5.メディオローグ的日常
(書評の試み)
00年7月〜9月

『現代思想』7月号「特集:メディオロジー」
(青土社、2000)

フランス思想の一潮流としてのメディオロジーが、こうして取り上げられることそのものは喜ばしい限りだ。たが、メディオロジーは諸学の交流地点に描き出された一つの囲い地であり、現段階では、まだあくまでおぼろげな輪郭が描かれるにすぎない。それが確固たるものとして屹立するかどうかは、これからの問題なのであり、今一番求められるのは、その交流地点へと流れ込む諸学の潮流をきちんと押え整理していくことなのではないかと思われる。その意味ではこの特集はやや「早すぎる」という気がしなくもない。

したがって、この特集を読むに際しても、メディオロジーが何をもたらすかとか、その現状での成果といったものを求めるというよりも、むしろ隣接諸学からの反応の一端を捉え、メディオロジー的に考えるためのヒントを探す、という方がよいのではないだろうかと思う。例えば、メディオロジーの問題系の一つに言語が言語外の事象を導くことの(再)検討というものがある。古山宣洋「方法論としての言語相対論の意義」は、サピア=ウォーフの言語相対論が、通俗的理解とは別に、実は特定の言語の使用が、必ずしも言語的ではない思考や行為のパターンに影響するということを示していたのだと論じている。専門家が使用する語の外延性が非専門家への権威関係として成立する、との興味深い指摘もある。小山亙「記号言語理性批判序説」では、パースの記号論の再検討の射程を素描してみせる。パース記号論から、象徴体系、言及行為、社会的行為の相互作用による歴史的変遷というスタンスが導かれうることを指摘し、一方でパース記号論がそれ自身の歴史的拘束性すらをも示していると論じる。松本啓子「エスノグラフィックインタビューにおける指標的装置」もまた、社会学的調査でのディスコース分析が、言表内部にのみとどまるわけにはいかないことを指摘している。

このほか、同特集ではメディオロジーをめぐるための軸として技術論(スティグレール、ダゴニェ)、メディア論(マリーナ・グリジニッチ「東側世界の電子メディア」)などを配しているが、ドブレによると、メディオロジーは一つには「歴史人類学への貢献」として模索されているのであり、その組織論的な部分、あるいはSICとの関連も取り上げられてしかるべきだったろう。同特集からはそうした視点が窺えないが、これは大変残念なことであるとともに、また、今後なされてしかるべき課題を間接的に浮き彫りにしているとも言えるだろう。

中村雄二郎『共通感覚論』
(岩波現代文庫、2000)

もともとは79年に刊行された同書、文庫版となったことが喜ばしい。その問題系は今もって色褪せないどころか、状況的には一段と重要性が増しているようにさえ思える。一般に感覚をめぐる歴史としては、ヨーロッパ中世末ごろ、それまで優位に置かれていた聴覚に代り、視覚が優位に据えられ、それが近代の基礎を築いたとされている。だが、と著者は言う。その底流をなしているのは触覚なのではないか、と。視覚が触覚を導くのはあくまで事後的なことであり、視覚を教育するのは触覚なのだとされる。そして今や五感の組変えの必要性という文脈から、触覚の復権が求められてしかるべきではないか、と著者は言う。この場合の触覚は筋肉や運動の感覚をも含む「体性感覚」を意味し、リズム感こそがその前提をなす、とされる。

最近の『精神のフーガ』(小学館、2000)でも、著者は冒頭で「哲学とはリズムである」との思いを深めているというが、その意味するところは同書にうかかい知ることができる。良識(理性)によって常識(共通感覚)を否定したデカルトに対して、感覚の復権を目指したヴィーコやルソーの系譜を再評価する著者の問題系は、さらに想起的記憶の問題へ、時間感覚の問題へと広がっていくが、そこでも常に問題になるのは、共通感覚(統合された体性感覚)の「媒介性」であり、文化をつくる律動としての「リズム」なのだ。現代においてすら、五感の組変えとリズムの復権は大きな問題でありうる。そこに機械装置類が介在するからだ。機械装置が呈する画一化・均一化への抵抗・批判として、身体は再び浮上せざるをえないのではないか。

三浦雅士『考える身体』
(NTT出版、1999)

身体への回帰という問題に舞踏という具体的なものを通じて迫る評論集。当然ながら、上記の『共通感覚論』にも一脈通じるものがある。その基本的スタンスは、「現在を考える」とは「起源を論じる」ことにほかならない、なぜなら「起源は日々くり返されている」からだ、というものだ。人類学的な視座がその全体を貫き、アカデミックな場からの成果を取り入れて展開する評論は、単なる個別の評論にとどまらず、壮大な広がりを見せる。そのことは、一つにはメディアに向ける視線に如実に現れる。集落が出来て交換が生じたのではない、最初に交換があって、それが集落を生み、農業を生むのだ、とする著者は、ゆえに交換を司るメディアこそが都市を生んだのだと論じ、活字媒体から電波媒体への移行は、食糧生産からの人間の解放(古代ギリシアだ)ともパラレルな現象といえるのではないかという。したがってメディアは「人間という不気味な存在の仕組みを反映したもの」なのだと述べる。あるいはまた、装身具を論じた箇所では、それが自分が自分であることに納得するための儀式であると説く。模倣を通じて何にでもなれる人間にとって、自己とは一種の「憑依現象」なのだ、と。

批評の言説が人類学的に跳躍する様は実に痛快だ。そしてはらかずも、そこから「歴史人類学」の重要性がせり上がってくる。随所に散りばめられた考えるためのヒントを、われわれは誠実に受け止めなければならない、と切に思う。

ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』
(青土社、1999))

上の『現代思想』誌のメディオロジー特集でも、パース記号論の再検討は大きな問題として取り上げられているが、デンマークの生物学者であるこの著書の著者は、パースの革新性を、従来の二項関係に代る三項関係(解釈項の付与)として示したことにあると捉える。三項関係を敷衍することによって多次元的なネットワークが導かれるからだ。それは生物の細胞内部で生じるゲノムの「解釈」にも、あるいは生物学的な系統による遺伝子の修正過程にも持ち込むことができる、と著者は考える。

あるいは生物の体内での化学物質の交換についても、それを取り巻く環世界を第3項と見なすことができる。さらに生物が記号的に眺めた場合の環世界は記号圏として捉えることができる。こうして見ると、生物の進化は「記号論的自由の拡大」傾向ということができ、それは最終的に言語の獲得にまでいたることになる。当然、そうした記号論的自由の拡大のベースには「自己組織化するカオス」がある。三項関係のネットワーク化とは、ほかならぬ自己組織化するカオスの過程だというわけだ。このことが興味深いのは、ここに文化と自然とを同じマクロな論理でつなぐプロセスが素描できるからだ。安易な敷衍・拡大だろうか。だけれども、そのような巨視的な視点、流れの思考こそ、今最も必要とされているのではないかという気がする。細分化された諸領域をつなぎ直すには、こうした跳躍がどこかで必要になるのではないか、と思われるのだ。その一つの試みが同書なのだ。同書で展開されるのは生物学の側からの記号論の取り込みだが、それによって今度は記号論そのものの側にも、なんらかの深化がもたらされる可能性もあるだろう。新たな弁証法的過程が、すでに始まっているのだと信じたい。

竹田英尚『キリスト教のディスクール』
(ミネルヴァ書房、2000)

メディオロジー的な組織論の中で、キリスト教はその伝達効率の観点から重要な事象であるとされている。だが、その伝播(布教)の過程は必ずしも明確に認識されているとはいえない。そんな中、同書はとりわけ大航海時代とそれに続く植民地政策の史料を丹念に読み、これまで省みられなかった「キリスト教の布教」の実像に迫ろうとする特異的な一冊だといえる。著者は特に日本の精神主義的なキリスト教研究を批判し、歴史上の「キリスト教の物質的世俗的支配力を視野に入れる」べきだと述べる。布教活動の「非宗教的な実態」を捉えようというわけだ。大航海時代の探検とは、まずもって奴隷狩りであり、キリスト教の権威者たちは公式発表や制度によって、その大義名分を強化する。そこに見られるのは「隠蔽と偽装のメカニズム」だという。そしてその根底には、原住民を洗礼の有無で敵・味方に分けようという二分法が横たわっている。同時にそれは宗教そのものの再強化をも担う。このように、宗教権力は国家権力に完全に組していたことを、著者は多彩な実例を引用しながら論じている。

注目すべき議論は、後半に示される日本での状況だ。戦国時代末から江戸初期にかけてキリスト教が禁止されたことは周知の通りだが、その一方で時の為政者たちは貿易の継続を望んでいた。キリスト教側もまた、インド総督の使者といった隠れ蓑で宣教師を送り込み、密かに改宗者を増やしていたのだという。だが著者の視点は、宗教の伝播における普遍的構造にまで分け入っていくかのようだ。明治期の日本の海外拡張政策は、仏教の拡大(朝鮮半島への)を裏側に宿していた。日本のキリスト教もまた、国家体制(天皇制イデオロギー)に有益であることを示すべく日韓併合期まで海外への布教活動を進めていく。その後は戦争体制下にあっても国家に協力していたのだという。さほど指摘されているとは思えないこうした歴史の側面に光を当てただけでも、同書は評価に値すると思われる。

取り違えてはならないのだが、この著者はなにもキリスト教の信仰そのものを批判しているのではない。そうではなく、歴史が辿った経緯というものを、権威的な隠蔽から救い上げようとしているのだ。「ヨーロッパを理解するためにはキリスト教の理解が必要だ」と言われるにしても、著者も言うように、精神的理解にのみとどまらず、その物質的、権力的な背景の全体を視野に入れるのでなければ、本当に理解したことにはならないはずだ。従来の偏りをわずかでも是正しようというのが著者の立場であり、ここではからずも、メディオロジー的な議論の中へと踏み込んでいるのである。

Text: 2000年10月



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