Tel Quel - 放言日記

MacJournal



Date: 2003 8. 2
Time: 1:09:12
Title : Canicule

以前のサイトでは別コーナーにしていた仏語のシリーズを、形を変え、月1程度でこちらで行うことにしよう。今回のお題は夏の猛暑を意味するcanicule。語源はラテン語でメスの子犬を意味するcanicula。これは同時に天狼星、つまりシリウスの意味でもある。というわけで、caniculeはシリウスが太陽と同時刻に昇没する期間、つまり土用をも指す。ラテン語ではcanicularis。ルモンドのオンラインニューズレターから引用しておくと、"Du 22 juillet au 22 aoüt, l'étoile Sirius, la plus brillante de la constellation du Grand Chien, rythme son lever et son coucher sur ceux du Soleil."と説明されている。chien(犬)の女性形chienneには「ひどい」という意味もあり、chienne de chaleurというと「ひどい暑さ」になる。これぞまさにcaniculeだ、というのが上のニューズレターの話。

Date: 2003 8 9
Time: 12:00:00
Title : 平和の訴え

広島、長崎の原爆の記念日も、今年はいつにもましてどこか暗澹たる雰囲気を感じさせてしまう。それほどに、右傾化の流れが進んできているということなのかしら。それにしても、平和的なスタンスを擁護しようとすると、一様に「平和ボケ」扱いされる最近の風潮はなんとかしてほしいものだ。安易に右傾化のスタンスを取る方が、よっぽどイマジネーションが足りないのにねえ。そんなわけで、こんなご時世の今お勧めの一冊はエラスムス『平和の訴え』(箕輪三郎訳、岩波文庫)。「国王は、(…)人民が富裕になって始めて自らも富裕なのであり、諸都市が恒久平和に恵まれ繁栄する時、始めて己も繁栄するものと考えるべきです」(p.69)なんて、誰かさんに聞かせてやりたい一言だ。平和は買ってでも得ろと唱えるエラスムスはこうも言う。「あなたの市民たちが流す血は別としても、戦争のために費やされる額はこれよりはるかに多かったはずです。避けられた不幸や、安全だった財貨をとくと秤り、考えてごらんになれば、平和の買値がいくらであっても悔いることはないでしょう」(p.74)

Date: 2003 8 23
Time: 1:14:19
Title : ウィルス

盆休み明けがヤバいといわれながら、とりあえずは大丈夫だったと報道されたMSブラスト被害。とはいえ、その後もじわじわと広がっているみたいで、亜種らしいのも出てきた(パッチを当てるワームみたいな登場の仕方が、なんだかいっそうヤバそうに思える)。またメール経由のSobigも亜流が広がっているそうで。なんだか凄い状況になっているよな〜。前々から言われていたことだけれど、生物のメタファーで、人為的システムもまた分散・多様化していないと、単一の原因で種全体が滅んでしまう……。と、こう考えてみると、生物の方が、個体が必ずしも常に相互接触していない分だけまだいいのかという気もしてくる。当たり前だが、ネットワーク化されているということは、被害そのものもネットワーク化されるということ。媒質だからねえ。先週末のアメリカのブラックアウトは、その脆弱性をまさに立証した感じだった。あるいはネットワーク自体が、もっと多様化していなくてはいけないということなのかもしれないよね……。

Date: 2003 8 25
Time: 1:15:29
Title : 高齢者福祉

フランスはこの夏の猛暑で、高齢者を中心とした死者が相当数出ている模様だ。3000人と当初は言われていたけれど、後になって1万を超える人数だという話が出てきたり。家族・親族はヴァカンスでよそに行っていて、残された高齢者が死亡しても気がつかなかったりするのだという。実際、近所からの通報などで発見された遺体300体以上(一部には600体という算定も)が、引き取り手が名乗りでない状態で、トラックの冷凍車などの「臨時安置所」に置かれている有様だという。うーん、高齢化社会の脆弱さ、凄まじさをまざまざと見せつける事態だ。France2の報道では、老人ホームや互助会制度みたいなものを拡充している英国やベルギーの例が取り上げられていた。振り返って日本は……とみると、年金制度も破綻確実、老人施設なんかもさっぱり整わない中、市場はひたすら若者をターゲットにして若者に媚びてばかり……六本木ヒルズや汐留に複合施設を作るなら、若いにーちゃんねーちゃんが行くようなものより、これからは老人たちが楽しめる場所にした方がよっぽど良いはずだろうに。

Date: 2003 8 27
Time: 1:16:30
Title : プトレマイオス

今日は火星最接近デー。このところ、にわか天体ファンみたいな人が、競って天体望遠鏡を買いあさっていたのだとか。けれども今回の接近劇、冷夏の日本よりも、むしろ酷暑のヨーロッパにとってタイムリーかもしれない。2世紀のアレクサンドリアの天文学者プトレマイオスの占星術書(!)『テトラビブロス』(Loebのシリーズで希英対訳本が出ている。"Tetrabiblos", Harvard University Press 1940-98)によると、火星は「主に乾燥した、焼けつくような性質をもっており、それは火のような外見の色の通りで、太陽との近さのせいである。太陽の周転円はその下にある」となっている。「そんなものが近づいたら、そりゃ地上も乾いてしまうぜよ」という感覚が、あるいはヨーロッパの集団的無意識の中で増幅されたかも……なんて考えると面白いよね(笑)。プトレマイオスの主著は16世紀まで主要文献とされていたという天文学書『アルマゲスト』で、こちらの『テトラビブロス』はその続編。前作で論じられた星の位置や運動の問題から、地上への影響を論じていくというもの。天文学と占星術が一続きに連続している様がなんとも興味深い。両方とも12世紀にヨーロッパに伝えられたという。あと、音響学・音楽学の『ハルモニア』論なんかもあって、ヨーロッパへの影響は多大なものだったはず。うん、これもまた面白そうな問題系だ。

Date: 2003 9 1
Time: 1:17:31
Title : テロのプレザンス

イラクでは国連本部へのテロに続き、31日にはナジャフでシーア派指導者を狙ったテロが発生。もはやとどまるところを知らない感じ。イラクに限らず、このところテロが起こらない週などないほど、あちこちでテロが一般化してきている。中東もそうだし。なんとか暴力の連鎖を止めることを考えないと、どうしようもないのだが……。

そういえば先月の頭くらいには、英国のホンデリックなる人の著書『テロルの後で("After the terror")』の独訳が出版されて物議を醸していたようだ。なんでも、パレスチナ側にはイスラエルにテロを行う道義的な権利がある、みたいな議論が、反ユダヤ的だと騒がれたらしい。現時点でAmazon.deをはじめとし、この独訳本の取り扱いは止められている。一方でホンデリックのWebページなんてのもあって、この書籍の第一章が読める。「善きものとは何か」みたいな部分から論じ始め、先進国と途上国の平均寿命の格差に言及し、最後には民族の自由を奪われたパレスチナという話にいたり、「何がいけなかったのか」を再考しようというような話にもっていくのだが、この善悪の価値から論じ始めているところが、ある種の道徳哲学につきまとう危うさみたいなものを先取りしている感じを与える(著作全体を読んではいないので断言はできないのだが)。つまり、善の不均衡に対して、巨視的な視点から止揚するように見せかけて、実は性急なカウンターバランスを考えようとするだけだったりするような構え方にも思えるのだ。取る時折見られるような、冷徹で現実として受け入れがたい結論に向かったとしても少しも不思議ではない感じ……。もし本当に「テロの権利」が擁護されていくのだとしたら、やはりそれは問題だ。すぐに拡大解釈されて、あらゆるテロが正当化されてしまったりしては困るのだが……。

Date: 2003 9 4
Time: 1:18:37
Title : Enseignement

フランスは年度初めの新学期(entrxJ怨)。中等教育以下では、教師たちのストが続いた夏休み前とはうって変わって、普通に新学期が始まったようだ。さて今回のお題はこれにちなんで「教育」(enseignement)。特に中等教育(enseignement secondaire:日本でいう中学高校)だ。「教師」(enseignant)とひとくくりで言ってしまうが、フランスの場合、中等教育以上の教師はprofesseurになる。「教授」なんて訳すと大学の先生みたいに聞こえてしまうけれど、日本とは制度的な違いがあるので注意が必要かも。制度ということで復習しておくと、フランスの中等教育の数え方は日本と逆で、第6学級(sixième:日本の小6に相当)から第1学級(première:高校2年に相当)まで、数字が一つずつ小さくなっていく、そして高校3年に相当する「最終学級(terminale)」を経て大学入学資格試験(バカロレア)を受ける。夏休み前のストで問題になっていたものの一つに、学校管理の「地方分権」(décentralisation)があった。現行制度では、教師以外でも学校に関係する職員(建物の管理者や用務員などの技術スタッフ)は国民教育省の管轄らしいのだが、これを地方の管轄に改めようというのが改革案。賃金格差や人減らしなどは当然予想されてくるし、やがては教員も……という危機感もあったのだろう。折からの年金改革も絡み、大きな運動になったわけだが、それにしても国の財政負担を抑えねば、というはどの国も同じ。今後も一波乱も二波乱もあるかも。

Date: 2003 9 8
Time: 1:19:14
Title : 筆触の現象学

先月、『声の文化と文字の文化』で知られるW-J.オングが亡くなった。誰もが言うように、実に示唆に富んだ書籍だったが、電子時代の声の文化(印刷文化以降は書き言葉が影響する二次的なものにすぎないとされる)についてはある意味再考が必要になっていく感じもした。最近読んだ石川九楊『筆触の構造』(ちくま学芸文庫)は、印刷文化の延長で電子的コミュニケーションを捕らえるオングの立場に批判的で、キーボードで打つことは「筆触」(書くことの応力と、書くことが本来もっていた「削る」という作用をいう)がなく、ゆえに電子的文字は「書かれた言葉」の延長にはないと断じている。うーん、確かにこの書籍は、筆による「書く行為」の現象学的記述としては興味深いのだけれど、キーボードによって書くという部分は上のように断定してすっ飛ばしてしまっている。キーボードでの入力にも、キーによるいわば「抽象化された」筆蝕があるという風にも言えるのではないか、と思ってしまう(筆触概念も相当に抽象的なものだが)。「書かれた言葉」としての文字と、「話された言葉」の声の代用記号としての文字(キーボードによる)とを混同するな、と筆者は言うのだが、これはまたずいぶんと「書かれた言葉」に偏った見方なような気もする。両者の本質的な区分などそもそも存在するのかしら?いずれにしても、要はキーボード時代の「書くこと」への現象学的視座が待たれるということだ。それは同時にオングの遺産を引き継ぐことでもあるはず。

Date: 2003 9 14 j
Time: 1:20:03
Title : 情報による情報遮断

週末、久々に帰省。帰省のたびに如実に感じるのは、地方都市に巣くう情報遮断の構造だ。地方紙ばかりを読み、全国放送から突然ローカルニュースに切り替わるニュース番組ばかりを眼にするような環境では、よっぽど意識的に情報に敏感であろうとしないと、巨視的な視点はさっぱり育まれない気がする。そりゃ、今はインターネットなどで大分改善しているとはいえ、ネットなどはもとより意識的に関わらなければ情報を引き出せないもの。大事なのは、そういう意識を育むことなんだけど、ローカルネタばかりが垂れ流される状況は、全体的な情報量の増大とともに、ますますひどくなっている気もする。もちろん、問題なのは情報の量ではなく、ローカルな情報がほかの情報を塞いでしまう構造だ。そう、情報を塞ぐのはやはり情報なのだよなあ。

そういえば、レニ・リーフェンシュタールが先週初めに亡くなった。ナチスの要請で撮った「民族の祭典」などは、部分的にしか見たことがないけれど、彼女の美学的なスタンスがよく反映された素晴らしい画面なのだとも言われたりする。実際にナチスに加担したかどうかは知らないが(本人は断固否定していた)、結局、彼女のその美学的視座がプロパガンダに使われたのは歴史的事実。そこでもまた、情報が別の情報を隠蔽していた(させられた)わけだ。よく言われるように、ファシズムもポピュリズムも、最初は優しい顔をして近づいてくる。リーフェンシュタールの当時の映画は、ある種の警鐘の意味も込めてちゃんと観たいものだと改めて思う次第……。

Date: 2003 9 24
Time: 1:21:11
Title : 国連演説

米仏の大統領による国連総会での演説について、世界中のメディアが取り上げているわけだが、各国の報道の温度差が興味深いかもしれない。フランスはシラクとブッシュの断絶を強調するかと思えば、ドイツは「両者とも歩み寄りを見せている」みたいなスタンスだ。自国の立場が微妙に反映しているのかしら……。むしろイタリアのTV局RAIの報道が端的にまとまっている感じだった。同局は、まずアナン事務総長の演説が「予防的戦争への批判だった」と取り上げ、ついでブッシュの演説が「一国主義」、シラクの演説が「多元主義」を基本的スタンスとしていたとして、国連がどちらかといえばアメリカを包囲する構図になっていることを示唆している。うーん、フランスはここで国連をリードして威信を回復したい感じなのだろうが、その肝心の国連もガタガタ(?)。アナン事務総長は改革の必要を説くが、具体的な形は見えてこず、といったところか。

Date: 2003 9 27
Time: 1:21:53
Title : サイードのスタンス

またしても巨星逝く……24日付けで報じられたエドワード・サイードの死。すでに新聞などで追悼記事が出ている。「Le Monde diplomatique」でも追悼特集のページが出来ている。読売新聞に追悼文を寄稿しているうち、池内恵氏の指摘が興味深い。サイードの足場だった「パレスチナ」との関係は実際は希薄で、アラブの官制メディアでの取り上げられ方は、欧米社会で評価された権威者、欧米批判の民族主義者というレッテルのもとにあったのだという。サイードの置かれた境遇は、パレスチナの現状について語るにはあまりにも欧米に近すぎ、パレスチナに遠かったのかもしれない。柄谷行人は、パレスチナをめぐる晩年のサイードの言説が、ひたすら涙ぐましい訴えにしかなっていないことを指摘しているが、あるいはそれは、サイードが自分の語りの場を痛いほど自覚していたからかもしれない。ノマドであること、ディアスポラに置かれるということは、当然様々な苦渋に満ちているだろう。日本の若手の研究者などが思っている(ようにみえる)ほど、格好よく、また軽いものではない、ということだ。

Date: 2003 10 2
Time: 1:22:54
Title : ヨシュアの木

テレ朝の「ニュースステーション」が模様替えしているでないの。半年限定なのだろうけれど、冒頭にいきなりU2が流れるんだもんなあ。懐かしくてアルバムを聴き直してしまったぜ(笑)。この「Where the streets have no name」が入っているアルバムは名盤『Joshua Tree(ヨシュアの木)』。ヨシュアの木というと、アメリカの砂漠地帯に原生する結構グロい形状の植物。そういえばなぜこれがそう呼ばれるのかは以前から気になっていたのだが、例しにYahooのHeritage Dictionaryで引くと、おそらく旧約聖書のヨシュア記8(アイ市の征服)の18がもとだろうということ(神の命令で、ヨシュアが槍をもった腕をアイの方向に伸ばすと、都市は一気に攻略されてしまう、という箇所)。この植物の形状がそのヨシュアの姿を思わせる、というのがこの辞書での解釈だが……うーん、どうなんだろうねえ。ヨシュアはヘブライ語では「ヤーウェ万歳」みたいな意味なのだそうで、長男の名としてよく使われたともいう。いずれにしてもこの「ヨシュアの木」、学名はYucca brevifolia(短葉のユッカ)というのだそうな。

Date: 2003 10 4
Time: 1:23:53
Title : Tournevis

最近読んだ本で面白かったのがヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し』(春日井晶子訳、早川書房)。21世紀を前に、新聞社から「この千年で最も素晴らしい発明について記事を書いてくれ」と言われた学者が、悩んだあげくに「ねじ(vis)「ねじ回し(tournevis)」に狙いを付け、それについて調べていく過程を綴ったもの。これがなかなか味わい深い。著者は1772年にパリで出た美術工芸事典やら『百科全書』やらに当たっていく。それとの関連で著者が見つけるのがtire-fond(木ねじ)。「象眼細工で木のかけらをはめ込むために使われたもの」だという。これがtire-bouchon(栓抜き:1718年初出)の原型になったとのこと。ワインは長い間木の栓が使われていたのだが、スペインとポルトガルで17世紀初頭にコルク樫の外皮が使われるようになったのだという。で、tournevis(ちなみに同書では「トゥルヌヴィ」となっているけど、正しくは「トゥルヌヴィス」。ネジの意味のvisは、最後のsを発音する)は1740年に学士院に認められたのだという。ちなみに、グラン・ロベールで引くと、visの語源はブドウのつるを意味するラテン語vitisで、螺旋階段の意味の古形vizは11世紀からあるようだ。tournevisは1676年の建築書に登場するらしい。

Date: 2003 10 6
Time: 1:24:45
Title : 落書き

今年はコクトーの没後40周年にあたるそうで、それとの関連でFrance2のニュースが取り上げていたのだけれど、南仏はニースにあるフランシーヌ・ヴェズヴェレール(コクトーの友人。娘のキャロル・ヴェズヴェレールがコクトーについての思い出を綴った書籍もある(『ムッシュー・コクトー』(花岡敬造訳、東京創元社)))の別荘は、滞在中(1950年)のコクトーによって、壁という壁に神話的モチーフが描かれたのだという。いわばコクトーの巨大な落書き帳になったわけだが、「むき出しの壁は落ち着かない」というのがその理由だったのだそうだ。うん、よそよそしい空間を完全に自分のものにしたい、というのはまさしく落書きの基本だ。とはいえ、これが公共圏に関わる時には、必ずしも肯定的な価値としては捕らえられない……そう感じたのは、雑誌『現代思想』10月号の特集「グラフィティ」に目を通したから。今や先進国共通の社会問題にもなっている若者の落書きは、ある意味で臭覚の代わりに視覚に訴えたマーキング行為だ。だからこそ、造形的スタイルを誇示するのは必然になるし、また、それが内向きである場合は便所の落書きになる。けれど、あくまでそれは奪取というか略奪的な行為なのであって、公共圏を開くような組織的戦略にはならない。で、今必要なのはむしろそういう祖師的戦略だという気がする……。
余談ながら、この特集は副題に「マルチチュードの表現」と銘打っている。ネグリ&ハートの『帝国』が出て以来、特にこの「マルチチュード」がキーワード化しているけれど、ちょっとこれは疑問。辞書を引けばわかる通り、これって群集・大衆の意味でしかなく、実際『帝国』のドイツ語版では普通に「Menge」が訳語として当てられている。もちろん、同書の中では、非在の場と化した労働になおも奉仕するよう仕向けられる空洞化した主体の集まり、みたいな感じで語られているけれど、キーワードとして一人歩きさせるような語のようにも思えないんだけどなあ。キーワード化することによって、逆にそれが形骸化することに、むしろ警戒した方がよくないかしら?

Date: 2003 10 8
Time: 1:25:35
Title : パスワード?

"Mots de passe" de Jean Baudrillard ne sont-ils plus que des mots qui ne passent pas ?

東京日仏学院でビデオ作品『パスワード』を観る。ジャン・ボードリヤールが各種キーワードについてひたすら語るというもの。同名の書籍(『パスワード』、塚原史訳、NTT出版)はビデオ作品の後にまとめられたものだというが、書籍よりビデオの方がよっぽど内容がわかりやすい(笑)。それにしてもボードリヤール、いろいろ語るのだけれど、その語り口がどことなく、語る対象について自分が素人だという自覚を溢れさせているのが面白い。オブジェ(もの)についてなら記号論の素人として、価値についてならマルクス主義者の素人として、ヴァーチャルについてなら工学の素人として……という風。この「横断する素人性」は、一歩間違うととてつもなく滑稽な姿になってしまうのだが、ボードリヤールはまさにそのぎりぎりの境界線上で綱渡りをしている感じだ。どこか危うく軽い……それは両方の『パスワード』に観られるキーワード主義に反映されている。なぜ「キーワード」でなく「パスワード」なのか……それは鍵を開けず、ただ「通用」するものだから、とか? 上映後壇上に登場した本人は、ビデオの中の分身と同様に饒舌だったけれど、質疑応答から浮かび上がったのは、キーワードでもってすべてを語るスタンスが、今や必ずしも世界をうまく読み解けない可能性だったような気もする。うーん、このあたりの話はもうちょっとよく考えてみたい。

Date: 2003 10 12 j
Time: 1:26:04
Title : バグダッド

NHKで放映している「文明の道」シリーズ。今回はバグダッド。映し出された現在のバグダッドの姿が痛々しい。番組では当然ながら、アッバス朝(750-1280)のアラビア文化の中心地として繁栄した話が取り上げられていく。2代目カリフのマンスールが建設したという円形都市の話が中心だが、医術の話や、紙伝来の話(751年のタラス川の戦い)、それからなんといっても手形の発明などが紹介されていた。こうした文化との関連で興味深いのが、今年復刊されたジクリト・フンケ『アラビア文化の遺産』(高尾利数訳、みすず書房)だ。原著は1960年の刊行で、アッバス朝時代のアラビア文化がどれほどヨーロッパに影響を及ぼしているかを実に細かく論じている。時に、それまで見過ごされてきた影響関係を強調するあまり、「曲がった棒をまっすぐにしようとして逆に曲げてしまう」感じもないでもないが、例えばアラビア数字の普及過程や、高度な医学の伝来などについて触れた章はとりわけ興味深い。上の「文明の道」シリーズの次回放映は、シチリア王国のフリードリヒ二世を取り上げるようだが、本書はそのフリードリヒ二世の寛容政策についても一章が割かれている。シチリアの状況やロジェ二世(フリードリヒの祖父)以後の文化政策などは、重要な問題をいくつも孕んでいそうだ。

Date: 2003 10 16
Time: 1:27:02
Title : イスラム女性の問題

フランスでは思い出したように、イスラム教徒のスカーフ着用問題が再燃する。生徒が学校にスカーフをしてくるというのが多いが、パリ市のソーシャルワーカー(assistant social)など、スカーフのほか宗教上の理由から男性との握手すら拒んで問題化しているという。一方で、13日付けのLe Mondeの記事などによれば、そうした宗教的アイデンティティの誇示に反対するイスラム教徒もいるらしい。いずれにしても宗教的差別問題も絡んで、なかなか微妙なところだ。折しもシラク大統領は、ユネスコでの演説で文化の多様性を守ろうという演説を打っていたようだが……。

先に記したジクリト・フンケ『アラビア文化の遺産』によると、アッバス朝以前のアラビア女性は抑圧を受けてはいなかったのだという。それが神学者たちによって、ヴェールをかけることが宗教的に強制されるようになっていくのだそうだ。そこにはペルシアの影響(イランを中心とするゾロアスター教の二元論)が見られるのだという……。こうしてみると、先にノーベル平和賞がイランの女性弁護士(シリン・エバディ氏)に送られたことには、直接的な政治的意味以上の意味があるような気もする……。今後深いところで、何か変わっていくのだろうか(話に出たついでながら、前田耕作『宗祖ゾロアスター』(ちくま学芸文庫)は、ゾロアスター像の西欧での変遷や研究過程、さらにはゾロアスターをめぐる伝承などもまとめてあって興味深い)。

Date: 2003 10 21 �Ηj
Time: 1:28:01
Title : メディアとヴァチカン

在位25周年、さらにはマザーテレサの列福などもあって、このところローマ法王のメディア(と言っても欧州でだが)への露出が多くなっている。法王の動向を比較的よく追っているのは、やはりお膝元のイタリア。RAIなどはマザーテレサの列福の際に、コルカタから特派員に現地の祝いの様子を報告させたり。どこかシニカルな視点のFrance 2は、列福の条件となる奇跡として採択された、胃ガンが消えた女性の話をレポートし、プロパガンダだと批判する団体の様子なども映し出していた。科学万能の世にあっては、「奇跡」はますます肩身が狭いが、その一方で、非理性的なものへの吸引力が増している事態はどう説明づけられるのか、あらためて考えさせられる。うーん、あるいはそういう部分にメディアの介在が位置づけられるかもしれない、と。現法王のヨハネ=パウロ2世は、思えばテレビジャーナリズム的なものに取り巻かれた初の法王だ。ヴァチカンの政策も、一方で保守化を押し進めたと言われ、他方では他宗教への寛容などの点では革新的でもあった。このあたりの微妙なスタンスに、メディア的な政策が絡んでいる感じは濃厚。いずれにしても、現法王の在位期間の歴史的再検討には、メディア的なものが絡んでこざるをえないよね。

Date: 2003 10 26 j
Time: 1:28:31
Title : フロイトの遺言

最近は書籍の文庫化も結構早くなっている気がする。文庫化されたフロイト『モーセと一神教』(渡辺哲夫訳、ちくま学芸文庫)は、もともと98年の翻訳。モーセがエジプト人だった仮説を論じていく最初の部分はなんともいえない迫力でグイグイ読ませるが、歴史的展開と人間の成長とを対置する後半は、なんだかそうした勢いを失ってしまう感じだ。言い尽くされた批判だけれど、人間の成長サイクルは生物的に決定されているものだけど、歴史的過程にそんな成長サイクルがある(オイディプス・コンプレックスまである!)なんて到底思えない……(なんで紀元前14世紀ごろの人間社会を幼児扱いできるわけ?)。こうした成長=進歩史観がまだわずか60年ほど前(フロイトのこの論考は1939年刊)まで健在だったということも、ちゃんと掴んでおきたいポイントだ。うーん、それにしてもフロイトの仮説によると、モーセが説いた一神教(イクナートンゆずりだというが)がいったん引っ込んだ後、ユダヤ教として再浮上するのは、ちょうど幼時の精神的外傷が思春期に発現するのと同様だとしているけれど、このあたりの話は、普通に考えて、集団的な外傷というよりは、やはりなんらかの媒介作用が働いたためだろうと思う。それがどういう人々によってどのようになされたか、と考えていくと興味は尽きない。

Date: 2003 10 27
Time: 1:29:14
Title : ドグマ人類学

Anthropologie dogmatique : un coup de parole aux sciences positives et objectives ?

日仏会館(東京)で行われたピエール・ルジャンドルの講演会を聴く。ルジャンドルはもともと中世のローマ法などの専門家。で、それに精神分析を絡めたところが斬新だとされる。個人的には『権力の享受』("Jouir du pouvoir - traité de la bureaucratie patriote", Minuit, 1976)にざっと眼を通した程度だが、権力が「秘匿」(最初は聖書にまつわる言説、後には法律文書にまつわる言説の)をめぐって構成されるという構図(なるほど精神分析的だ)が、中世から近代まで継承されていくというような話が持論のようだ。その後の「ドグマ人類学」については、西谷修氏が『現代思想』誌に短期連載しているし、「日本ドグマ人類学協会」なんてのも出来ている。

今回の公演では、「話す人間のモンタージュ」と題して、人間は言葉を通じてしか世界と関わることができないという事実を多面的に解釈してみせた。世界との分断、フィクションとしての表象、制度化などの側面が取り上げられている。どうやら、そうしたフィクション化・制度化を、別のフィクション、別の制度にずらしていけないかというのが狙いどころのよう。ま、それ自体は別に珍しくない。重要なのは切り口だが……。「ドグマ人類学」は、数値化可能な実証的・客観的スタンス(「そこでは社会は観察される」)に対する、解釈の復権を唱えるオルタナティブ化(「そこでは社会は話しかける」とされる)と理解できそうだ。たとえばルジャンドルは、実証主義的なスタンスは19世紀に始まったのではなく、中世まで遡るのだと言っていたが、そのように綿々と受け継がれてきた体系は、いっそうの強化を経て、容易にずらしえないものにまでなっている。ずらしていくにはどうすればよいのか、という問いかけを発すると、やはりそれは制度化の根源に探らなければならない……と、ここまでは、まっとうな学知ならば必ず行き着く地点だ。だが問題はそこから先だ。そこで様々なアポリアに直面すると、なかなか明確な戦略が描けず、足踏みするしかなくなったりする。多くの学知が苦しんでいるのは、まさにそこなのだが、さてこの学は、なんからのブレークスルーをもたらしうるだろうか?

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