放言日記ログ「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2002年3月〜2002年11月

11/29雑感 - プレゼン
今週はちょっと出張業務などがあったり。で、それに関連した話。最近では中小企業も生き残りのため「国際市場」に標準を合わせようとして、若手の社員を町の英会話教室などに通わせていたりするらしい。とはいえ真に国際化するには、プレゼンが下手くそではダメだという気がする。原稿の棒読みや、意味なく大量のスライドばかり立て続けに見せて終わりというのではしょーもない。最近はプロジェクタにパソコンを直接つないでやるのがほとんどだけれど、意味のない動画なんか、ほとんど自己満足でしかない。プレゼンは話が主であって図はあくまで理解を助けるものなのだと思うのだけれど、どうもカラフルな図さえ見せ続ければそれがプレゼンだと勘違いしている人がやたら多い気がする。話の構築面には思い至らず、最後に結論で締める、という基本的な話術すら忘れていたりする。ストーリーテリングの技法、てなものを、もっと極めるべきだよなあ。スピーチ下手、プレゼン下手というのは、外国語以前の問題じゃないのかしらん?
11/21「身体能力」
大修館書店の『月刊言語』。今月号は「テレビ」の特集。うん、これだけ正面切ってテレビの問題を取り上げるというのは珍しい。メディアについて「リテラシー」(識字)なんてことが言われるからだろうけれど、厳密にはテレビへの「リテラシー」なんて語の矛盾。テレビは文字の対極にあるわけだからねえ。ま、それはともかく。『月刊言語』の一連の論考のうち、特に興味深いのが山本敦久「見えるもの・見えないもの」という一編。ワールドカップの時に盛んに言われた「身体能力」なる用語が、アフリカなどの人種分類=差別的視点を強化したという内容。本来絶妙なチームプレーを誇っていたセネガルなどの勝因を、戦略面を棚上げにして「彼らは身体能力が高いから」と結論づけたマスコミの言説を批判している。こういう言説を、それが生まれる環境や政治関係をも考慮して見据えるというのは並大抵の作業ではない、ということを改めて実感してしまう……。
11/19ゲーム脳
ゲームとか携帯とか、とにかくディスプレイの前に長時間座っていると、脳の活動状態を示すベータ派が極端に少なくなる……最近なにかと話題の「ゲーム脳」。数年前にちょっと話題になったバリー・サンダース『本が死ぬところ暴力が生まれる』(杉本卓訳、新曜社)を最近ようやく読んでみたけれど、「ゲーム脳」の話はそれを実証的な見地から証したという感じかも。もっともこちらの本の場合は、「識字」「非識字」の定義がかなりアバウトだし、個別の議論にもかなり乱暴な部分が眼につく(フランスの一部の思想書みたいに(笑))。ま、識字に入る前の口承過程の大事さを指摘している点は評価できるんだろうけど。ゲームへの没入の弊害は以前から指摘されているし、アメリカあたりの著名なプログラマたちなんかの動きを見ても、年齢を経るにつれて、コンピュータ以外のことで生活のバランスを取ろうと躍起になっている様がうかがえたりもする。うーん、何が問題なんだろう。一つには「抽象物が過度の具象性をもって立ち現れてくる」ということ(初期のテレビゲームを思い出してみよう)があるかもしれない。具象性とはつまり生きているような「動き」だったりする。具象性をもつ抽象物なんて言葉の矛盾だけど、そうした矛盾するものには脳が拒絶反応を示すのかも……。
11/16極北……
このところ仕事の合間に読んでいた入不二基義『相対主義の極北』(春秋社、2001)。相対主義を突き詰めていき、最後には外部のない絶対域のようなものが立ち現れる様を追うのだが、その過程が実にスリリングだ。むー、思わずうなってしまう。絶対域というのは、イメージで表すなら、あらゆる外部をもちえない、肯定も否定もできない宙づりの振動状態みたいな部分。それは反復され更新され続ける「私たち」なるものだということで、ジャン=リュック・ナンシーあたりの「共・存在」なんかにも結びつく話か。あるいは、マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』(桂本元彦訳、人文書院、2002)で展開されるような、西欧を貫いてきた天使の表象が指し示す不可視の領域(「他者との関係に絶望する」という「絶対的自己愛」とか、「黙示録的超越」としての「真の自由」とか)にも呼応するかな。うーむ、いずれにせよ、こういう大上段な議論を見た後では、はるか低次の「文化相対主義」なんかは、結局メタレベルをめぐる覇権争いでしかないと改めて見えてしまう……というか、覇権争いとして立ち現れる様を細かく見ていくのも興味深いかもね。
11/06懐疑?
とある勉強会でモンテーニュの話を扱うというので、付け焼き刃だがピーター・バーグ『モンテーニュ』(小笠原弘親ほか訳、晃洋書房、2001)を読む。これは手頃な入門書で、テーマ別にモンテーニュの思想を紹介している。うーん、このストア派的な懐疑論は現代にも通用しそうだけれど、そこから派生した保守的な相対主義はまた別という気がする。例えば「最良の政治体制は、長く維持されてきた政治体制である」なんて、ちょっとそのままでは受け入れがたいよね。そもそも、そういう保守的なスタンスが懐疑論から出てくるというのはどう考えればいいのかしら? もちろんそれは、モンテーニュの生きた16世紀が、宗教戦争に飽き平静を求めていたことにも起因するのだろうけれど。やはり『エセー』本文から読み解くしかないのは当然だが(もっとも、このバーグという人は、モンテーニュを説明づけようとするあらゆる試みに、懐疑をもって距離を置いているんだけどね(笑))、ある意味でその部分は、モンテーニュにとっての「思考停止域」なのかもしれない。そうした領域があるからこそ、人は必死になってその領域を説明づけようとし、ひるがえってオリジナルテクストの作者は「神話化」されるのかもしれない。繊細さと無思考とはどこかで紙一重になっているんじゃないからしら。

いきなり話が飛ぶが、似たような例にゴダールがあるんじゃないかという気もする。先日某所で『ゴダールとソレルスの対話』なるビデオが上映されたが、ビデオの中で繰り返されるソレルスの挑発に、ゴダールは絶えず一種の「思考停止」をもって答えていた(笑)。ついでにいうと、上映後の識者ら(某作家と某デザイナー)による対談も、どこかゴダール作品そのものを「思考停止」にし、「ゴダール作品を観る」という身振り(どこか虚飾っぽい)を振りまいていただけのような気もするんだよなあ(「ホントにゴダール作品が好きなの?」って感じ。ま、だからといってパフォーマンス的にそれが悪いとは言わないけどね(笑))。とにかく、無思考の蔓延を警戒しつつ、懐疑論の問題を考え直すこと、それが課題だな。


10/29IT商売
12月に大幅バージョンアップを控えているポスペは、旧機種で使えないなどの話で一部騒ぎにもなったらしいが、最近は「Harbot」なるホームページ用のペットキャラが広がりつつあるらしい。Flashを使った動画なのだけれど、話しかけてゲームなどができるというもの。で、Sonetというかソニーのマーケティングはどことなくえげつない感じもしないでもないのは、ゲームの種類を増やしたりする際に関連グッズを飼い主(ホームページの管理者)に買わせるから。うーん、ばらまき+副次販売というモデルは新しくはないが(ネスケはそれで失敗した)、ここに実世界の関連グッズを持ち込んだところが面白い……のかな?いずれにしてもIT商売の一つの形ではある。アニメ的絵柄のキャラは、西欧では日本ほどブームにはならないようで、ポスペはアメリカから撤退、パリで開かれた日本のサブカル展示会も結構ヒンシュクものだったという話もあるし……それがきわめて日本的なのは、やはり絶対的な価値を置くもの(大義とかね)の希釈化が、西欧よりもはるかに進んでいるためなんだろうか?話は違うが、フランスに11月からimodeが上陸するという。どんな具合に展開するのか、ちょっと注目しておこう。
10/22練習?
さる仏語のセンセイが若い頃、ポール・ヴァレリーはなぜあれほど大量の「カイエ」(ノート)を残したのかという問いに、日々の練習のためではないかという「卓見」を示していたことがあったっけ。人はなんらかの行為をいわば強迫神経的に練習(=反復)する。洗練をめざすというより、技能を落とさないようにするという意味合いの方が強いかもしれない。たとえ目的を持って書き続けられるものだと言われたにしても、目的は後からいくらでも加えることができるわけで、とにかく反復することに意義がある……こんなことを思ったのは、なんだか米国の連続射殺事件が、ある種の「練習」のように見えてくるからだ。要人暗殺のための準備なのかどうかはわからないけれど、とにかく腕を落とさないための練習という感じだ。前者のような大儀など、後者の功利性の前にはかすんでしまうほど。そんな風に見ると、この継続=反復性にこそ、続発する爆弾テロなんかについても真の動機があるようにも思えてくる。そしてそういう動機がある以上、テロはなくならないし、対応策も対処療法的でしかありえない。何かの練習をやめるには、別の練習をやるしかない。テロ的行為に代わり反復されうる練習行為とは一体何だろう。歴史的には、多くの場合、テロ行為の延長線上に独裁政権の確立・維持という「練習行為」があったわけだけどね。もっと別の何かを見いださせないと、場合によっては世界がもたなくなるかも。
10/16灌漑設備としてのテレビ
日本は北朝鮮拉致被害者の帰国、海外ではテロ報道ばかりが報じられて、われわれ一般人に対してほとんどある種の「情報の壁」が出来てしまっている感じ。なんだか、『1984』的悪夢とわれわれはずいぶん近いところにいることをまざまざと感じさせてくれる気がする。「一般の日本人はなぜ国際政治に関心を寄せず、自分のことばかりなのか」という疑問を、とある外国人記者が言っていたのだけれど、今や心理的な風景とも化しているテレビが、これほど同じような情報ばかりを流しつづけていては、外部に向けられるはずの眼さえもが内向きに流されていってしまうのかも。そう、テレビは国民的夢想の灌漑設備という感じだ。場所によって濁流だったり干上がっていたりする荒々しい想像力の水流を、体よく流し込んで誘導し、穏便な苗ばかりを育てる灌漑施設だ。行き着く先は、整然と並べられた食用の苗か。うーん……。
10/08スパム
このところ、一段と数を増しているスパムメール。最近ではついに勝手に人のメールアドレスを名乗って送りつけるなんてのまで出てきている。たまらんなあ。メーラーでのHTML表示を解除するのは基本だけれどね。手軽さ、便利さの裏にへばり付いているそういう悪しき使われ方は、もちろんすげ〜迷惑なんだけど、でも考えようによっては、それが新しいネットの使い方へのヒントになりうる可能性もある。『もし世界が100人の村だったら』なんて、チェーンメールがなかったらそもそも成立しなかったろうし(でも、あのネットロアという呼び方はなんとかしてほしいのだが)。とはいえ、もちろんそういう悪しき使われ方が度をすぎると利便性そのものを損なっていくのだけれどね。実際、これだけスパムが多いと、例えば誠意ある署名運動的な行為はほとんどメールでは不可能になっていると思う(掲示板は別だが)。胡散臭さが前面に出てしまうからねえ。こうして革新的な利用法の一部は確実にその芽を摘み取られていく……なんてね。でも実際、事態は少なからずそういう方向に向かっている感じに見える……。
10/04社会的シフト
ちょっと前に、さる出版社の方から伺った話なのだが、なんでも、日本の個人主義の萌芽を徳川幕府体制下の武士道精神に探るという面白そうな研究があるのだそうだ。ところがこれ、史学方面からはさほど評価されていないのだとか。生粋の歴史学者によるものではないから、ということらしいのだが、もし本当に、旧弊な制度とそこに生息する化石のような枯れ脳たちのせいでまともな評価がなされないのだとすれば、それは大きな問題だよね。ま、それはともかく。この武士道精神に個人主義の萌芽を見るという視点は、西欧の12世紀ルネッサンス以降の騎士道精神に個人主義の萌芽を見るという論(たしか文学的テクストに沿ってそういう論を展開する文献を昔読んだと思うのだが)の焼き直しのようにも思える。聞いた話では、その日本版個人主義論の方は社会史的な研究のようだ。西欧に関する議論もまた、より広い社会史的な文脈で改めて考察されないといけないはず。例えば『キリスト教と十字軍思想』(P.Alphandery & A. Dupront, "La Chrétienté et l'idée de Croisade", Albin Michel, 1954-95)なんてのを見ると、第一期と第二期の十字軍の間に、ある種の社会的変化が見られるとされている。共同体レベルでの救済思想から、より個人的な救済の渇望へと、社会的に大きなシフトが起こっているというのだ。うーん、そんな短期間でのシフトがありうるなんてにわかには信じられない気もしたのだが、考えてみると、そういうシフトは現代でも起こるべくして起こっている感じだ。そういう結実点のようなものがどう導かれ、またそこからどういう状況が起こるのかを見極めるのは至難の業だけれども、歴史的考察だろうとアクチャルな考察だろうと、まさにそこが考えどころだという気がする。
10/01リメイクとエラボレーション
リメイク話を再び。焼き直しという形で「イジる」場合、当然そこには焼き直しをする主体の側の様々な意図が介入する。アメリカがしょっちゅう行う外国映画のリメイクって、印象としては、ポエティックなもの、異質なものを排除し、微細な心理のひだを平らにならし、短編は長編化し(『ラ・ジュテ』が『12モンキーズ』になったり)、その上で画面としては派手さを増し、ストーリーの起伏というかメリハリを明確にする、という感じ。全体的に単純化・単線化するというわけだが、ではさて、そこにどういうイデオロギー性が込められるのか、という点が気になる。こういうことを思ったのは、ジャック・ザイプス『おとぎ話の社会史』(鈴木晶、木村慧子訳、人文書院)を読みかけだからか。ペローの昔話の書き換え、グリム、アンデルセンなどなど、いずれも時代のイデオロギーに合致する形で、民衆の口承説話を「歪曲」していく様を論じているのだけれど、そうして見ると、アメリカ映画の善悪二元論的というか還元主義的なリメイクも、一種の思想統制、感性の統制のように見えて空恐ろしい。やはりここは、ハリウッドがどうあがいてもリメイクできないような、アクの強〜い作品を作るっきゃないのかもねえ。そういう意味でフランス映画の『ヴィドック』とかは失格なんでないかい、と。
09/28リメイク大国
仏・スペインの合作映画「オープン・ユア・アイズ」と、アメリカ版リメイク「バニラ・スカイ」をほとんど立て続けに観る。うーん、当然予算的に後者の方が上で、画面的には凝っていても、やはり登場人物の微妙な心理描写や筋の運びはオリジナルの前者の方が自然だ。「リング」なんかもアメリカでリメイク中だそうだが、井戸というものがもつ怪談向き装置としての文化的な意味合いなんて、ほとんど理解されないだろうからなあ。それにしてもアメリカの、他国のオリジナルをほとんど公開せず、こういうリメイクばかりをヒットさせていくその自家薬籠化の手法って、当然ながら単なる不遜さ以上のもの、という気がする。異質なものを自己に取り込んで同化してしまうどん欲さというより、「開かれている」と称しながら異質なものを潰していくという、まさに「グローバルスタンダード」的イデオロギーだ。今回盛んに言われているイラク攻撃も、言ってみれば積み残しの精算と反米的なものの排除という二重のリメイクかもしれない。
09/23不正の再発防止?
NHKが朝の連続ドラマの順番を間違えて放送するなど、なんだか最近は以前にも増して「あってはならない事態」が頻発している感じ。不法農薬の話もそうなら原発の隠蔽体質もそう。コミュニケーションの不備、組織体制の硬直化、チェック体制の欠如など、幾重もの要因から成る根の深い問題だけど、再発を防ぐための具体案が何一つ明確に示されていないのはもっと重大だ、という気がする。お偉いさんの頭すげ替えただけで良くなっていくなんて話は誰も信じていないのに、報じられる「責任の取り方」は配置転換だけ。なんともお寒い状況ですな。当然、精神論でも事は解決しない。コミュニケーション一つ取ってみても、介在する機器が精緻なものになっていく分、人的距離、あるいはコミュニケーション介在経路は逆に長くなっていく。組織的に見ると、そうした機器を備えていることが外見上の体裁となっていく、そうした機器のアレンジメント(狭い意味での)は、今や長い迷路のようになっていて、チェックをかけようにも、どこがどうつながっているのか、全体像が分かっている人はいないという有様じゃないの。そして組織体制の頂点には、現場のことなんか意に介してもいない爺たちが君臨しのさばるのだ。責任を問われれば、はいそうですかと別の役職に移るだけの輩がだ。介在する経路を短縮し、魑魅魍魎と化した組織を作り替え、老人たちをのさばらせないようにすればいいのだが、どこから手をつければいいのか…。時には強行な創造的破壊がないと活性化しないのだけれどね。瀕死の状態での内部崩壊ほど悲惨な状況はないんじゃないかなあ、と。
09/18原発
原発をめぐる虚偽の発覚と同時に、まるでそれを隠蔽するかのように発表された小泉の北朝鮮訪問。そしてそれは、まるで原発の内部調査報告のインパクトを隠蔽するかのように、拉致犠牲者の安否の公表でもって締めくくられた。うーん、なんなのだろうね、この符合は。原発が恐ろしいのは、一度それが稼働してしまうと、技術的によっぽどのことがなければ止められないことなのだというが、考えてみると、そういう一度出来上がってしまったものが持つ「後戻りの不可能性」はいろいろな分野に歴然と存在する。市場だってそう。様々な決定要因が複雑に絡み合う以上、素朴に「よいものが売れる、売れるものがよいものだ、なんせ自然淘汰なんだから」なんてユートピア的な市場を信奉するのは愚の骨頂。あるいは外交だってそう。今回の国交回復交渉再開合意も、それが「地域の安全保障」につながるのかどうかはともかく、たとえ被害者の家族の要求があろうと日本側から理由なく撤回できないのは明らか。するとカードを握るのはむしろ向こうになってしまったんじゃないの、という感じもしなくはない。そうした後戻りの不可能性に対して何ができるかといえば、少なくとも悪化への拡大を防ぐことがある。原発の増設、不良製品の拡充、パワーバランスの偏りなどに対して、たとえ対処療法的でしかないにせよ是正は図れるはず。後戻りはできなくとも、同じ地点を上位レベルで通過する螺旋的軌跡を描くことならできるはず…だ。
09/14グラウンドゼロ
同時多発テロ一周年の前日、長崎の爆心地を訪れた。平和公園脇にあるグラウンドゼロは、中央に記念碑が建ち同心円的な線が幾重にもそのまわりを取り囲んでいるというデザインだった。爆発を模したそのデザインは、不謹慎な言い方になるけれど、一見スタジアムのトラックのようにも見えて、少し落ち着かない気分にさせる。うーん、近代的な記念碑というのはやはり両義的だ。仮にそれがなければ重大な出来事の記憶が失われるのだとしても、均質に整備された建造物は、その出来事のブリュタルな面をどこか殺いでいってしまう。風化には逆らいがたい。記憶の召喚装置には当然限界があって、時には記憶の変形装置にもなるのだろう。そうした均質化に抗うには、おそらく生者の絶えざる動員が必要だ。かくしてその均質な膜を破るために、式典があり集会があり広い意味での「祝祭」が催される…。

公園の片隅には、原爆投下時の地層がそのまま(たぶん)残された一角があった。むき出しの地層はややくすんだガラス板の向こうにごくわずかだけ見えるのだけれど、その混沌とした光景がやはり一番胸を打った。爆心を覆う建造物の膜を、ささやかながら、これまた破ろうとしているかのよう。おそらく, 風化させ均質化させる力に抵抗できるのは、出来事をまた別の出来事に重ね合わせること(地層化すること)なんじゃないかしら、などと思うのだ。


09/06テロの問題系
9.11の世界貿易センターへのテロからまもなく一年。テレビや雑誌なんかがそろって取り上げるのは当然眼に見えていたけれど、ここへきてアフガンでのテロもあったりして、テロについての言説が再び高揚しそうな案配でもある。だけれど、昨今のテロに関する似たり寄ったりの話よりも、今や多少後退する形で距離を取って考える時にさしかかっている気がしないでもない。今年の4月に出た『レ・カイエ・ド・メディオロジー』(レジス・ドゥブレを中心とする「同人」らの機関誌だ)最新号(13号、Gallimard刊)も「テロリズム的光景(La scè:ne terroriste)」と題するテロ特集。ネット犯罪や現代的なテロに関するエッセイ類はそれほど面白くないが、歴史的な事象の考察は興味深い。たとえば宗教改革期の偶像破壊に関するヴァヌグフラン(Wanegffelen)の論考。それによると改革派による偶像破壊行為は、カルヴァンあたりの主張というよりも、むしろ当時巷に広く流布していた終末思想にその根を持つのだという。また、噂の伝播をめぐるプルー(Ploux)の論考は、第二帝政期などの元首暗殺の噂が、民衆的な想像力がいかに政治的な文脈を反映しているかを論じてこれまた興味深い。テロ一つとっても、そこから導かれる問題系は実に広大だ、ということを改めて感じさせてくれる…。
09/03市場とパニック
またしても株価が下がっている。先月の頭ごろ、とある知り合いが「昨秋のテロ以後、ここ5年分くらいの増益を失った」なんてことを口にしていたが、株って、全体で見ると、実際には総額という限定がある以上、誰かが儲ければ誰かが損する構造になっているのは明らか。それが見えないのは、銘柄の選択肢が多数あって、様々に「乗り換え」できるから。しかも個々の株の価値というのが、購入者の全体的傾向によって成立するからタチが悪い。で、その根底にあるのは模倣行動。フランスの社会学者ジャン=ピエール・デュピュイによると、市場での株取引の売買行動は、災害などのパニック時に誰もが脱出すべく一斉に同じ行動を取るのと構造的に同じだという。もちろん前者には、ゆるやかに、かつ秩序立った形で模倣行動が組織されるという違いがあるわけだけれど。短期的に(近視眼的に?)最悪なのは、勝ち組がほとんどおらず、結果的に全体の地盤沈下が起きてしまうこと(誰も儲からない市場、誰も助からない災害時)だと誰もが思うけど、デュピュイはむしろ両者に共通の構図を、自己組織化の一段階として理解しようとする。ま、そういう巨視的な視点に利点があるとすれば、市場が混迷する時に、それが新たな秩序構築の萌芽になるとして希望をつなぐことなのだろうけど、それにしても、そうした言説が、どこかアイロニカルな希望でしかないという印象を拭えないのはなぜなんだろう?市場の論理そのものが変化するのではないからかしらん?
08/16寓話としての洪水
ドイツから東部ヨーロッパにかけての洪水報道が続いている。なんだかこれを見ていると、グローバル化の寓意かと取りたくなってしまう。でも寓意というより、両者は間接的に関係してもいるわけで、富の集中をプラス側の集中効果だとすると、そのために搾取される自然はマイナスの集中効果。資本主義の富の集中と自然的荒廃の集中もまたパラレルだ…。以前、シェークスピア劇に旧約聖書の大洪水の構造を読みとったどこぞの記号学者の論があるという話を聞いたことがある(未読だし、リファレンスも忘れてしまったけど)。西欧にとっての洪水は、我々にとってよりも複雑な意味を担っているのかもしれないなと思ってしまうのは、例えばニュース報道でも、洪水の罹災者の中に泣き崩れてしまう人の姿(特に年配の人)が異様に多く見られるから。うーん、でもどうなんだろうね。果たして現代の西欧人にとって、聖書の大洪水が遠景としてどれほど残っているんだろう…。

大洪水というと旧約聖書もあるけれど、『ギルガメシュ叙事詩』(邦訳:矢島文夫訳、ちくま学芸文庫)も興味深い。そこでもやはり洪水は究極の破壊行為として描かれ、人を救った水の神エアは、守護神エンリルを、考えなしに洪水を起こしたとして非難する。しかしエアの助言で生き残った人には、約束の地が与えられる。カタストロフとそれに続く救済という神話が現代人にとってもはや機能しないのは、ある意味でなんとも悲しい状況かもしれない。


08/10「隠す」ということ
夜中にBSでやっていた『アイーダ』。サッカー人気にあやかっての放映なのかどうかはともかく、例の凱旋行進曲の場面、なんだか音が不安定になっていた(笑)。映画畑のゼフィレッリ演出だけあって、この場面、凱旋する兵は見せず、出迎える人々がひたすら手を振っているという形になっている。「観客が見たいと思うものを安易に見せてはいけない」と言ったのは確か小津安二郎だったっけかな。観客の見たい欲求に「作家」が立ちはだかるってのは、やはり、作り手側が受け手側をコントロールするという「近代」っぽい構図だ。映画も元々は近代的な制度の申し子。作り手の権威や、作り手/受け手のヒエラルキーを下支えするそうした構図は当然引き継いでいる。ま、芸術的美学として戦略的に用いられる分には問題はないし、見たいものを何でも見せちゃうハリウッド的な作り方へのアンチテーゼみたいで清々しくもある(笑)。問題は、それを社会全般に反映させてしまうようなスタンスだ。こういう「隠す」美学を、安易に日本的だなんて言ったりする見方だ。というのも、仮にそういう美学が存在するとして、それは意外と歴史が浅そう(近代以降)だからだ。でもって、今や隠すことが美学だなんてのはもはや悪癖以外のなにものでもない。昨今言われている社会的な隠蔽体質を覆すには、その歴史的な誕生を認識するところから始めないとね。これは面白そうなテーマになる気がする。
08/06機密漏洩
住基ネット稼働と同時に防衛庁の情報漏洩が報じられるタイミングの良さ。情報漏洩は結構簡単に出来てしまうことを如実に示す好例かもね(笑)。コンピュータのセキュリティといえばクラッキング対策ばかりが前面に出てしまうけど、物理的な部分の弱さというのは案外放置されていたりもする。停電対策は昔からあるけど、落雷対策なんかは結構最近のものだったりもする。最近の強盗事件なんかは大型金庫でも丸ごと持ち去ったりするし、無人のATMをパワーショベルで破壊したりもする。端末のハードディスクなんか持ち去るのなんていともたやすいだろうし。うーん、近隣の役所なんか本当に大丈夫なのか?
08/02ユビキタス
暑い日が続いているが、そんな中で酷使されまくっているうちのエアコン。この数年水漏れとかがあったのだけれど、今年はなんとか頑張っている感じだ(笑)。エアコンだってマイコン制御だし、CPUに関する限り、今やそのユビキタス(遍在)状態が実現しているわけだけど、以前聞いた話では、コンピュータをコンピュータとして意識させない形で遍在させようという、別種のユビキタスの研究も進んでいるらしい。早い話が、インターフェースを今のパソコンのようなディスプレイ+キーボードの形に閉じこめるのではなく、壁とか机とか、いろいろな日常的な道具・物品に直結させようということなんだろう。そう言えば、ちょっと前には、音楽再生装置付きの衣服のプロトタイプ話をテレビで放映していた。電気を通す繊維で編んだ衣服で、どこに再生装置があるのか分からないようなものらしいのだが、本当に利便性があるんだかないんだかわからない気もする。これって配線基板を着て歩くようなもんで、なんか気持ち悪い。というか、もっと問題なのは、そうした「配線」部分がいっそう見えなくなってしまうことだ、という気もする。

で、やはり一番の問題になるのはセキュリティ。再生装置を繊維として配線できるなら、その先にはもっと高度なデバイスの埋め込みが待っているはず。実際、その音楽再生装置付き衣服を開発している企業は、「将来的にはGPSなんかにも対応したい」みたいなことを言っていたけれど、その衣服を身につけた人の位置がわかってしまうとなると、まさに個人の行動パターンの情報などまでが筒抜けになってしまう。住基ネットなんかよりすごい管理システムができたりして…しかもそれが目に見えない形で、生活の隅の方にまで入り込んできたら…なーんて考えていると暗澹たる気分になるよなあ。


07/25歩行速度
買い物などで街を歩くたびにこのところ妙に感じるのは、以前に比べて人々の平均的な歩行速度が遅くなっているんじゃないかということ。ま、実際のデータはないので、あくまで印象の話だけれど、バブルの頃などは、トロトロと歩いていると、後ろから「邪魔なんだよ」って感じで追い抜いていく人とか多かったような気がする。今は逆で、うだうだ歩いている人に前をふさがれてしまうことの方が多い。歩行速度が景気を反映するのか?あるいは通信環境のスピードアップで、身体の方は逆にスローダウンしているのか?確かに歩行の遅さの理由には(特に若い人たち)、携帯で歩きながら喋っているというのもあるだろうけどね。だけど昨今の状況は、なんだか国民総夢遊病者的な徴候のようにも見えて、なんだか空恐ろしい。

広い意味での「戦争」の基盤に速度体制を見るヴィリリオなどは、歴史的に、速度の増大がかえって「囲い込み」を増長してきた様を概述していたりもする(『速度と政治』、市田良彦訳、平凡社ライブラリー)。要塞が瞬時に破壊できるような武器があるのなら、例えばわざわざ歩兵を送り込む必要はなくなる。かくして常に不確定要素(それは変化の担い手でもある)をなしていた「制度の一部として流動する者」が行き場を失ってしまい、同時に制度は閉塞して硬直化してしまう、というわけだ。うーん、むやみなITの称揚と経済の金融化(それもまた一種の戦争仕掛人的機構だが)が、まさに社会体制の硬直化と機を一にしていることもうなずけるように思えてならない。広い意味でのシステムが人の介入する余地を与えないほどに自立化していくと、そこに居場所をもたない者が大量にはき出される。失業とかそういうことだけではない。対抗手段はといえば、システムの成立基盤そのものに戻って、現行のシステムに対するオルタナティブを考え直すこと、か…。


07/22ナラトロジーの方へ
『月刊言語』の先月号は特集が「メタファー」。個別のシークエンスが一連の「物語」を形作る際に、おそらくこのメタファーと呼ばれる現象はかなり重要な役割を担っているんじゃないか、という印象が強いのだが、とするとやはり、認知科学方面からのメタファー研究は大いに注目されるという気がする。この雑誌に収録された記事は概略的すぎて、現在の研究のレベルとか動向とかはほとんどわからないけれど、一方でナラトロジー(説話論)方面からのアプローチも気になるところだ。例えばポール・リクールは『聖書解釈学』("L'hermeneutique biblique", Cerf, 2000)で、聖書に描かれる「たとえ話」を分析しているけど、たとえ話が「説話の形態にメタファー的手続きを与える方式」であり、人間の実在について「記述し直す」ための模倣的な神話素なのだ、みたいな話をしている。また、聖書の解釈学について、それが権威的に固定化された読みに再び流動化をもたらすものだとして、説話論的神学の可能性を提唱したりもしている。いずれにしても、語りのオルタナティブはこれからもいっそう重要になっていきそうだ。
07/18住基ネット
静かに忍び寄ってきつつある住基ネット。氏名が番号化されることそのもの(これはこれで記号論的に重要な問題なのだけれど)よりも、当面の問題がその一元管理システム管理にあることは周知の通り。どこぞの週刊誌があるシステム構成をすっぱ抜いたらしいのだけれど、なんでもリレーとかを挟みつつ、同じ部局のインターネットなんかに接合しているのだという。こういうシステムは本来内部的に閉じていてしかるべきだろうにね。さらにシステム運用がWindowsベースだとかいう話も伝わってきた。おいおい、そりゃセキュリティとか捨てたも同然じゃん。アメリカの一企業に情報握られても文句もいえなくなってしまう。なんでここで独自開発でシステムを構成しようとしないんだろうか?これだから技術小国はどうしようもないやね。例えばフランスは、そういうクリティカルなシステム構築は独自路線を保っていたはず。うーん、現行の計画のままで突っ走られてはやっぱ危険だよ。
07/11画面のフォーマットとプロパガンダ
雑誌『現代思想』に掲載のキャロル・グラック「九月一一日」は秀逸。同時多発テロは、テレビというメディアが今なお、あるいは今だからこそ、人々の視覚的認識の中心を担っていることを惜しげもなく開示した(インターネットなんざ、大量の人がアクセスしようとするとパンクしてしまうっつー話)。それは単純化した図式論的な説話を流布し、ありうべき複線的な説話を葬ってしまう…というのが全体的な筋立てだが(これ自体はさほど目新しくはないが)、このメインストリームの説話が練り上げられていく過程の記述などには、ある種の迫力すら感じられる。実際、パーソナルコンピュータのGUIの視覚性は、テレビに流れ込むことによって、この説話構築に大いに与っている感じだ。グラックの指摘にあるように、CNNなんかは同時多発テロ後に、ブラウザやメディアプレーヤを思わせる画面分割を多用するようになった。んでもって、キャスター映像の脇もしくは下には、扇動的ともいえる文字が並ぶ…。このフォーマットはある意味で危険だ。コンピュータの画面上では商業的アピールのために用いられている視覚的トリックの数々は、すぐにでも政治的プロパガンダに流用できることをまざまざと見せつけた、ということ。放送のデジタル化が、あるいは危ういプロパガンダツールに変貌しないとも限らない。うーん、視覚の問題はますます重要になっていくってことか。知の公共化とカウンター的な理解の努力が「『現代思想』のような雑誌の中に体よく封印されていてはならない」、というグラックの閉めの言葉がグッとくるぜ。
06/29ハコモノ
7月で閉まってしまうという東京グローブ座。うーん、なんとももったいないなあ、と惜しみつつ、今日はロイヤル・シェークスピア・カンパニーの「ヴェニスの商人」を観に。シャイロックの憎悪が今一つ伝わってこず、逆にアントニー側が妙に「悪役」っぽさを醸し出すという(?)演出で、なんだか、翻って反ユダヤ的姿勢の根源が問われているようなアンビバレントな舞台だった気がする(笑)。客の入りは結構良かっただけに、はやり劇場やホールの維持は大変なのだろうなあ、という感じだ。

で、そういうことを思うと気にならざるをえないのが、今回のワールドカップで地方にボコボコできた競技場か。万単位の観客収容数を埋めるようなイベントがそう頻繁にあるわけでもなかろうにね。これからどうすんだろ?長期的ビジョンがあるとはとても思えない。かつてバブル期にサントリーホールが出来た時にも、なんだか同じような印象を抱いたことがあった。勢いで作れば後はなんとかなる、という感じ。バブル期はそれでもよかったかもしれないけれど、これからはそういうビジョンがなければとてもやっていけないだろうに。ハコモノ的な発想とは決別してもらいたいもんだ。


06/19「理由」のない国
一仕事を終えたトルシエ。仏雑誌に「仮に、ゴールキーパーなしで試合をする、と私が言ったら、日本のマスコミは暗殺しには来ても、理由をたずねたりはしないだろう」みたいな発言をしていたらしいが、うーん、本当にそんな感じがする。特にテレビメディアは、どこぞの「権威者」が断定的に述べたことを報道すればそれで終わり。理由や原因といったものをそれ以上問うことがない。「権威者」が言っているからそれでいいでしょ、というわけだ。もはやそんなことで誰もが納得するような社会ではないことも事実なのだが、この無反省的心性が大手を振ってまかり通っていることはかなりヤバイ状況なのではないかとも思う。

昔、英語教育の一環としてディベートがもてはやされたことがあった。理性的推論を鍛えようということだったのだが、大学の学生ディベート(英語ディベート)は、いつしか完全に詭弁と虚偽に満ちた馬鹿馬鹿しい「言葉ゲーム」に堕落していった(その延長線上に、某宗教団体のあの代弁野郎がいる)。そりゃ、ディベーターは確かに相手に理由を問う。だけれど、それは理解のためにする問いではない。詭弁を弄するための、あくまで手段でしかない。学生がやっていたのは政策ディベートなのだが、常識的に実現不可能な政策が提示されても、「反論の証拠がない」というだけで審判は提示側を勝利にする。環境問題を論じているはずが、強引に土地の管理問題へと相手を引き込み、それを論証して終わりだったりする。結局、環境問題そのものに対する認識は育まれない。学生たちは、環境問題の核心をつかむこともないまま、次の議題(半年で変わる)へと滑走していく。こうして、ディベートの教育的側面は頓挫してしまった。うーん、論証・議論の教育的手段すら荒らしてしまう無反省的心性というのはいったい何なのだろう。程度の差はあっても、そうした無反省性は西欧にも観られるらしく、「テレビ的心性」「資本主義(後期)的心性」だという議論もあるけれど、日本で特に爆燃的に拡散したのはどういう理由によるんだろうか。うーん、大きな問題だ…。


06/11技術小国?
「政治的には(核を)もたないが、技術的には持てる」とほざいた官房長官。だけど今や日本はちゃんと核を管理できるだけの技術力があるのかはなはだ疑問だ。技術っつーても、開発技術だけが問題なのではない。大事なのはメンテナンス方面の技術だと思うのだけれど、どうもそちらの重要性がきちんと認識されているとも思えない。原子力関連施設、道路、鉄道など、高度成長期に開発された設備が疲弊してきても、それを放っておくだけじゃないの。開発予算に比べてメンテナンスの予算は限られ、人材教育だってたいしてなされてない気がする。そんな状況で核なんか持ったら危なっかしくて仕方ないじゃないの。衛星の打ち上げすら全然ダメなんだからね。そ、メンテナンス方面を中心に、日本って今や技術小国になっているんではないかなと。ま、開発努力の複合的作用をエモーショナルな直線的フィクションに変換してしまうNHKの「プロジェクトX」みたいな番組が出てくること自体、凋落傾向の現れなんだろうけどね。
06/03身体的言語観へ
『月刊言語』なんかに載っているが、5月末から6月半ばは文学・言語学系の学会ラッシュのよう。仏文・仏語学会なんかもあったらしい。で、これに関連して人づてでちょっと面白い話を耳にした。さる著名なセンセの論に、語学のあり方をめぐる「第三の道」(欧州の社会主義政権のムーブメントを念頭に置いているのだろう)を探ろうという話があるのだそうだ。どういうことかというと、日本での仏語教育はまず最初「教養主義」に染まり、その次に「会話重視」運動に染まった。で、今や第三の道、つまり両者の混在をめざそうではないか、という話らしい。うーん、この話の問題は、第三の道と名称を変えたところで、結局のところ「道具的言語観」から抜けてないということだろうなあ。教養主義では、言語は教養を深めるための「道具」でしかない。会話重視でも、言語はやはり道具でしかない。第三の道だってそれは同じ。では、どういう代案があるのかというと、やはり「身体的言語観」だよね。評論家の三浦雅士氏が以前述べていたように、言語教育はいわば体育なのであって、それは身の処し方なのであり、だからこそ存在をも巻き込むことができるってもんなんじゃないかなあ。最近よく取り上げられているフランコフォニー運動の話にも関係していくスタンスってもんすよ。
05/31社会運動…
日仏学院で上映されたドキュメンタリービデオ『社会学は格闘技だ』。先に亡くなったピエール・ブルデューを追ったドキュメンタリーなのだが、これはブルデュー信奉者でなくとも興味深い一作だ。各種のインタビューや講演、ギュンター・グラスとの対談などで構成されている(ちなみにこの対談の全体は、『ブルデューを読む』(情況出版)に採録されている)。フランスの労働運動は「反知性主義」によって阻まれているとし、そうした運動の知的支えをなそうとしていたブルデューだが、日本ではそれ以上に左派的視座は壊滅状態にある感じだ。今現在、駅前などで有事立法その他への反対運動をしている人は多くなっているが、一部の団体の活動の仕方は、どこか怪しい宗教団体のような風采すらまとっている。これでは支持は得られない。もっと知的議論として運動を組織できないのだろうか。ビデオの最後は「社会運動だけが唯一の可能性だと思う」という一言で事実上締めくくられていたが、問題はどう組織するかだ。それが欠けているままでは、ずるずると為政者の言うがままになっていくしかない…。
05/18アーレントの方へ
誰が仕掛けているのか、このところゴダール作品が煽られている感じ。過去の作品の再映もあれば、公私にわたるパートナーだというアンヌ=マリー・ミエヴェルの作品も公開されるという活況ぶり。関連上映会が日仏学院などで行われている。その一作『私たちはまだここにいる』(疑似同通を担当させていただいた)では、客層が若いのにちょっと驚いた。後で聞いた話では、どうやら映画学校の学生たちが大挙来ていたらしいとのこと。この作品、哲学コメディーと銘打っているのだけれど、とりわけ後半の男女のやりとりなんか、ある程度年齢がいかないとわからんだろうなあ、という感じ。

中程の部分ではハンナ・アーレントの仏訳の引用(『全体主義の起源』)がゴダールによって朗唱されるのだが、このところアーレントの名前がやたら目につく気がする。反ユダヤ主義の起源をめぐる社会分析はいまや古典だが、欧州の極右の台頭や中東問題の悪化の文脈で、再び脚光を浴びているのだろう。先の『現代思想』にも、アーレントにおけるイスラエル国家への言及の欠如を、その思想的枠組みに照らして考える論考が掲載されている(早尾貴紀「アーレントの<沈黙>」)。というわけで、個人的にも、遅まきながら読んでいる次第…。


04/30公共領域
この一ヶ月というもの、雑誌や書籍に目を通す余裕がさっぱりなかった。で、今日はようやく久しぶりにほっと一息ついたので、とりあえず『現代思想』をめくってみる。特集は「公共圏の発見」。経済中心主義の蔓延で、パブリックドメインというテーマそのものがマージナルにおとしめられてしまいそうな昨今、そうした議論には意味があるはずだ、と思いながら読んでみるのだけど、どうも掲載されている議論はそういうものと微妙にずれている感じでちょっとがっかり。大学人たちの保身が呈する矛盾の解消とか、落書きとかスケードボーディングとか、散発的な反社会空間に新しい運動の萌芽を見るとか、なんだかセコい方向に話が流れていきそうな気配…。そうしたいわば反社会的な空間を連帯させていくというような戦略は、もはや70年代じゃないんだし、ユートピア的でしかない気がするんだけどなあ。そうじゃなくて、むしろ冒頭の対談の末尾で言われているような、「公共性を担う所有形態」の「混成的なあり方」こそが問題という気がする。パブリックドメインの囲い地をどう作り、どう維持していくか、その支えにどんな原理をもってくるか、というあたりの話が見られないのでは困ると思うんだけどなあ。
04/24インフォームド…
ワイドショーなんか取り上げられている安楽死事件。医者と遺族、なんだか双方ともに「言った、言わない」に始終していて胡散臭さ炸裂だが、ここから浮かび上がるのは、インフォームド・コンセントをめぐる根本的な問題かしら。よく言われるように、自己責任の前提には情報の開示があるわけだけど、医療など極端に高度な専門性が伴う場合、情報の開示は医者の権威の前にうやむやにされてしまう。それは何も医者の側だけの問題ではなく、患者(とその家族)の側にも、そうした情報を求めて、それに従って自己決定するという、心的な準備が出来ていないという問題がある。なんといっても、偉いセンセに「おまかせ」方式で預けてしまうのは楽でいいというわけだが、これほど医療ミスだのなんだのが明らかになるご時世、そうした方式を支えていた「信用」も徐々に解体してきている。インフォームド・コンセントって、そうした権威の解体に伴って出てきた「知的共有」方式なのだろうけれど、まだ十分にいかされていない感が強い。そもそも、人は理屈がわかっていないものを簡単には受け入れられないはずなのだが、それを受け入れさせるものがいわゆる「権威」なのであり、これはもちろん社会構造的な(制度的な)問題でもあるけれど、もっと心的・信仰的な問題でもある。なぜ人はエキスパートを安易に信用するのか、何をもってエキスパートの信任を与えるのか、とかね。これってかなり大きな問題系につながっている。
04/20LL教室
このところ雑務その他に追われてテンションが高原状態。そんな中、通訳技能などの再教育のためもあって、某フランス政府系語学学校に新設された実験的同通(同時通訳というやつね)クラスを覗いてみることになった。ま、今やっておかないと、こういう職業訓練(?)的なものはだんだんと年齢的にキツくなっていくからね。それにしても久々にLL教室というのに入ったのだけれど、いつ見てもあれって本当に嫌な環境だ。あれぞまさしく小型の「パノプティコン(一望監視システム)」。生徒が自分の席でやっているパフォーマンスを、教師が密かに覗けるというシステムが気にいらん。せめて「今覗いてるよ」ってサインが示されてしかるべきだといつも思う。大昔のLL施設は隔壁があった。その後、理論的刷新があってこれが取り払われたという話だったように思う。ラボをめぐるその後の語学教育法の理論はどうなってるのか全然知らんけど、たぶん設備投資的にも古いままなんだろうと思う。これって何とかならんのかね。余談だけど、今回のクラス、試験で選抜するような話で一応全員合格みたいだったのだけど、教師が「本当に受講資格のあるのは一人だけ」みたいなことをポロっと言っていた。おいおい、だったら合格にすんなよな〜。おそらく全員にハッパをかけたくてそういう発言をこぼしたのだろうけれど、それで発憤するのは20代の若い連中でしょ。いわゆる「すれっからし」の語学系講座受講生にとっては思いっきり萎える一言だよ、そりゃ。ひょっとして、長く教師をしているような人は、こういう「教師ズレ」みたいなものが生じてくるのだろうか?
04/06squeak
お〜、ダイナブックの提唱者アラン・ケイがテレビ番組で子供たちにプログラミングをやらせているでないの。現行のコンピューティング環境を批判するその姿勢は変わらず。デスクトップ画面はアイコンの集積地ではなく、紙のようでなければならないというのは確かにその通り。ホント、この「机メタファー」はもうやめて「紙メタファー」に移行した方がいいんじゃないかしらね。で、彼が子供たちにやらせていたのがSqueakという一種のプログラミング環境。落書きした絵にいろいろな属性を与えて動かしてしまおうという発想そのものが素晴らしい。これ、フリーウエアでsqueak.orgから英語版がダウンロードできる。Mac版がオリジナルのようだけどWin版もある。Linux版の他、おお、Windows CEへの移植もなされているじゃないの。いかにもガジェット風だけど、使い方によっては面白いことができるかもね。基本的な雰囲気は昔Macに標準搭載されていたHyperCardに近い。これを全面的にオブジェクト指向にした感じ。HyperCardも当時は先進的と言われていたけれど、いかんせん動作が重すぎたからなあ。ちなみにちょっと見てみた限りでは、Win版はちと重く、Mac版(Classic環境で動く)の方が軽快。
04/04 キッチュでポップな…
昨年の『ラインの黄金』に続き、『ワルキューレ』を観る(新国)。おお、去年に比べてなんかオケがすごく良くなってる感じ。来年から変わるそうで、どういう事情か知らんけど、ちょっともったいない気もするよね…。新聞評では「オケには限界があった」なんて書かれてたけど、そりゃちょっと失礼ってもんじゃない?限界って何か説明しろよ、と言ってみたくなったり。演出や舞台装置もおとなしくなって(笑)いい感じ。話題の緊急医療室っぽい「ワルキューレの騎行」を鼻で笑っていたオッサンもいたが(近くの席に)、ま、ワルハラはいわゆる「縦の構図」っぽくもっていきたい、というのが演出意図なのかもね。

で、ちょっと気になったのが、この「おとなしくなった」という感覚。本当におとなしかったのだろうか、と思うのだ。「キッチュ」もしくは「ポップ」という有標化の線引きの問題でもある。一般に原色の使用と無意味に(一見)オブジェを配したりすることなどに、そういう有標化の誘因があるんだろうけれど、これだけパソコンの画面とか、映画やテレビとか、そういう効果に溢れて単純に慣れてしまっていると、逆に「これだけはそういうものであってほしくない」という逆の差別意識が出てくる。で、これは注意していないと、一種の権威指向の芽になっていくかもしれない。うーん、個人的には別にワグネリアンじゃないけれど、『指輪』はこうあるべきだ、と決め打ちしている濃い(?)ファンというのは少なからずいるだろうし。もしウォーナー演出がそうした権威指向の芽を叩きつぶそうとしているのだとしたら(笑)、今年は少しばかりそれに成功したといえるのかもしれない。観客の心理的な受け入れ体制はたぶん、去年よりもだいぶ敷居が下がっているだろうからね。そういう形で見ると、ビジュアル的にも音的にも、やはり正念場は来年でしょうね(ちなみに個人的には、先のベルリン国立歌劇場の『ジークフリート』(第2サイクル)は秀逸だったっす)。


04/01 ロボット
うーん、このところロボット話があちこちで聞かれている感じ。そういえばBSでは鉄腕アトムの特集放映(アトムが生まれるのは2003年なんだって)がなされていたりもする(笑)。だけどいつも思うのは、なんで人間型にするのか、という点。ホンダが開発したものを見ても(あれはまあ、技術力のアピールのための試作品って感じだけど)、どうも人間型ロボットってインターフェース的にはあまりよくないんじゃないかと思うんですけどね。単純にどこか気持ち悪い。眼なんかあった日には、特にそう。だからたぶん、AIBOにしても何にしても、眼らしきものを省略しているんだろうけど。ま、それ以外にも、動作的なぎこちなさがなくなってくると、分身みたいな感じがしてきてこれまた気持ち悪くなるんじゃないかなと。亡霊化するってことか。限りなく挙動が自分たちに近いくせに異質なものがあったとしたら、人は簡単にはそれを受け入れられないんじゃないかと思う。看護ロボットの試作品とかは、その点ですでに落第だ。また、人間と同じような動作をこなす汎用性なんてのがどこまで必要なのかも疑問だ。表情を変えるロボットなんて、制御系のデモ以上に役に立つわけないっつーの。
03/27個人情報という問題
うげげ。ムネオだ加藤だ辻元だなんて騒がしい間に、怪しげな法案が通りそうな案配なのだそうで。メディア規制3法案とかいう奴。個人情報保護、人権保護、青少年有害社会環境対策と、名前だけは立派そうに見えるだけに、いかにもヤバそうな気配だ。報道メディアの規制は、つまるところ行政が情報をクローズドなものに変えていくということになるんじゃないかと。これだけ情報がいろいろなものを左右するようになると、集中的に情報を握ったものの一人勝ちになるのは当たり前。ちょっと冗談じゃない。いずれにしても、国家国旗法案などの時みたいに、あれよあれよという間に通ってしまうのはやめてほしい。

それはともかく。ダンスマガジン別冊こと『大航海』の新しい号は特集が「ゲーム」。この中の斉藤環と東浩紀の対談では、データベース型権力の問題も話題に上げられ、「人間にはどうもデジタル技術に対する想像力が備わっていない」(東)とか「管理や危機意識は、物語意識みたいのものがないと成立しない」(斉藤)などと述べられている。うーん、過渡期にある人間の慣れの問題という気がしないでもないが、より即物的にはデータベース管理の実情が見えないのが問題といえば問題か。電子メールで届くダイレクトメール(とかウィルスメールもだけど)なんか見てると、ほんとそう思う。あらゆる場所に拡散したデータはホント亡霊みたくなってしまう…。実際のところ今や最低限の個人の情報をどこぞに預けないことには、電話もネットも使えない。だから問題になってくるのは、個人の情報を握っている当のデータベースについて、誰がどこでどのように管理しているかといった全体像を、管理される側がなんらかの形で把握ないしトレースできるような仕組みじゃないかなと。あるデータベースに対して相互監視的な視座が持てるようなシステム、というわけだが、こりゃ技術的にも社会的利害の上でも難しいだろなあ。ま、法律による保護(一方的な)よりは、なんかそういうことができないもんだろか、と考えていく方がましだと思うのだが。


03/25本をめぐる愁訴?
久しぶりに雑誌『インターコミュニケーション』を買ってみる。特集は「未来図書館」。これから来るべき本、こんなのあったらいいんじゃないという本を並べてみるという、「明るい未来」を想像しようという特集か。だけど、実際そのページから立ち上がってくるのは、なんともいえない「愁訴」の感覚だ。これって確信犯的にやってるんかね。今、本をめぐる言説というとどうしてもこういう愁訴に傾いてしまうしかない。『本とコンピュータ』なんて雑誌(というかムックか?)もあるけど、そちらもそんな感じ。哀愁が漂ってしまう。うーん、そんな中で、清水徹『書物について』(岩波書店)はなんともいえない書物的愛が感じられて秀逸だ。回顧的なまなざしをとことん突き詰めれば、どこかで逆のものへと反転するかもしれない、そういう期待感を抱かせてくれる。そのためにはやはりスパンを長くとらないと。いたずらに本とコンピュータを並べて論じる(この問題設定がすでにして近視眼的であることを告げている気がする)ようなことをやっていたって仕方ないじゃないの。
03/15ことばのコンピュートピア?
買ったものの積んだままの「つん読」。これも量が増えてくると一種の不良債権っぽくなってくるのでアセるよね(笑)。で、ちょっとつん読になっていた月刊『言語』の3月号をめくってみる。ひさびさのコンピュータによる自然言語処理が特集だけど、相変わらずこの雑誌は誰を読者ターゲットとしているのか、ごくごく基本的な話ばかりでいまいちだ。とはいえ一般読者的には最新(ではないけど、まあ新しい)動向がつかめる利点もあるかな。音声対話翻訳システムの話とか、要約システムの話とかを見てみると、最近は数理的な構文解析などの限界から、コーパス(簡単にいえば用例の集積)主体のシステムに向かっていることが書かれている。ま、当然の流れという感じも受けるんだけどね。それにしても要約までコンピュータにさせるような状況って、実生活の中にそんなにありえるとは思えないんだけどね。人工知能関連とか、ひいては認知科学への応用あたりを考えて研究はなされているんだろうけど、それを「情報洪水だからユーザの負担を減らすために開発しています」みたいな話にすり替えてしまうところに、専門家の自己正当化と欺瞞とがありそうでちょっと気にいらんかも(笑)。ハバーマスはどこからしら抽象的な言い方で、例えば「科学化された社会が成熟するためには、科学と技術が人間の頭脳を通じて生活実践と媒介されるほかはない」(『イデオロギーとしての科学と技術』(長谷川宏訳、平凡社ライブラリー、p.164)なんて言っていたけど、なんかそういう生活実践が安直に前面に押し出されることによって、かえって生活実践が棚上げになっているような状況を最近特に感じるんだよなあ。
03/10 コスト/ベネフィット?
報道機関などではBSEと称するのが一般的になってきた「狂牛病」。つい私たちは、西欧での牛肉食がはるか昔から続いてきたように思ってしまうのだけれど、実はそうでもないらしい。異端の人類学者だというマーヴィン・ハリスの『食と文化の謎』(板橋作美訳、岩波現代文庫)によると、アメリカの場合、牛肉がこれほどもてはやされるようになったのはごく最近、つまり戦後のことなのだそうだ。それ以前は豚などが好まれていたのだという。牛肉が台頭する背景には、戦後のライフスタイルやら肥育用の牛の生産拡大があって、同時にファーストフードの躍進も関係しているのだという。うーん、そうしてみると、なんだか狂牛病はいかにも出るべくして出てきた病理という感じがしなくもない。

このハリスの基本的な考え方は、食物の取捨選択は基本的に、各時代の食物生産体系の全体の中で最もコスト/ベネフィットの効率がよいものに向かう、というもの。宗教的禁忌などは後から解釈されたものではないかとさえ言っている。最善採餌理論と称されるこの説明原理を、ハリスは様々な統計を持ち出して論じるのだが、やはりこれはあくまで一つの説明原理という気がしなくもない。むしろ「ではなぜ人はそうした最善採餌理論的な食行動を取るのか」ということが謎として残る。ダン・スペルベルが『表象は感染する』(菅野盾樹訳、新曜社)で取り上げていた人類学的説明への批判を援用して、これを彼のいう「疫学モデル」で読むというのも面白いかもね(ただこの疫学モデルにも若干問題がないとも言い切れないかも(笑)。例えば口頭の昔話が一種の完全形態のようなものに収斂するような例を出してくるのだけど、文字化された公定バージョンの存在といった問題を棚上げにしているからなあ)。


03/06 ツリー構造再び
米経済の悪化とともに浮上していたオープンソースの見直しの動き。Linux界隈でも「もはやカーネルの管理をトーパルズ1人にまかしてはいられない」みたいな声が出ているというが、これってなにやら全般的な動きになっている感じもする。ネットを通じた有志たちのゆるい「組織」も、規模がでかくなるにつれ、早くからそれなりに硬直化していくみたいな話は聞いていたけど、これからもっといろいろなところで問題が出てきそうな感じもする。ネットの組織の基本モデルはUNIX型。単独(複数の場合もあるけどね)の管理者(root)がいて、その下に一般ユーザが置かれる構造。横の連携が図られるのはあくまでその一般ユーザのレベル。でもって、それら一般ユーザがrootの側に不満を持ち、「やってらんねえぜ」といって自分たちの別組織を作る場合も、やはり同じツリー構造を作ってしまう。かくしてツリー構造は温存され、再生産される。とはいえrootの部分を排してしまうと、組織はめちゃめちゃになる…。うーむ、なんとも悩ましい。つい最近とある席で、フランス人のジャーナリストだという若い兄ちゃんが「なんで日本は老人が若者のチャンスをつぶしてばかりいるのか」みたいなことを叫んでいる場面に遭遇したのだけれど、これは単純に問題の立て方を間違っているんだと思う。ネット社会がいくら声高に叫ばれようと、諸制度には現実的に、年功序列的ヒエラルキーが依然確固たるものとしてあることを、その兄ちゃんは見ていないわけで(笑)。そういうヒエラルキー(制度)は維持することの方が破壊するより楽なわけで、唯一揺さぶりをかけられるのは外部(内部にいる当事者は、声を上げてもひねりつぶされてしまう)からの圧力なのだが、そういう勢力があると制度の側も硬化していったりとか。うーん、ならば、外圧ともいえないような個々の小さなミニマルツリーが、いつのまにか老木のまわりにずらっと群生するなんてのはどうだろう。森はあんたらだけのもんではない、という感じで(笑)。

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