放言日記ログ「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2001年9月〜2002年2月

02/28透明性
深夜タクシーに乗ったら、運転手との世間話で牛肉すり替え事件に話題が及んだ。で、その運転手、「結局、誰も微妙な味の違いなんかわからんのだ」と息巻いていた。そういえばフランスのワイン業者が高給ワインに安ワインを混ぜていたという事件も報じられていたっけ。うーん、一般消費者がそういう詐欺に引っかからないためには、『美味しんぼ』的に舌を鋭敏にせなならんということになっちゃうかなあ。だけれどそれにはお金も時間もかかる。だれもがそうした鋭敏な舌を持ちえない以上、それに代わる形で必要となってくるのは、やっぱりプロセスに関する情報だよね。透明性が高まる以外にない。

これは雪印だけじゃなく、外務省の鈴木宗男問題も、金融庁がらみの問題も同じだ。日本全体だね。だけれど、そうした情報公開・透明性の論理は、明らかに官僚制の論理に対立する。マーク・ポスター(『情報様式論』(室井・吉岡訳、岩波現代文庫))はウェーバーを批判・検討しつつ、官僚制は合理性を基礎とするにもかかわらず、あるいはそれゆえに、「合理的批判に開かれていない」と述べている。でもって、つまるところ官僚制の根源はいわば記録の「データベース」管理にあるのだという。なるほど、そりゃその通りだ。問題はその制度が、データベースを独占していること、あるいはしようとしている(せざるをえない?)ことにあるというわけだ。制度の外部で別のデータベースが用意されたとしても、制度内部だけの情報が占有されている限り、外部はあくまで「批判的外部」でしかありえないことになってしまうし、そもそも規模の点からして外部は内部に太刀打ちできない。また、仮にそうした制度が崩れるようなことがあったとしても、それまでの外部データベースが新たな内部データベースになりはしないか、という問いもあるし、そうでなかったら社会的混乱に陥るのではないか、という疑問もある。情報公開、ひいては制度そのものをめぐるアポリアといったところだ。とりあえずせめてもの暫定的な理想があるとすれば、それは個別のデータベースが複数存在して、相対的に制度内部の独占部分が小さくなる(つまり広く共有・オーバーラップする部分が増える)ということになるかな。


02/22マーケティング的
ジャンプの原田は「また伝説となるような滑りをしたい」と言っていたものの、結果は惨敗。この喋りと表情は、どこか小泉首相のそれに似ている気がする(笑)。内容のない、ひたすら「煽り」だけの答弁。具体的な結果も同じようなことになりそうな感じ…か。これは「新機能満載」といって売り出したわりに、中身はさっぱりというどこぞのOSなんかとも似ている(そういえば、今日はその会社のゲーム機の発売日だっけ)。なんだかこのところ、あらゆる言説がマーケティング的になってきている感じを受けてやり切れない。マーケティングでは、言説は実にしたたかにくみ上げられる。一般人が聴きたいと考えているような言葉を調査し、それに合わせて発せられるというわけだ。だけれど疑似マーケティングと化した言説は、必ずしもそうした戦略的基礎をもたないがゆえにどこか悲しい。原田などはマスコミに後押しされる形で、ああいう「決めゼリフ」を言う自分を演出している(させられている)感じを受けるし、首相もそんな感じ。社会不安の中で人はストレスのはけ口として代弁者を求めるのだろうなあ。だけれどそれは一時的なお祭り騒ぎにすぎないことを、同時に人はどこかで知っているはず。問題なのは言葉と実態の乖離なのだが、それが進むと一種のバブル化(逆バブル、不況バブルか?)が生じたりして。
02/16シンポジウム
世間ではオリンピックで盛り上がって…いるのかなあ?個人的に今週は昨日まで「メディロジーウィーク」。提唱者ドゥブレと機関紙『カイエ・ド・メディオロジー』の主要メンバーが来日し、12日から日仏学院、日仏会館、駒場、さらに愛知のアリアンス・フランセーズで連続講演した。もっぱら聴衆として駆け回ったが、内容については後でMedio/Socioのページでちょっとまとめたてみたいと思う。で、メインは招聘元(情報学環)でもある東大での討議(というか発表合戦)。ひさびさに人文・社会学系シンポジウムに時に漂いがちな、どこかたおやかな狂気(笑)とでもいうべき微妙な空気を味わわせてもらった感じ。この微妙な感触って、たぶん一つには、学会でも講演会でも講義でもないという、いわばターゲットとする聴衆をきちんと規定できない浮遊感にあるんじゃないかと思う。その意味では、このシンポジウム自体をメディオロジー的に読んでみるというのも面白いかも(笑)。会場でも言われていたけれど、メディオロジーは難しそうに見えてエッセンスの着想はきわめてシンプルだったりする。広い意味でのモノや制度の媒介作用(媒介行為)という形で文化的事象を読み直すということなのだが、まあいわば領域の交差路となるだけに、シンポジウムの言説が向かう先というのは、近接諸学(歴史学、社会学、哲学など)の研究者や学生ということになるんだろうけど、だからといって、そういう視点を大学の機構の中にだけ閉じこめておくのはもったいない。とはいえそれを一般向けに開こうとすれば、言説の宛先はいっそう曖昧になり、かくして言説は宙を漂い、デッドストックへ(?)向かったりとか…という一種のパラドクス、か。会場は通訳ブースなどの設備上の不備(マイクやインカムといったローテク部分だけど、とはいえそれこそが実は真に重要な支えなんだけどなあ、メディオロジー的に言うと(笑))もあったらしく、こういうところからも、人ごとながらシンポジウムのあり方も含め、大学の知というものの開き方は再考されてしかるべきなんじゃないのかしらん、という印象を受けた。
01/31茶番
経済もむちゃくちゃなら政治もむちゃくちゃな日本。なんなんだろなあ、これは。NGOの活動が行政(と政治家)の「利権」に絡んできたら、妨害してたたきつぶそうというのがいかにも田舎者風だ。NGOは本来、行政の活動を補完するものなのに…。公的なお役所がすべてを仕切れるなんて、思い上がりもはなはだしい。お役所が対応しきれるほど、世界的な変化は緩やかじゃないんだからな。さらに問題なのは、政治家の圧力という話の不透明さがそのまま温存されてしまったこと。政策決定の場なんてのは、本来透明であってしかるべき。「政治は政治の専門家にまかせればいい」というのは一見まともそうに見えるけれど、その政治の専門家という奴が、具体的な個々の問題についてはまったく素人でしかありえない以上、その判断などは広くオープンにするのが筋ってもの。極限すれば、もし大きな影響力があるってんなら、鈴木某はそれを認めて外相になればいい。それが政策決定の本来のあり方(このあたりの話は、輸入牛肉詐欺の話にもつながってくる)。

外相更迭を「喧嘩両成敗」だなどとほざいてしまう首相もどうしようもない(戦国時代じゃないんだぜ)が、大橋巨泉の「約束をついこう」もちょっとなあ。遂行は「すいこう」と読むのが正しいし、「約束」はむしろ「履行」するもんでしょ。揚げ足取りだけど、なにかこういう細かいところに、底の浅さみたいなものが露呈したりすることもあるような気がしてならない。巨泉って、何かちゃんと政策的に考えて立候補したのかなあ。そうは思えないんだけどね。


01/28巡礼路
TVの『世界遺産』で二度にわたって取り上げられていたフランスの巡礼路。スペインのサンティアゴ・デラ・コンポステラまでの4つの巡礼路のうち、ル・ピュイからのルートだ。ちょうど今、田辺保『フランス・巡礼の旅』(朝日選書、2000)を読んでいたところだったため、余計にこの映像に引きつけられた感じ(この田辺氏、番組のエンドクレジットでみると、監修にあたっていた)。スペインの聖地への巡礼が初めてブームになったのは、西欧の都市が発展を遂げる12〜13世紀ごろのことだという。都市化は人や物の行き来を加速化し、貧富の差を際だてた。とすると、それにはどこか今の私たちの環境とパラレルなものがあるのかもしれない。スピードに翻弄される世界にあって、最近はそうした巡礼の旅が静かに見直されつつあるのだそうだ。過度のスピードは、逆に人の歩みの減速化を喚起するということかな。いずれにしても、なにかを求めて(それがなんであれ)苦行する姿はどこか美しい(というか、郷愁に満ちている気がする)。そうした祈りや希望に支えられた苦行というものが、簡便さの中で希釈になっていくと、やはり人はどこかに苦行の在処を探ろうとするのではないか…なんてね。便利さ・安易さに飼い慣らされたくないという気持ちだけは多くの人が持っているはず。そういう部分からしか前進はないのかもしれないなあ、と。
01/21フレーム
NHKで昨日放映されていた「実映像版」の『ラ・トラヴィアータ』。うーん、こりゃ面白い。実際の風景の中で演じられるのだけど全然違和感がない。もともとオペラって写実的な舞台なんだろうけれど、この場合の違和感のなさというのはカメラによるフレーミングの効果が大きい。だってこれ、ほぼどのカットも、なんらかの映画やドラマで観たことのあるようなものカットじゃないの。台詞部分が歌になっていてもさほど違和感を感じないというのは、それだけ目にしている映像が既視感に包まれていて、安心感を与えるということなのだろう。ということは、それだけ自分の眼がカメラのフレーミングに毒されているってことかも。うーん、そう考えるとちょっと空恐ろしいかもね(笑)。技術的にだけでなく、観る側のまなざしにおいても、まさに今の時代にしか実現できない映像作品ということか。それはそれで評価するとしても、私たちが内面化しているフレーミングに揺さぶりをかけるようなものも、もっと観たいと思うんだけど…。
01/14メガヒット
田舎に住む親が『千と千尋の神隠し』を映画館で観たらしい。映画館に行くという行動自体が久しくなったことらしく、えらく感動したのだとか。「今度は『ハリポタ』とかいうのも観たい」などと言っている。うーん、年取って幼児退行みたいなことになっているんだろか、とちょっと心配になったり(笑)。それにしてもこの「ハリポタ」、呪文がなんとも怪しげなラテン語もどきになっているらしい。だったらいっそちゃんとしたラテン語にしてしまえばいいのに…と思ってしまう。そしたら教育的な価値もいっそう出てくるだろうになあ。消費してしまえばそれでおしまいで、後に何も残らないのがいつものこと。『エヴァンゲリオン』の時もそんな感じか。あれを観て子供たちがドイツ語に興味を持ったとか、キリスト教の神秘学方面に興味をもったとか、クラシック音楽に興味を持ったとか、そんな話はついぞ聞かない。ま、そんなところから興味を持たれても、それはそれで困ってしまうかもしれないけどね(笑)。いずれにしても、メガヒットした後は潮が引いていくように痕跡が消えてしまう昨今の状況…。持続的に愛好されるものって今なんかあるのかいな?なんか鬱な気分になってくるよねえ。ちなみに「ハリポタ」は2003年をめどにラテン語訳、古典ギリシア語訳が出るらしい。そういう訳が出るのって、ひょっとして『星の王子さま』以来かも(笑)。
2002/01/06 ブロードバンド…
いつの間にか一人歩きしている「ブロードバンド」という言葉。テレビショッピングでは「ブロードバンドの入ったパソコン」(なんだそりゃ? LANボードが入っているっていうんなら、それは「対応」だろ?)なんて言っているし、朝っぱらから、堺屋某と孫某とがなにやら「ブロードバンドで教育が変わる」なんてがなり立てている。アメリカ万歳という感じの胡散臭い話。いまさらそんな世俗的ユートピア論を聞かされてもアホらしいだけだ。常時接続は確かに便利だけれど、それが即コンテンツ的な革新にはつながらないし、企業のHPなんか、逆に動画ばっかりで見た目は派手だが中身のないものがますます増えつつある感じ。上の二人のうち前者は、無意味だったインパクが「ブロードバンドの起爆剤になった」などと我田引水な談話をどこかでしていたらしい。本人は以前新聞に、想像力のかけらもないアホな未来小説を掲載していたが、その時も寄せ集めの皮相な知識ばかりで自分がちゃんと取り組んでいない、あるいはそんな気すらないことを露呈していたような気がする(あれを読んで、「この人は本当はキーボードすらまともに触ったことないんじゃないの」とか思った人は多いはず)。そんなのが「ブロードバンドで変革」なんてちゃんちゃらおかしい。
12/27 年末的風景
アルゼンチンの略奪映像を見ていて、政策を一歩間違えると、日本でだってああいうことが起きないとも限らないよなあ、と思ってしまった。オイルショック当時以上に、ものすごいパニックが起きないとも限らんかも。で、実際そういうヤバい方向に向かっている感触はますます強くなっている。実際、卑近な例だけど近所の商店街もさらに変貌を遂げている。特に飲食関係の店、それも専門店の変化が大きい。この2、3ヶ月で消えていった店には、長く地元でやっていた店なんかもある。結構本格的だったインド料理屋とか、老舗の暖簾分けのトンカツ屋なんかも消えてしまったし。こんな状況でも、政府はまだ景気対策をやる気がないらしい。うーん、困ったもんだ。んでもって、人文系書籍の取次が倒産したり、どこぞのデパート系美術館の閉鎖が決まったり、経済の低迷はこれまで以上に、文化活動の活力をも殺いでいる。本当は経済が落ち込んでいる時こそ、文化的営為が殺伐とした神経を和らげ、底上げの力になってしかるべきだという気がするのだが…これはまあ理想論だけどね。だけんど、文化的営為が経済べったりで、しかも「金持ちの暇つぶし」としか見なされないこの国では、そんなことは到底望むべくもない。教育もしかり。ITのベンチャーにしても、それが実世界の諸相(経済とか技術とかだけでなく)に繋がっていかなかったら、魅力のある産業にはならないでないの。ITがITとして完結するなんてことは、産業的な自殺行為でしかないぞ。うーん、こんなご時勢では明るい材料を見つけるのも大変だけど、やはりスローな生活、ゆっくりとしか熟成されないものへの回帰が鍵となっていくような気がする。ドブレじゃないけれど、回帰は革新のためになされるということか。
12/21有標の言語
積ん読になってしまっていた岩波書店『思想』10月号を読む。特集は「ライプニッツ」。この中に、フランスの書字学者アンヌ=マリー・クリスタンの論考(青柳悦子訳)が掲載されているのだけれど、こりゃライプニッツに関係なくいろいろな意味で興味深い(笑)。例えばまず、フェニキアの子音記号をギリシアが母音を表すために借用したことが、記号の音価の表象への道を開いたものの、活版印刷にいたり文字が切り離されることによって、「文字が固有の価値を有する図像的(グラフィック)な形象」であることが意識されるようになった、というくだり。うーん、この論考だけでは何とも言えないけど、活版印刷は写本の文字装飾や綿密な書き込み作業を無化していったのだから、むしろ文字の透明化に貢献したんじゃないかという気もする。さらに、アルファベットが閉じた体系であり、長い歴史の末に考案されたものであることが、すでにして一般化の傾向を備えていた、というくだりもある。そりゃそうかもしれないけど、各国語が採用したアルファベットは、表記にある種の有標性を含んでいたりする。英語以外の西欧語って、ほとんどがアクセント記号を採用しているじゃないの。アルファベットを一般論として捕らえるは、そうした各国語の文字の有標性なんか意に介さない感じだ。昨今の英語のスタンダード化って、そこには様々な覇権的要因(同言語使用国の経済力とかね)が絡んでいるだろうけど、文字表記の無標性というのも案外大きい気がする。ところが、昨今の多言語主義など、反英語的なスタンスを掲げる人たちは、なぜかそうした有標・無標の問題を正面から論じてない。うーん、この問題ってちょっと各国語史なんかも絡んで面白そうだ。フランス文学界隈はカリブのクレオールにばかり注目しているみたいだけど、語史なんかだって深遠だと思うぞ。もっと取り上げられていいのでは(笑)。
12/16 舞台…
うーん、今日は妙な舞台上演を観てしまった。バッハとオルフの曲に踊りをつけた舞踏劇。普通「○と×との幸福な出会い」なんていわれたりするが、前半のバッハ、これは舞踏とモテットとの実に不幸な出会いという感じ。現代舞踏のどこか神経症的な動きがバッハに合うはずもなく、なんだか気色の悪い仕上がり。バッハにこんなつまらん振り付けを当てはめるなんて許せん、という気もしなくもない…(笑)。んでもって合唱もお粗末。もうちょっとなんとかしてくれ〜。後半のオルフの方は、まあ舞踏の振り付けとの違和感はないものの、やはり合唱に難あり。舞台上に大人数を配して「スケールメリット」狙ったところでやっぱりダメなんじゃないかなあ、と。それからラテン語の歌詞の発音をなんとかしてほしい。そりゃ初等文法とかでは「ローマ字読みでいい」なんて習うけど、だからってそのままローマ字読みするんじゃ困るんですけどね。それはあくまで文字の読み方の規則の問題であって、子音の発音なんかはくっきり出さないとなあ。
12/14 停滞
盛り上がりを欠いたWindows XP、蔓延するウィルスなどなど、最近のコンピュータ界隈はさっぱり。うーん、なんだか派手な部分は消し飛んで、残った部分は煮詰まっている感じだ。新しい機能をアピールしようとしたところで、それは結局本質ではない部分でしかない。景気が悪くなってしまえば、そういう飾りみたいな余剰部分に人は引き寄せられない。パソコンに関しては、コンピュータの用途・用法そのものが枯渇しつつあるのかもしれない。誰もが同じようにしか使わないし、売る側も同じように使うことしか想定していないし、ソフト一つ取ってみても、どれでもそうは変わらない…。何か新しいものが出ても、類似品が出回って、結局は横並びになってしまう。後続製品は先行製品をひたすら真似する。そりゃ模倣は創出の基礎だけれども、問題は、模倣だけで終わり創出につながらないような環境が整備されつつあるのではないかという点にある。なにせ環境を提供する立場にあるOS企業が、最大の模倣者だったりするわけだからなあ。個人が自由に「ブリコラージュ」するなんて部分は、もうとっくにどこかへ行ってしまったか、あるいはそこまでは行っていないにせよ、相当狭まってきているかだ。下手に工夫しなくても、提供されるものだけで間に合ってしまったら、もうそこには発展の余地はない。病的に閉塞するしかないでないの。

ブリコラージュという用語の産みの親(?)レヴィ=ストロースは、狂牛病問題を「共食い」問題として扱っているが、ソフトウエアの開発とか、コンピュータの世界なんてのも、なんだか共食いのようなもんかもしれないという気がしてきた(ちょっとこじつけ的だけどね)。強いて言うならアイデアの共食いか。今回のウィルス騒ぎなんてのも、あるいはそういうコンテキストから眺め直すことができるかも。ま、もうちょっと考えてみたいのだけれどね。いずれにしてもなんだかさらに暗いよなあ、今年の年末は。やれやれだ。


12/07 不寛容
以前バーミヤンの仏像を破壊したタリバン。他の遺跡をも自分たちの軍事拠点にしていたという話だ。うーん、いったい何なのだろう、歴史的なものへのこうした不感症は。余談だが、France 2のレポートなんかでは、タリバンについて「武器さえもっていなければ中世からそのまま現代に来た神学生たち」みたいに表現していた。異教に対する不寛容というのは、当然すこぶる政治的な問題。それを体現するのはなにもタリバンの連中だけではない。ビン・ラーディンが隠れているとされるトラボラの洞窟地帯を、アメリカはミニ核兵器に近い爆弾(?)で攻撃しているというが、これでもしもその洞窟に、先史時代(もっと後世でもいいが)の遺産のようなものがあったとしたら、それは永遠に失われてしまう。痕跡は失われたら帰ってこないのに…。

ところで話ついでだが、洞窟というと、港千尋『洞窟へ - 心とイメージのアルケオロジー』(せりか書房) がとーても面白い。うーん、ルロワ=グーランもある意味でもう古いのか(30年前だから当たり前か…)。洞窟絵画を共時的構造という見方から解放し、時間的な累積と見なすことから、神経生理学的な発達論との重なりが見えてくる、というのが基本ラインだ。


12/04: 再び硬直化ということ…
イスラエルでの自爆テロと報復攻撃…。テロには軍事攻撃で報復してもよい(あるいはすべき)という、一種の規範というかモデルというかをアメリカは作り上げてしまったかのようで、その責任は大きい。イスラエルも当然追従する。ほとんどこれは浄化政策でないの。自爆テロをする側もする側だ。今や報復は眼に見えているというのに、それでも災いを招こうとする…。どこぞの新興宗教なんかもそうだけど、原理主義は起源への復帰なんてことを言い出すわりに、全然その起源について学んでいない(省察しない)。そこでの起源は一種の記章にしかなっていない(起源というものはすべからくそういうもんだという話もあるが)。記章を振りかざすと、その背後にあるものは見えなくなってしまう。こういうのを思考の硬直化というんだろう。気をつけなければいけないのは、そういう姿勢が、身近なところを含めて、いろいろなところに転がっていることだな。
11/29: ウィルス
いや〜このところ、W32.Badtrans@mmというウィルスメールが来まくっている。このウィルス、ブラウザのキャッシュあたりからもアドレス拾って送りまくっているみたい。SMTP機能を独自で持っているという話。それにしても世の中、今や汚染マシンだらけなんだねえ。データが消えるまで気が付かない人もいるかも。Norton AntiVirusくらい入れろよな〜。Windowsにデフォルトで添付されてくるMcAFeeのVirusScanでもいいんだけど、これは別個に正式購入しないでいると、いつの間にか期限切れでアップデートもできなくなっていたりするぞ。要注意だ。
11/27: 本かデジタルメディアか
フランスの仏語辞書『Le Grand Robert』の新版が出たというので、刊行記念予約割引で購入してしまった(笑)。6巻本で14キロ(重さで表示するところがフランスっぽいよね)。送料入れても4万ちょっとぐらい。うーん、割引とはいえこんなに安かったけっかなあ、と改めて感慨に浸る(笑)。検索効率なら確かにCD-ROMとか、これからはDVD-ROM辞書の方が優れているわけだけど、辞書ってたまにはゆっくり「読みたい」。だから書籍版は捨てがたいんだよなあ。ペーパーメディアとデジタルメディアの棲みわけもこれから出来ていくのだろうけれど、デジタル辞書のネックは検索ソフトだというのはこの数年変っていない気がする。例えば広辞苑やらリーダーズ英和やらを抱き合わせにしているものもあるが、クロス検索がちゃんと出来ていなかったりする。検索する前にどの辞書を使うかいちいち選択しないといけなかったりする。これはいただけない。どの辞書かに関係なく、ヒットしたものすべて表示する位じゃないと、抱き合わせ販売の意味がないと思うんだけどねえ。数年前にどこぞの会社が出していたヨーロッパの数カ国語事典もおんなじだった。もし版権関係がネックでそういうクロス検索ができないんだとしたら、それは出版側の怠慢というもんだし、そうじゃないんだったら単に技術者の怠慢。
11/24: テルミン
関連書籍も出、関連映画も公開されるなど(いずれも未読未見だけど)、なんだかいろいろに取り上げられている楽器「テルミン」。某局の夜遅くのニュース枠でも取り上げられ、奏者が演奏を披露していた。直接触れずに音が出るというところが、明らかに神秘主義の系譜を思わせるが、出演していた奏者も、コメントで「精神の中心が云々」といった話を口にしようとして、番組のキャスターらに押え込まれていた(笑)。ちょっと行っちゃってる人なのかしらん。ちょうど読んだばっかりの書籍に、ジョスリン・ゴドウィン『音楽のエゾテリズム』(高尾謙史訳、工作社)がある。『キルヒャーの世界図鑑』に続き、今度はフランスの18世紀半ばから20世紀前半までの神秘主義の系譜を音楽理論の面から追った労作だ。この中で著者は、宇宙の調和論には大別して直線を原型とする者と、円を原型とする者がある、と述べている(知られているところではフーリエとかが前者)。テルミンは明らかに後者の発想から発している気がする。この著者は、音楽のエゾテリズムの受肉が今後起こっていくかもしれないとしているが(昨今の音楽療法のクローズアップもその一つだという)、なるほど、テルミンもまたそういうものの一つかもしれない。あるいはまた、機械的なものはどこかで必ずや聖なるもの(形はどうあれ)を呼び込む、というテーゼかもしれない、とも思ったり。
11/16: 他者の認知
この間、お仲間うちの雑談で「国はどうやってできるのか」という話が出た。複雑な問題だけれど、大雑把なプロセスとしては境界の確定と政体の認知にあるのではないかという気がするが、そんな意味でもアフガニスタンの行方は気になるところだ。後退したタリバンがどこかで踏張ったりして、アフガン領土内に小さなタリバン国家などを宣言でもしたら、そうでなくても複雑化しそうなタリバン後の政権問題は、いっそうの混乱を極めるだろう…。一種のバルカン化だ。なんだかありえないわけではなさそうで恐ろしい。スラヴォイ・ジジェクなどは、『脆弱なる絶対』(中山徹訳、青土社)の冒頭で、東ヨーロッパの民族紛争に、自己と他者の境界が民族、国、地域と絶えずずれていくことの投影を見ている。「バルカンにおいて問題になっているのは実際の地図ではなく、みずからの抱える不明瞭な、しばしば否認の対象になるイデオロギー的な敵対性を現実の土地に投影する想像的な地図作成である」(p.12)。たとえ一時的にせよアフガンがどういう形で決着するのかわらないけれど、この想像的な地図作成の問題は決してなくならないだろう…。
11/09: 流動化
ジークムント・バウマン『液状化する社会』(森田典正訳、大月書店)を読んでみる。この本、文字通りうなりながら読み進む感じだった。核になっているのは、資本主義がフォーディズムに代表される重たい、頑強なものから、いわば軽い「液状」のものになってしまったがために、個人の置かれる状況や社会集団が揮発的なものになったという議論。これ自体はそれほど目新しくはないけれど、個人、時空間、仕事、共同体などへのその影響関係を細かく折り込んだ文体は刺激的で、現代社会の興味深い俯瞰図になっている(引用したい部分が山のようにあるぞよ)。ただし読後はちょっと暗澹たる気分になってしまう。現在進行中のアフガン空爆関係で言うなら、バウマンは、原理主義的な大義のもとに結束する民族は短命でしかないとしている。「(…)「樹木的」構造がなくなった結果、社会性は「爆発的」なかたちであらわれてこざるをえなくなった。組織は根をのばし、さまざまな長さの命をもつ形態を発芽させたとしてもすぐ枯れてしまう。それは組織の構成員の一時的な情熱と熱狂以外に、支えがないからである」(p.249)。この後ジラールの供犠理論が批判されるんだけど、それはともかく、一方で、キッシンジャーの言葉が引用され、アメリカのヒット・アンド・ラン型が今後あったとしても(現に今なされているけど)、作戦後の領土の管理に関与しないだろうことが示唆されている。となると、アフガンの将来的には、たとえタリバンが壊滅したとしても、さらなる混乱(とアメリカの無責任)が待ち構えていることになる…。なんという最悪なシナリオだろう…。
11/07: 構造改革…
テレビの討論番組でさんざん「将来のビジョンを見せろ」と言われながら一向に見せることのできない現政府。こうなると、どうしても改革そのものの破綻の可能性が浮上してくる…。てなことを漠然と思っていたら、雑誌『世界』に山家悠紀夫のインタビューが掲載されていた。要点はというと、今の不良債権はバブル期のものというよりも90年代不況のものだという認識。さらに、銀行と企業の日本的な「育成関係」にアメリカ流のドライなグローバルスタンダードを持ち込んだのでは混乱が増すばかりで、むしろ先に景気を良くして企業経営を立て直すのが基本だ、という議論だ。現行の金融改革は従来の諸問題を改めようという路線ではないという。うーん、これは素人目にも難しいところだ。だけどこういう話で汲み取るべき一番大事な部分は、いろいろな要因が複雑に絡む現実に対応するには、結局、従来型の安易な図式主義では立ち打ちできんということだろう。政策立案は(あるいは研究論文の構築一つ取ってみてもそうだけど)、図式主義で切っていく方が楽で、結局大勢(立案者も含めて)はその楽な道を選ぶ傾向にあるのだとしたら…うーむ、空恐ろしい。いやがうえにも反省的思考が求められる…(日常の生活でも身につまされる話だが)。
10/25: sigmarion II
NTT DoCoMoのsigmarion IIをゲットした。モバイルものはどんどんキーボード方式ではなくなってきているけど、そんな中では最低限のキーピッチも確保している優れものの一台…だけどこのキー、馴れないとちょっと打ちづらいか。携帯とは即繋げられるが、ケーブルが別売というのもちょっと気がきかんよなあ。それからPCのUSBポートに繋げる、と書いてあったのだけど、これまた別売のケーブルが対応しているのはWin98とMeだけで、Win2Kでは使えないらしい。うーん、これは誤算だった…。オプション品の設定というのは、ちょっと姑息なマーケット戦略という気もする。そりゃ本体価格を低くできるというのことはあるだろうけど、その分オプション品が高くなったりとか、やり方を一歩間違うと本体そのものの足を引っ張ると思うのだが…。
10/18: Apple…
久々にコンピュータ話。ちょっと前にようやくMacOS X 10.1へのアップグレードが届く。9月29日に秋葉で数量限定でバラまいた後は、pdfファイルを印刷して送付しろという、なんとも高飛車な態度に出ていたAppleだが、その無料配布分が一部でwebオークションに出回ったのに慌てたのか、Apple Storeからの受付も開始した。ところがこれ、申し込んでから発送通知までに1週間以上かかった。なんなんだろうなあ、この対応は。そもそも数量限定で無料配布というのが気にいらない。アフガンへの救援物資バラまきと一緒で、当然それを転売しようなんて輩が出てくるのは目に見えていたはず。それほどネットへの意識が低い会社なのかしら?お話にならんぞ、もしそうなら。とはいえこのアップグレードは必須だ。呆れるほど動作が重たい10.0.4に比べるとはるかにマシ。OS自体の起動も速くなったし。ただ結構いろいろな部分が変っているらしく、プリンタドライバが使えなくなった。ま、pdfファイルで保存(標準添付のPreview.appから可、というのがちょっと嬉しいかも)して、別マシンから印刷すれば問題はないんだけどね。
10/13: 原理主義と「聖戦」
アラブ一帯には反米デモの嵐が吹き荒れているという。空爆をはじめるだいぶ前からブッシュは「十字軍」発言をしていたようだが、まさに十字軍の悪夢を地で行っているようで、なんだかとてもやるせない(「歴史上の過ち」として謝罪したローマ法王すら今回の空爆については容認発言をしている)。アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳、ちくま学芸文庫)なんてのを読むと、フランク人の唐突な襲来と、アラブ側が民族対立の混乱にあってフランク側に十分に対応できない様などが、まるで同じ歴史を辿っているかのような奇妙な感覚を覚えさせる。当時のアラブ側の巻き返しはだいぶ後になってからのことだが、今回もまたそうなるのか、ならないのか…。いずれにせよ今回の空爆が「聖なるもの」(今の場合は民主主義的な国家主権ということになるのか)をめぐる戦いであることは同じ構図と言えなくもない。

一神教が、砂漠地帯の流浪の民が「可搬性・移動可能性」に即して編み出した、余計なものをもたない合理的な宗教体系なのだとするなら(レジス・ドブレ)、その原理主義ともなると、さらにいっそう、あらゆる荷物を捨て去る方向へと向かっていかざるをえないのだろう。何ももたずともよい、もってはならないという発想は、そうした「何ももちえない」立場に置かれた人々に強く訴えかけるのだろう。そしてその発想を支えるのが「聖なるもの」だ。だけれど一方で、アメリカなど先進各国の人々もまた、また別の極端に走りやすくなっている気もする。「もつこと」だけがすべてなのだ。マックス・ヴェーバーによれば、その近代的起源にはプロテスタンティズムがあるというわけで、つまりその裏側に張りついている諸概念、イデオロギーもまたとどのつまり「聖なるもの」だ。こうして、それぞれの聖性をかけた戦いが繰り広げられるのだとしたら…。

16世紀の動乱の時代を鋭く見通したモンテーニュは「宗教戦争なんてものはない。ただ戦争があるだけだ」みたいなことを述べていた(と思った)。だけれど私たちはこれをひっくり返して、「ただの戦争というものはない。宗教(信じるもののための、という意味での)戦争しかなかった」と言ってみるべきなのかもしれない。だけれどそう言ってしまうと、どうしようもない脱力感が襲ってくる。なぜなら、信じるものはなくならないし、それは戦いで解消されるようなものでもないからだ。ある意味でそれは必要悪(?)ですらある。理想の状態があるとすれば、それはより高次の、メタレベルの「信じるもの」が見出されることなのだけれど、これはいっそう難しい問題か…。


10/09: ついに…
なし崩し的に始まってしまったアフガンへの空爆。アメリカでは反戦的なメッセージの歌すら放送自粛(禁止?)となっていたそうで、反戦を叫ぶ小数の声は完全に無視された。これがアメリカだ。「テロ対策」はあっという間に「戦争」の論理にすり替えられ、同調しなければ敵だと言われ、そのままひたすら突き進むしかなくなった…。軍需産業の活性化を図りたいブッシュは、戦争やりたくて仕方なかったんだろう。そう考えるとなんだか空恐ろしい。エシュロンのような傍聴システムを用意していてもテロを未然に防げなかったということに、なんだか、あえてテロを見過ごしてまで戦争を仕掛けようとしたかのような作為性を、ついつい想像してしまう(根拠はないけれど)。戦争になってしまえば、報道管制も敷かれ、情報の公開なんてはるか彼方に遠のいてしまう。真相はすべて闇の中だ。アフガンを叩き、国土が荒れても、それはそれで長期的には復興のためのビジネス機会にもなる…なんて、旧来の土建屋的発想が働いているのかもしれんし…。うーん、ブッシュも土建屋ならビン・ラディンも一族の出自は土建屋だという話で、ヨーロッパや近隣のアラブ諸国も巻き込んで、さながら「世界土建屋戦争」と化している…(いやマジで)。様々な思惑と利権が渦巻いて、人間のこざかしさが累乗的に炸裂する…後にはいったい何が残るのか?
09/20: 戦争か…
この間、フランスから初来日の太陽劇団の芝居を見た(14日)。「堤防の上の鼓手」。日本の人形浄瑠璃を模したユニークな構成で、黒子も人形も役者がやるという舞台なのだが、なんだか昔のNHKの人形劇(「八犬伝」とか「三国志」とか)みたいで、最初ちょっと笑った。だけど特に後半、その悲劇的な高まりは壮絶ともいえるほど。この叙情性はなんともいえない。人の営みの小ざかしさがなんとも哀れだ。折からのアメリカのテロ報復騒ぎをどうしても思い浮かべないわけにはいかない…。

「自分たちの側か、テロリストの側かいずれかだ」という演説をする土建屋的大統領と、それを拍手で向かえる議員たち。これもまた悪夢には違いない。善悪二元論なんて、マニ教かいあんたたちは、とでも言いたくなる。環境問題や兵器開発では自国の国益ばかりを主張しているアメリカ。その延長として捉えると、アメリカにつかない奴はみなテロリストだとでもいわんばかりの今回の演説だ。今必要なのはむしろそうした二元論的スタンスを相対化することのような気がするのだが…。なし崩し的に海外派兵をしようとしているどこぞの政府も情けない。金だけ出したものの国際的に評価されなかったという湾岸戦争時の対応は、むしろ開きなおってそのことを「日本の独自路線」として発展させる(理論的・実践的に)絶好の契機だったのではないか?今さら「旗を見せ」て、逆にアジアでの孤立を深めることになったりしたら…。


09/14: テロ報道
貿易センタービルのツインタワー崩落後に映し出された埃まみれの街の映像は、昔のレバノンあたりの映像と見まがうばかりだった…。むー、確かに衝撃的で悲惨な出来事ではある。許されるべき行為ではない。それはそうなのだが、すぐさま「報復するぞ」と挙国一致的にいきまいてしまう米国のやり方は、なんだかやりきれない気分にさせてくれる。きちんと捜査して、犯人を国際手配にして、国際法廷(そういえばアメリカは反対してたんだっけ)で裁くという手続きでは甘いのか?報復合戦はチェーンになってしまい泥沼化する。パレスチナとイスラエルを見ればわかるじゃないの。そこに、要請されてもいないのに支援しますとノコノコ加わってしまおうとするどこぞの国は論外だが…。それにしてもテロの後、BSなどは完全にアメリカの放送局と化してしまった。他の報道の一切が遮断されてしまったのは地上派もほぼ一緒。天気予報すら度合が減っていたように思う。なんだろうこれは。一つの事件が他の報道を遮蔽してしまう。うーん、情報を遮蔽する最も効果的なものもまた情報なのか。となると、まさにオルタナティブの情報ソースというものの重要性が改めて浮かび上がるのだが、実際にはネット上ですらニュースサイトは軒並特別編成になっていたりした…。
09/09: 右手の優越
その昔、パソコン通信からインターネットへと移行する頃合いに、ある私的なパソコン通信のネットで「人類学的には、右を正しい側、左を間違った側とする文化が多いそうだ。だからその背景には何か普遍的な道理があるはずだ」とノタまった老人ネットワーカーがいた。右派こそが正しいという政治的主張をするためにわざともってきた議論で、当時むちゃくちゃ頭に来たことを覚えている(伝統的な左派・右派の呼称って、単に議会の座席位置に由来するものじゃん)。で、なんでこれを思い出したかというと、デュルケムの弟子だとうロベール・エルツ『右手の優越』(ちくま学芸文庫)を読んだから。二元論的思考は長い伝統をもっているけれど、言葉の線性によってそれらには高低の価値が付与される。エルツは、右利きという形の優位が仮に自然によって与えられたものだとしても、問題はそこに「なぜ人為的・制度的優位が(…)つけ加えられることになったのか」にあるとする。ジェンダー論などにも通じるスタンスだね。上記のネットワーカーが心底保守の優位を信じていたのかどうか今となってはわからないけれど、ま、社会的な構築性への反省的思考って、もっと普及してしかるべきだと思う。
09/06: 文句言い
うーん、Windows2000とMacOS Xを約2週間いじってみての感想。どっちのOSも中途半端だ。Win2Kは突然フリーズしやがる。NT4.0の時はよっぽどのことがないとそんな現象はなかったぞ。まったくもーいい加減にせんかい。MacOS Xも、期待していたわりにはまだまだ未完成OSだ。UNIXベースとはいえ遅い、重い。Windowsがdosの上にコテコテの装飾をほどこしたシロモノだったのと同様に、こちらもUNIXに白化粧をほどこしたようで気持悪い。Aquaにしても操作性はイマイチだ。標準のテキストエディタが突然終了してしまうなんていうたまらん現象も発生したし、Terminal.appが異常になって終了できない現象も起きている。なんだこりゃ。まっとうに使えないじゃないの。他のUNIX系の実装には、あまり見習ってほしくない感じのインテグレーションだしね(とはいえLinux界隈ももうそんな感じになっているみたいだが…)。

話は変るが、最近CMをよく見かけたimodeのサービス「iエリア」も、地方に行くとまるで使えない。この間某地方に行き、ためしにiエリアを見てみたら、飲食店の案内なんか某ファーストフードが1件表示されだけった。アホか。エリアの地図表示も道路を線で書いているために、わけわかんなかったりする。考えてみると、このiエリア、「あんたがそこにいるのはお見通しさ」と電話会社に言われている気がして気持悪いよなあ。こういう何気ないところでBig Brother化が進行していやがる。あーやだやだ。


09/02: USB
うちの家庭内LAN新メンバーであるLibrettoとiBookはどちらもUSBポートを2基装備しているだけ。そんなわけで、それに従来のプリンタをつなぐため、変換ケーブルを買う。OKIのMICROLINE 8wなのだが、Mac用のケーブル+ドライバのキットにした。OKIのページにいくとMacOS X用のドライバもある。最初そちらのドライバだけを入れた後は、プリンタを認識してくれなくて手間取ったが、MacOS 9.1側からケーブル附属のドライバを入れた後はすんなり。なんか関係あるのかしらん?Windows 2000の方も対応ドライバを同ページから取ってきたが、これまた最初は認識してくれなかったものの、プロパティ内のポートのタグから「双方向サポート」のチェックを外したら問題なく印刷できた。それにしても、USBもいつの間にかすっかり標準のプロトコルになってしまっていたんだねえ…(しみじみ)。

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02.3.31