メディオローグ的日常
(書評の試み)
01年01月〜03月

アーロン・グレーヴィチ『中世文化のカテゴリー』
(川端香男里、栗原成郎訳、岩波書店、1999)

「岩波モダンクラシックス」の一冊。邦訳の初版は92年。著者はロシアの中世史家だ。心性の再構築という問題系は共時的な分析/記述を必要とするが、本書では、それが鮮明に前面に押し出されている。中世のリアリズム、クロノトポス、法、富と労働、自己認識といったテーマが取り上げられ、古代末期から中世末期までのゆるやかなスパンの中で、人々がどのようなコスモスを生きていたのかが語られていく。包括的、全体的な視座だ。当然、中世という時代の長いスパンにおいて、個々の時代的・地理的差異をひとまず括弧でくくるというアプローチには批判も出てくるだろう。とはいえ、一つのアプローチとして、本書の議論は必須の通過点であるように思われる。それは個別の事象を検討する際の参照基準をなすからだ。後はそうした具体的検討の中で批判や仮説の修正がなされていけばよいことになる。例えばグレーヴィチ自身、そのアプローチの利点として「文化と社会体制の相関関係という問題を提起する可能性」を指摘しているが、その具体的検討から再度本書の中身が検証されていくことが期待される。そうした中で、あるいは媒介学(メディオロジー)的な技術体系と集団の問題が提示されうる場があるのではないか、とも思われる。

メアリー・カラザース『記憶術と書物』
(別宮貞徳監訳、工作舎、1997)

中世の文化は口承の文化であるという一種の通説に異を唱える、実に刺激的な一冊だ。著者はインド生まれで米国で活躍する研究者。基本線となる議論は次のようなもの。古代世界から中世にまで受け継がれた遺産には、記憶力の訓練があった。そして記憶とは「書き込む」行為であり、ゆえにそれは視覚的な行為である。よって中世における聴覚優位という仮説は一つの神話に過ぎない。そして記憶するには事物の組織化のスキーム(再生するための)が必要になる。それは起点と順序よい並びを設定することでもある。例えば「場所」のスキーム、あるいは番号グリッドのスキーム。かくして書物に用語索引などが登場するはるか以前から、そうしたスキームは記憶術として存在していた。また書物は、あくまで記憶のためにあるがゆえに、そうしたスキームを反映するようになっていく…。

カラザースのこの議論は、ある意味で「書くこと」(記憶に刻むという意味での)の根源性(デリダ的な)に実証的アプローチから到達していることにもなる。中世の「文盲」というのが単にラテン語が流暢でないことを指す可能性の指摘など、こうした議論はメディオロジー的な視点にも影響を与えずにはいないだろう。記憶とそれに利用される物質的素材(書物そのもののほか、記憶の中の「場所(建築)」スキームなども含めて)との関連は、大いに検討し直すに値するのではないだろうか。黙読と音読の、読む上での目的の違い」なども含めて、「読む」行為の検討は近年特に再考に迫られている気がする。余談になるが、ロジェ・シャルティエ、グリエルモ・カヴァッロ編『読むことの歴史』(大修館書店、2000)などにも数多くの興味深い指摘があり(一例を挙げるなら、冊子本が古代末期には片手で持てる小ささだったものが、社会不安による文献の組織的保存の必要性によって大型化するといった点は、ドブレの「媒体の力学」(小型化の力学)めぐる議論に一石を投じることにもなるだろう)、読書行為や書物の形態・利用をめぐるこの分野は、これからも目が離せそうにない。

山田登世子『リゾート世紀末』
(筑摩書房、1998)

この書がなんともメディオロジー的なのは、19世紀後半の文学を、その背景にあるイメージの変化と、それを支えた社会的・物質的な変化から眺めているからだろう。リゾート地での療養というモチーフは、結核と憂鬱症に対する水治療という理念に、折りからの鉄道網の整備や、イギリスから持ち込まれた田園趣味などブルジョワジーの社交のコードとが入り混じって、初めて成立しうる。そしてさらに、そこには水が喚起する想像力が働いている。科学、技術、想像力、社会組織など、そうした様々な要素の網の目の上に、文学作品がしつらえられる。本書は、作品の外部に壮大なパノラマが開かれていることを改めて思い起こさせてくれる一冊だ。例えばスポーツ。治療の文脈において奨励されたスポーツ(自転車など)、「栄誉を重んじる」エリート意識に結びついて、クーベルタン男爵のオリンピックの理念、アマチュアリズムに結実する。そしてその栄誉のスタンスは、モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」シリーズをも生み出すことになる…。こうした作品の外部からのアプローチには、まだ数多くなされるべきことが残っているに違いない。

チャールズ・ウェブスター『パラケルススからニュートンへ』
(金子務監訳、平凡社、1999)

17世紀にデカルトに代表される機械論哲学が登場しても、だからといってただちにそれ以前の魔術的な視座が廃れるわけではない。ニュートンは科学研究と聖書研究の間に根本的な違いを認めてはいなかった…。これは今や明らかに常識になっている感もあるが、その両立、あるいは変遷という部分についてはまだ十分な理解がなされていない気もしなくはない。そうした部分に改めて光を当てようというのが本書の狙いだろう。かくして16世紀前半に活躍した医師・錬金術師パラケルススとその周辺をめぐり、その後も続いていく科学の宗教的価値というものを浮かび上がらせていく。例えばパラケルススは実験科学により自然に内在する力を制御しようとするが、そこには精霊魔術からの流れである「天界から生じる諸力をはたらかせること」が含まれる。だが、魔術が秘密結社に独占されたり、占星術が権力者のプロパガンダに利用されたりすることを批判するパラケルススは、共同事業による知識の拡大と社会の改良を目指したのだという。魔術は「民主化」されるべきだというわけだ。ここには組織者・媒介者・普及者としてのパラケルススの姿があるように思われる。本書はそうした歩みを具体的に追っているわけではないが、探求のための一つの示唆が示されているとは言えるだろう。科学そのものの浮上に、そうした普及・組織化の動きとそれを可能にした社会的変化があるのは確実だろう。したがって私たちは、そういう方向に目を向けていく必要があるだろう。

八木雄二『中世哲学への招待』
(平凡社新書、2000)

ドゥンス・スコトゥスを中心とした、スコラ哲学への入門書だ。スコトゥスは14世紀初頭の神学者。そしてその思想は、13世紀からの社会的変化と結びつく形で、一つの転換点をなしている。背景には、社会的な変化もあった。修道院から大学へと教育の場が転じ、そこでの討議形式が知識層の個性の拡大を導くのだ。また、それまでのプラトンの思想に代り、アリストテレスの思想が影響力を持ったことも挙げられている。かくして感覚表象が前面に出されてくることになる。スコトゥスは、トマス・アクィナスが質料起源とした「個別化」を「形相」起源へと転換し、知的理解が記憶(感覚表象)から生まれるとし(三位一体論の転回)、意志の力と理性的判断とを切り離してみせる。時間論においても、瞬間ごとの同一性(自己/対象物)が強調される。要するに「個」の視点が増大していくのだ。これらは流通経済の発展、大衆の政治参加の時代への呼応である、と著者はいう。まさしく後の近代へと道を開く第一歩だということだ。意志の問題に関連して、著者は西欧におけるボランティアという価値が、日本でいう奉仕とはだいぶ異なることを余談的に指摘しているが、こうして見ると、中世哲学の見直しが現代的な問題を照射することになることを、改めて思い知らされる気がする。

山内志朗『天使の記号学』
(岩波書店、2001)

上で感じた中世哲学からの現代的問題への照射を、いっそう際だたせてくれる一冊だ。刹那的な身体的刺激を求めたり、難解なテクストに沈潜したりといった行動には同根があり、それは日常的リアリティの消失と、グノーシス的な天使へのあこがれだ、と著者は言う。これは中世の話なのだが、そのまま現代とも重なり合う。著者はそこで、そうした中世の動向の中に、そこに収まり切らない思考法を探ろうとする。つまり経験の中にリアリティを見ようとする中世の実在論だ。そしてここでもまた前面に出てくるのが、ドゥンス・スコトゥスなのだ。

軸をなす議論はコミュニカビリティ、つまりコミュニケーションの成立する可能性だ。コミュニケーションにはまずもって言語が介在する。言語は、神に向けた集団的祈りの場合でさえ、祈る人々相互の合図をなすという意味で常にパフォーマティブ(遂行的)である。言語はかくして外形をなす。内面の心情は外形としての言葉があってはじめて付き従うのだ。この意味でも、言語能力は一つのハビトゥス(習慣)として機能する。さらにコミュニケーションには身体も関係する。中世の知恵は、欲望の「己有化」、つまり対象との目的関連を失わずに欲望をこれまたハビトゥス(習慣)化することにある。身体そのものも、意識上でのイメージ(「形」)ではなく、無意識上の図式(「かたち」)としてハビトゥス化される。ハビトゥスとはコミュニカビリティを方向づけるものであり、コミュニカビリティは「集団としての人間の精神原理」としての精霊に重ねられる。ドゥンス・スコトゥスは、「神学」すらもハビトゥスであると論じるのだ。さらにスコトゥスは、有限存在と無限存在の共約不可能性を媒介する項として「存在」の中立無記性を立てる。二元性を超えてあらたな次元を見出そうとするために…。

近代化への長い道のりにおいて置き忘れられてきたというこうした視座を、現代的な文脈において探り出すことには大きな意味があるだろう。思うに、コミュニカビリティは個人から見た存在論的媒介作用にほかならない。媒介は経験の「前」や「後」ではなく「中」にある、と著者は述べる。だが視点の揺さぶりをいっそう高めるには、組織論的に見た媒介作用を探る必要もあるだろう。つまりそうした媒介が具体的に取り結ぶ諸相である。そこには当然ながら、書かれるべきものとして著者が指摘する、政治的文脈から見た神学論も含まれることだろう。中世は実に重要な検討対象なのである。

Text: 2001年4月



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