はなかなか良かった(だけど本当はマイク通さない生音にしてほしいのだが)し、各個人の技もなかなかのもんだったが、全体でみるとストーリー的な盛り上がりはまったく感じられずイマイチだった。踊り手の個人技をとにかく見せようという魂胆ミエミエの演出、という感じ。だけんど本来、全体の盛り上がりあっての舞台芸術だという気がするんだけどなあ。個人技を見せたいだけなら、アンソロジーにでもすればいいわけで、『白鳥』全体を上演する必要はないことになってしまう。この焦点のずれがとても気になる。本末転倒とすら思える。こういうところから芸術活動そのものが綻びていかなければいいが、とつい心配してしまうのは杞憂かしらん?
2001/01/05: 雑感
「21世紀の年賀状はこれ」という感じで宣伝を打ちまくっていたMSNのhotmmailは、予想通りパンクしたらしい。3日になってもアクセスできない状態だったという。さもありなん。あれだけ宣伝するならバックボーンの増強とかしときゃいいのに、しょうもない話だ。対照的に、サイトウ・キネン・オーケストラによる初のネット配信(小澤征爾指揮によるマーラー)はまずまずの成果だったらしい。個人的にはちょっと聴き逃してしまったのだが、事前の話では「2000の同時アクセスを想定している」とのことで、「大丈夫かい、そんなんで」と思わず笑ってしまったが、結果は多少音が飛ぶくらいのもんだったと聞く。バックボーンが太かったのか、あるいはアクセスが少なかったのか不明だけど、ま、今後音質の改善とかなされていけば面白い試みではあるはず。
12/30: 年末…
年末でしかも西暦では世紀転換期だけあって、「あと何日で21世紀だ」なんて文句をずいぶん聞いたが、「だからこうしよう」という内実を欠いた空虚な言葉でリセット指向を煽るのは、いい加減なんとかして欲しい。テレビなんかが騒いでいても、正月番組は例年と変わらず、全然新基軸みたいなものもないし。来世紀だと騒ぐなら、来世紀のヴィジョンを見せてみろと言いたくなる。いたずらにリセット指向の言葉に踊らされてたまるかという気になる。当り前のことだけど、未来を語るなら、ちゃんとヴィジョンを語るべし。来年はどうしたいのか、来世紀はどうしたいのかとちゃんと考える方がましだぜ。
12/29: ガンダム
今日テレビではガンダム20周年の特別ドラマが放映されたらしい(観なかったけど)。最近プレステ2用のゲームも出たらしく、オリジナルシリーズの名セリフをあしらったCMが流れていて面白い。というか、リアルタイムで観ていた世代(いまだカラオケでは劇場三部作の主題歌に盛り上がったりする世代)としては懐かしいよな〜。シャアの「坊やだからさ」は確かに有名だったもんなあ。そういえば敵将ランバ・ラルの「ザクとは違うのだよ、ザクとは」も結構流行ったもんだ。個人的にはブライトの吐き捨てるようなセリフ(ちょっと正確に覚えていないのだけど、「しょせん捨て駒か」とかそういう感じのやつ)なんかが印象的だったけどね。とはいうものの、アニメやゲームの業界っていつまでガンダムで稼ごうとするんだろう、とウンザリした気分にもなる。もはや一つの古典にすぎないのだから、もっとその先へと歩を進めてもらいたいもんなんだけど。
12/23: 『トレーシーズ』
まがりなりにも翻訳に関わる身として、そこに様々に絡んでくる政治性といったものに無自覚でいられるほど世の中甘くはない(笑)。そんな中、岩波書店の別冊『思想』こと『トレーシーズ』第一号を読んでみた。特集は「西洋の亡霊と翻訳の政治」。様々な論文が掲載されていて、それぞれに興味深いのだが、その根底を貫いているのは、学問が西洋の分析装置を介してしか、つまり西洋の支配構造の中においてしか存続しえないこの世の中において、それを何らかの形で相対化する方法はないのかという切迫感だ。そんな中で翻訳という行為は、当然ながらその支配構造への共犯関係をなさずにいない。だけれどそれなくして被支配側の学問的営為は成り立たない。とするならば、翻訳という行為の中からその支配構造を変容させていく契機を考えていくほかない。ではどうするか。とまあ、巨視的にはこういう問題系になると思うのだが、実際には翻訳の流通や自己規制の問題(マーケットの問題に限らず、ターゲット言語が使われる国の機構/アカデミズムもまた支配する側に立つ、などなど)が二重三重に絡みあって、状況はむちゃくちゃ複雑だ。そんな中でいかに戦略的な翻訳行為をなすことができるのか。これは机上の議論ではない大問題だ。翻訳に関わるということは、ある意味で宿命的にドン・キホーテであらざるを得ないのかもしれない。
12/22: アンチ・タッチスクリーン
駅の切符の自販機はすっかりタッチスクリーンになってしまっているが、最近やたら汚れが目立つような気がする。反応が悪くてすぐに切符が買えない事態に、このところ何度が遭遇したのだ。反応の悪さは、たぶん指先の油で汚れているため。清掃とかしないのだろうか?それよりなにより、銀行のキャッシュディスペンサはともかく、利用頻度が高い環境でのタッチスクリーンって、あんまり便利じゃない気がするんだけどね。ユーザーインターフェースって見た目のことだけじゃない、という好例だ。今の技術の流れは視覚優先で、ほかの感覚がおざなりにされている。タッチスクリーンの「押したか押さなかったわからん感覚」というのはすっごく気持ち悪いぞ。視力が悪い人にはまったく不親切だし、まずもって、液晶は改良されたとはいえ、外周の光の加減によってはすごく見づらかったりするじゃないの。何考えてああゆう機械にしとんのじゃ、と思ってしまう。
12/17: C#と.NET
年末進行でちょっと忙しい。そんな中、書店をぶらついてみたら、『C#で学ぶ.NETプログラミング』(技術評論社)というムック本が出ていた。言わずと知れた、Microsoftが提唱する次世代プログラミングのフレームワーク。敵を知るべしという感じで中身を見てみたのだが、これってほとんどJavaそっくりじゃないの。文法もそうだし、ネイティブコードじゃないっつーところもそう。んでもってJavaScriptも一緒にした感じか。しかしWindowsで稼働するWebサーバソフトIISでしか動かんのだ。うーん、またしても他人のアイデアを頂いては自社製品だけで固めてしまうというMSのやり口そのまんま。この帝国主義的なやり口、まさにエジソン商会の末裔という感じだが、こういうことをやられると、どうしても対抗手段を探りたくなってしまうよね(それをプログラミング版「ポストコロニアリズム」と呼ぼう(笑))。
12/15: チェルノブイリ
チェルノブイリ原発はようやく完全に操業停止だそうだ。どこかのアナウンサーが「まだ稼働していたというのがすごい」みたいなコメントを出していたが、これからの後処理の方が大変そう…。それにしても、ちょっと前のオーストリアでのケーブルカー火災にいたるまで、想定される事故というのを考えて事前に対策を二重三重にめぐらしておく、という視点の欠如がやはり一番問題になるんじゃないだろうか。便利だからとか金銭的に潤うからとかいう理由で安全対策もなしに突っ走られてはかなわんのだけどなあ。なんだか安全面への配慮はますます疎んじられている気がしなくもない。都市を中心に、今やものすごく危険度が増しているんじゃないだろか。

ちょっと前にビデオで『ナージャの村』という映画を見た。チェルノブイリによる放射能汚染の直撃を食らったベラルーシの寒村に暮らす、ごく普通の人々を追ったドキュメンタリー。日本人写真家が監督した作品だ。当局はよそへ移住することをもちかけてくるのだというが、生まれ育った土地を離れようとはしない人々の姿が胸を打つ。黒澤明の『夢』みたいに、放射能にわかりやすい色が付いていたらどんなにかいいだろうと思ってしまう。目にみえないだけに、その恐怖はいっそう高まる。人々は諦念にも近い表情を浮かべながら、それでも懸命に日々の暮らしを送っているのだ。その視線の先にあるものを、映画は無言のうちに語っているような気がした。都市生活の中でも、私たちは同じようなものを見とっていかなければならないんじゃないか、と…。


12/10: 地元商店街の悲惨
このところ近所の商店街の変貌が著しい。まあ、不況なのはわかるが、こう目まぐるしくてはかなわん気もする。春ごろに出来た安い焼肉屋は夏前には店をたたんだ。携帯屋もボコボコできていたが、今や明暗くっきり。いつの間にかなくなったところもある。渋い親父がやっていたとある古本屋は、11月に在庫一斉大安売りをかけてついに店をたたんだ。安売りの最後の方は店の本棚がガラガラで、なんだかとても寂しい気がした。爺ちゃん婆ちゃんがやっていたカバン屋もいつの間にかファンシーショップみたいな店に。ところがまたこのファンシー系が短命だったりする…。新しく出来る店がどこへ行っても同じような感じの店舗なのはいったいどういうわけなんだろう?個性で勝負する店というのは流行らないのかしらん?均質化はこんなところでも進んでいるということか。なんだかなあ。街の風景が均一化してしまうと、なんだか飽きてしまう。ビル街の風景なんかなおさらだ…。
12/03: 報道メディア以外?
BSデジタル放送が1日、一斉に始まった。各局とも紹介番組花ざかりだが、NHK BSの対応なんか従来のBSアナログと番組はまったく一緒。結局デジタル化の要は文字によるデータ放送(の追加)ということでしかないのかしらん。補足情報やショッピング機能が提供されるなんていうけど、個人的には当分受信機はいらんよなあ。今のところさっぱりメリットを感じない。まさにコンテンツ不在の見切り発車という感じだ。BS当初の難視聴地域問題なんてのはとうの昔にどこかに追いやられ、ひたすら技術的陶酔と商業的利益の追求だけに走っているなんて、不健全極まりない。

ブルデュー『メディア批判』(櫻本陽一訳、藤原書店、2000)を最近読んでみたのだが、ジャーナリズムが商業的論理に走りまくり、それに隣接する各界を侵食していることを、社会学者ブルデューは以前にも増して手厳しく批判している。「モラルへの違背をもたらす構造的メカニズムが意識化されれば、それらをコントロールしようとする意識的行動が可能になる」。それはその通りで、意識化は行動への第一歩なんだけど、今やむしろ、それを指摘するに留まらず(そこで留まっている限りは旧式の知識人でしかない)、具体的な行動プログラムまで提示する必要があるんじゃないか、という気もする。というか、それほど事態は切迫しているように見える。今や「意識化プラスアルファ」が必要なんでないかい?ブルデューは一応、各界の敷居を高めつつ、外部への普及努力をしていくことで、教育の質を高めようと呼びかけている(学問領域の、商業論理への対抗策として)が、商業論理の猛威の前にあっては前者(敷居を高めること)だけで終ってしまい自己閉塞が蔓延する可能性もあるように思われる。報道メディア以外のメディウムをどこに探ればよいのだろうか?これこそが「考えどころ」という気がする。


11/26: 雑感…
最近、10数年ぶりにクラシックギターをいじり始めている(ほんとはリュートやりたいんだけど、数少ない教室は満員という話で当分無理な模様…)。とはいえ弾くというほどではない(苦笑)。左手も右手もすっかりトロくなってしまっていて、セーハ(ブリッジ)への移行は全然スムーズにいかんしアルペジオなんかも結構ガタガタだ。ギターは近所のセコハンでちょっと前に買ったやつ。ナイロン弦じゃなくフォークの弦が張ってあるのを見て、可哀想になって引き取った(笑)。当然、即全部張り替えた。

とまあ、そんなわけで少し前、超久々に雑誌『現代ギター』を買ってみた。昔はそこいらの書店で売っていたような気がするのだが、今や大手の書店か楽器店くらいしか置いていないとのこと。さらに雑誌の中身も、昔はちょっと高級な感じで近寄り難い印象があったんだけど、今や軽〜いMac系の音楽ソフトの記事なんかも載っている(笑)。むー、時代は変わったなあ。そういえば、古楽系CDの取り上げ方が気に入ったので時おり買っていた雑誌『グラモフォン・ジャパン』は、わずか一年にして次号で休刊だとか。本家(www.gramophone.co.uk)の方を定期購読してみようかと思ったら、登録できず、「オブジェクトが見つからない」という大馬鹿な表示が出て終了。頭に来て思わず苦情メールを送ってしまった。システムが変更になった時など、たまにそういう不具合が残っていることがある。特に売れ筋でないところに頻発する傾向ありだ。早く直せよな、Gramophone。E-コマース関係はMicrosoft系のサーバがなぜか増え続けている。WebObjectsもJavaのサーブレットもさっぱりお目にかからないんだけどね…。あらゆる場に見え隠れする大手資本への集中傾向。だけどそれとは違った論理での活動こそ大事なのだが…。


11/22: ネーション…
どたん場で不発に終った自民党の「内乱」。うーん、これを見ると、「国民の政治離れ」よりも「政治家の国民離れ」の方がはるかに深刻だという気にならざるをえない。だいたいにして、保守を名乗る評論家連中が、餅は餅屋という感じで「政治は政治家にまかせろ」みたいな発言を繰り返してきたことも問題なのだ。そんなことだから、世襲か徒弟制度みたいになって、政治家というのが専門職扱いされてしまうのだ。だけれど「政治」というのは本質的に「領域横断的」「学際的」なのであって、それ自体の専門化は不可能な領域なはず。政治はいわば媒介の場、インターフェースでなくてはならないのであって、本来的に開かれた領域でなければおかしい。

もう一つ気になること。「ニホンオオカミ」が生きているかもという報道。この話、「だからどうしたっていうの?」という気がしなくもない。凄いことだと騒いでいる奴らはどうもこの「ニホン」という部分に反応している気がする。中国のトキをもってきて「日本のトキでござい」とやった時のうさん臭さに通じるものがある。こうして様々なシンボルが考案されて「国民」のイメージを強化しようとしているように見える。韓国では、先の考古学界の発見捏造事件すら右傾化の現れという文脈で報道したというではないか。もっとも、それだけ世界的な規模での社会変容が迫っているということも確かなのだろうけど、当然最悪なのは、既存の価値感が解体していく中で、過去の亡霊が突然甦って猛威を振るうという状況だ…


11/17: ホビープログラミング
先に届いていたWonderSwanとWonderWitchでちょっとだけ遊んでみる。携帯型ゲーム機とその開発環境だが、これにはいろいろ可能性があるような気がしてならない。初めて触れて見たわけだが感触は悪くない。ゲーム機というより携帯端末的な使い方を考えていけば結構面白いのではないだろうか。すでに商業用として魚群探知ソフトやらGPSなどがあるらしい。Webブラウザも出ているという話だった。出来合いの携帯端末を使うより刺激的な気がするよね。とはいえ、まずはプログラム書いてみないとなあ。

今月号の雑誌『Software Design』には、ザウルスほかのパームトップで動くLinux、BSDの小特集がある。DOSベースの旧モバイルギアで動くものは以前から取り上げられていたが、最近ではWindows CEマシンとかその他にも移植が進んでいるようだ。とはいえ、パームトップの貧弱な入力装置でコマンド打つなんてやってられない気がしなくもない。一番面白そうなのは、まがりなりにもデフォルトでキーボードが付いているPsionだったりするのだが、ちょっと前までは、たまに秋葉に行ってもほとんど「入荷待ち」状態だった。現時点ではどうか知らんけど。


11/11: 民間法廷
岩波書店の『世界』12月号も、青土社の『現代思想』11月号も、12月に東京で開かれるという「女性国際戦犯法廷」の話を取り上げていて興味深い。関係者の一人高橋哲也氏は両誌で発言しているが、67年にバートランド・ラッセルが呼びかけ、サルトルが議長をつとめた、ラッセル法廷(ベトナム戦争でのアメリカの戦争犯罪を裁くというものだった)のような「民間法廷」だ。戦時中の日本軍による性暴力を裁こうというもので、法的実効力はないが、そこにむしろ、将来の運動に繋げていくための可能性がある、というわけだ。これはぜひとも注目しよう。

その『現代思想』に掲載された松田素二氏の論文「共同体の正義と和解」は、和解へのアプローチを、普遍的基準への指向(トップダウン)と限定された範囲での呼びかけ(ボトムアップ)という二つのベクトルから分析しているが、そこに和解のための戦略の難しさも見てとれる点で印象的だ。為政者への圧力となるためには、個々の叫びが共同体のいずれかの段階において平準化・定型化されなくてはならない。そうなると個人のリアリティ、つまりボトムアップの声からは遠いものになってしまう。だが、それを救うためにはトップダウン型の理念をもって来ざるをえない。そしてその戦略は成功をおさめつつある。定型化(とその反復される訴え)は時には武器になりうるということだ。それはそうなのかもしれない。だが、そこには定型化からこぼれ落ちるボトムアップの声をとどめておくための回路が必要になるのではないか、という気もする。定型化されたクレームの反復は、様々な差異を噴出させる契機にもなりうるだろうと思うのだが…。


11/07: 在野研究者のために
遺跡発掘の手柄を急ぐあまり、「発見」を捏造していたという旧石器文化研究所の副理事。なんとも情けない話だ。よほど学界での「権威」が欲しかったのだろうが、この人物が大バカなのは、在野には在野の身の処し方、戦い方があるということをすっかり忘れていた(あるいは考えもしなかった)ことだ。簡単に言ってしまうなら、アカデミズム的な権威の世界に無理やり食い込もうとするよりも、独自のネットワークを組織していけばよかったのだ。そうしたネットワークは、場合によっては既存の権威すら相対化しうるかもしれないのだから…。こういう不祥事があると、「結局在野はだめだ」「やっぱりアカデミズムに属する専門家でないと」という認識が学会を越えて一般にまで広がり、ひいては、様々なところで弊害が指摘されている「極端な専門化」にいっそう拍車がかかってしまうかもしれないのだ。その意味で、これは単に考古学界だけの問題ではない。分野を問わず在野の研究者たちすべてが白い眼で見られてしまう事態にもなりかねないし、アカデミズムといわれる側も硬直化してしまわないとも限らない。

山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995)『敗者学のすすめ』(同、2000)を見てみればよい。日本には明治期から(あるいはそれ以前から)、在野の研究者たちがアカデミズム側の人々をも巻き込んで築いた豊かなネットワークがあったことがわかる。そうした伝統は再び省みられてよいはずだ。たとえごく些細なものでも、学問的な営為というものがもたらすよろこびを、そしてそこに内包される外部への批判性を、私たちはもう一度省みなければならないんじゃないだろうか。さる10月に亡くなった市民科学者こと高木仁三朗氏(原子力事業への批判を続けながら、市民教育にも多大な貢献をした)のような生き様に、たとえ分野は違っても、範の一端を仰ぐべきではないのだろうか。生き急ぐだけが能ではない。ましてや権威だけがすべてなのではまったくない。当り前のことだが、そうした認識がどこかに置き忘れられてしまいがちなことが問題なのだ。


10/28: Word狂躁曲?
さる知り合いから「Word95ファイルをWord2000で読もうとしたら文字化けたんだけど」という相談を受けた。自分でWordは持っていないので、一般的なことしか言えなかったのだが、結局は同一のフォントが入っていないのが原因だということで一件落着したようだ。それにしても最近、翻訳エージェントなんかでも「できればWordのファイルで、Excelのファイルで納品してもらいたい」という仕事話がますます多くなっている気がする。「(どちらも)使っていない(持っていない)」と言うと、電話の相手がひどく怪訝な声に変わることも…。「今どき使ってないの?」って感じになったりするのだ。うーん、この傾向、まったくもって気に入らない。デフォルト(購入時のバンドル)で入っているものが良い製品とは限らないんだぜ。WordやExcelのファイルなんか、見る人が見れば、何をどう変更して最終形になったかなんてバレバレになっちまうんだから。はっきり言って、エージェントの側がテキストファイルをソフトに流し込めば済むだけの話(エージェント側はできるだけ手間をかけずに楽をしたがっているわけだ)。よってExcelでの依頼にはCSV形式(カンマ区切り形式)で、Wordでの依頼には生のテキストファイルで納品するというのが、本来あるべき姿なのだ(笑)。

旧態依然だって?そんなことはない。汎用性を考えたら今だってテキストファイルでの処理が一番だ。特定のソフトの特定のバージョンに依存する形式がまかり通ってしまうこと自体が問題だし、だいたいそういう形式のファイルを求める連中の方が、ワープロ専用機時代の発想から一歩も脱していないということになるんだからね。フランス語の場合にはアクサン文字(あるいは日仏混在文書)の問題があるので、RTFで対応するしかないが(周知のようにMacなら、今のところはまだテキストファイルでOKだけど)、ほんとはTeX形式で送りつけてやりたいところだ(笑)。


10/24: 「レミング」賛
仕事を押して今日はサンシャイン劇場へ。寺山修司の『レミング[世界の涯まで連れてって]』を観る。寺山系(劇団「万有引力」など)の芝居を観るのは実に6、7年ぶり。今はなき文芸座ル・ピリエで身動き一つできない状態で『邪宗門』だったか『身毒丸』だったかを(両者はたまにこんがらがっちゃう)観て以来かも。で、今回の『レミング』、やはり凄かった。寺山の演劇は、いつ観ても内面の深いところを鷲掴みにされるような感覚に陥る。このカタルシスはただものではないぞ。「劇団四季(死期?)」の『壁抜け男』の「るるる〜人生はすばらしい〜」なーんて安易なメッセージを、『レミング』は正面から完全に叩き潰すのだ。「壁がなければ、人は外へ出ることができない。自由になることなどできない」と。これを一度くぐったら、「四季」なんかではとても満足できん。元天井桟敷のメンバー(今回も多数参加していた)は、はっきりいって「四季」なんぞより歌も踊りも数段上だし。こういう芝居の公演は、たとえ細々とでもいいから続いていってほしいよなあ。
10/22: 復活と破棄と
仕事で行くはずだったPC Expo。その話はツボり、と同時に別件が増えて忙しくなってしまったため、結局エキスポは行かずじまい。でもま、ツボった仕事の準備のために少しばかりAS/400について「にわか勉強」をさせてもらったので、まあよしとしよう。AS/400といえばIBMのオフコン。このところ、特に頑強なサーバ用途のため再び注目されていたのは知っていたが、確かにこれは面白そうな感じ。とはいえ、開発者か超マニアでもない限り個人が買うなんてないシロモノだ(超高いし)。アーキテクチャ自体は面白く、なんかそのあたりから革新技術みたいなものが出てこないもんだろうかとつい思ってしまう。いずれにしても、こういうものが新たな文脈で甦るうちは、たぶんコンピュータも捨てたものではないかもしれない。

この間、ビデオでドイツ映画『23』というのを観た。「イルミナティ」という組織が世界をすべて動かしているという観念にとりつかれたハッカー青年が、旧東独のスパイになっちゃう話。で、これに、中古メインフレームが雨ざらしになる場面があった。映らなくなった古いディスプレイを今度粗大ゴミに出そうと思っているのだが、なんだか同じように雨ざらしになってしまうのかと思うとちょっとやり切れん気もする(とはいえもう映らないんだから仕方ないけどね)。大量消費、大量破棄のコンピュータ文化(ハードもソフトも、情報そのものもだ)はまったくひとごとではない。だからレベルは違っても、たとえ少しでも、まだ使えるかもしれない部分を大事にしたいと思う今日このごろ…。


10/15: 「オタク」は適応形態なのか?
漫画やアニメのコード分析からオタク現象を読み解くという斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000)を読んでみた。大雑把に内容を紹介すると、オタクと言われる人々は虚構にも現実にも等しくリアリティを見出す「多重見当識」を持ち、それに過度に没入しているのだという著者は、オタクが、メディアがもたらした想像界の変容への一種の適応形態なのだと論じる。メディアに媒介されてコンテクスト性が高まっているアニメ絵は、ユニゾン的(多義性の排除)であるがゆえにエモーショルなコードを伝達しやすく、しかもリアリティ獲得のためにセクシャリティを持ち込まなくてはならない。で、男性が現実の女性を恋愛対象として見る時には、想像的に女性の外傷に魅せられヒステリー化しているのに対し、戦うアニメヒロインについては、その攻撃性、ヒステリーの発現を通じて、実在性の欠如をヒステリー化しているのだというわけだ(否定神学的にいうなら、いわば絶対的外傷?)。

個々の議論にも若干の違和感がないわけではないけど、「多義性を排除しセクシャリティで粉飾したアニメ絵に『入れ込む』ことを余儀なくされる」なんて構図、たとえそれが適応だと言われても悲しすぎるんでないかい、という気になってくる。それが行きつく先も漠然とながら空恐ろしい。著者はヒステリー性という意味では一般人もオタクも同じだってなことを言っているが、確かにポップスは相変わらず変わり映えのしないラヴソングばっかりだし、テレビも同じような番組を延々と流し続けているし…。むー、安易な適応を斥けて振り戻しをかけることはできないもんだろうか。多義性の解放っていうのは一つのキーにならないもんだろうか…。


10/08: 換喩…
ビデオでケヴィン・ハル監督作品『アインシュタインの脳』を観る。天才科学者の脳を追った日本人の大学教授に随行した、BBC製作のドキュメンタリー映画。まるで催眠術のごとくに「I'm looking for Einstein's brain」をところ構わず連発するこの教授の姿は、真摯を通り越して滑稽にも見え、さらには幾分狂気の匂いがしないでもない。行く先々で出会う人達は、アインシュタインの脳が通常人とどう違っていたかとか、丹念に説明しようとする。だがこの教授の方は、このフィルムで観る限り、さっぱり聞いちゃいないようなのだ。最終的に「講義用」と称して脳のスライスを手に入れたこの人は、現地のバーらしいところでカラオケに興じ、帰りの機内でも容器をしげしげと眺めて悦に入っている。なんともいえない居心地の悪さだけが残る。おそらくこの人にとっては脳はアインシュタンという記号の換喩にすぎず、結局がすべてが記号の循環の中に閉鎖・埋没してしまっているのではないかと思えた。それは神話作用の究極の姿かもしれない。このフェティシズムは、反省的契機がないという点ではオタク的感性と同根ともいえるかもしれない。そしてこういうフェティシズムは、意外に多く身の回りに存在しているようにも思える…。
10/03: 分類…
「雨の日はミミズが出てやーね」というような世間話を知人の方々としようとしたら、そのうちの一人が「子供の時に食べたことある」とのたもうた。私は一瞬ショックのあまり思考が完全に飛び、ひどく狼狽する羽目に(ちょっと前に書いた黒柳状態だ…二の句がつげなかった)。後で冷静に振り返ってみて、その人、なにか別のものと勘違いしていた可能性もないわけではない気もする(?)が、その時はあまりの衝撃に言葉を失っていて、その後どういう話が続いたのかもなんだかおぼろげで、今となっては確認できない(というか確認する気にもなれない)…。世の中にはいろんな人がいるもんだ、とさしあたりはそうでも理解しておかないと悪夢を見そう…。

黒柳話(先の9/18日を参照)のところで触れた西江雅之氏は、私の学生時代にうちの大学でも言語人類学の講義を持っていて(超人気の講義だった)、「人が蛇などを嫌うのは、どこからどこまでが頭であるとか尻尾であるとかいった明確な分割(言語の網による分割)ができないからだ」といった話をしていた。分類の境界線上にあるものを人は「気持悪い、不気味だ」と見なすのだという。また、「たべもの」と「食べることができるもの」とは違う、前者は文化(言語)の網の目で選択されたものであり、人は自分が属する文化によって「たべもの」を課されているにすぎない、という話もあった。

雑誌『ユリイカ』あたりに昔掲載された論文で読んだのだと思ったが、古代中国の分類ではミミズと人間とは同一の範疇に入るのだそうだ。どちらもクネクネ動く点では同じ、ということなのだろう。形態ではなく機能による分類か?うーん、あるいはそれは、形態による分類によって「不気味なもの」として排除されるものを、別の形で救い上げ無害にするための知恵なのかもしれない…(だからといって「ゲテモノ食い」ができるわけではないのだが)。


10/02: 液晶モニタ
2ヵ月くらい前から自宅のテレビの調子が悪くなった。全体に白っぽくなって輪郭がぼやけるようになってしまった。12年くらい前に買ったもので、明らかに寿命だ。で、これがついに先月の20日くらいにダウン。ついでに画面も大きいものに変えたが、なんだか人の顔がクローズアップされると毛穴まで見えそうでちょい気持悪い…。

で、うちの古Macにつないでいてやはり調子の悪かったDellのモニタが、先週金曜にお亡くなりに。中央に一本の筋が出るだけになってしまった。こちらは6年半くらいだが、酷使したせいか意外と早い寿命だ…。というわけで土曜日、劇団「死期」(ほんとは四季だけと、こう記す方が当たっている。だって『壁抜け男』、歌がひどすぎるんだもの。ファンの方には悪いが、長いことないかも、あの劇団)を観た帰りに秋葉でモニタを物色。14インチのSony製液晶モニタの型落ちモノが安かったので、即購入。今日配達された。死にかけのMacがこれで鮮やかに甦った。ドット落ちもなく、実に快適。液晶もこの数年でずいぶん細かな改良がなされているそうで、昔みたいに3年で薄闇(うちのThinkPadだ)になってしまうことはないと聞く。なによりも省スペースなのがいい。後は価格がもうちょっと下がってくれれば言うことないんだけどね。



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Last modified: Sun Mar 18 14:45:49 JST 2001