メディオローグ的日常
(書評の試み)
01年06月〜08月

清水哲郎『パウロの言語哲学』
(岩波書店、2001)

キリスト教徒か否かにかかわらず、聖書の読みは、それがある種の権威的テクストであるとされた時点で固着化する。だけれども本当に面白いのは、それを多元的な読みに向かって解放することだという気がする。最近ポール・リクールの論文集が『聖書解釈学』(Paul Ricoeur, "L'hermeneutique biblique", Les Editions du Cerf, 2001)のタイトルで出版されたが、清水哲郎の本書もまたそうした動きに繋がるものだ。ギリシア語テクストの再検討から、一般に対格(目的格)と解釈されているロマ書の一節「キリストの信」を、著者は属格に解釈し直す。わずかそれだけのところから、パウロの原思想について壮大なパノラマが浮かび上がるのだ。パウロの心性の中では、俗に言われるような改宗は存在せず、キリストの中に真のユダヤ教徒のあり方を見出したのではないか、という仮説すら導かれる。実にスリリングな論考である。ただ、議論の展開において多少居心地が悪くなくもない。それは、一つの用例を検証する際に、それを裏付ける用例が同じ聖書というテクストに探られるという循環構造のせいかもしれない。あるいは、テクストには書く人というよりも語る人としてのパウロが反映されているとしながらも、実際の分析過程では書かれたものに固有とされる論理的整合性にひたすら着目するという危うさのせいかもしれない。もちろん、古いテクストの解釈には様々な制約(他のテクストが使えないなどの)があるのは承知しているが、それでもなお、そこには論理的整合性をも相対化するような説話論的神学(リクール)の視座を持ち込むことができないだろうかとも思う。さらに言えば、それをテクストの外へと開く可能性も探ることができるだろう。そうした意味でも刺激的な一冊だ。

エドゥアール・グリッサン『<関係>の詩学』
(菅啓次郎訳、インスクリプト、2000)

なにがしかの集団が自己認識の過程でおのれの根幹に立ち返り、それを正当化したりすることは、一種の囲い込みを助長し、時にその根っこに対する狂信を産む。それに対立するものとして、流浪の思考があるとグリッサンは考えている。絶えず流動する思考は、全体主義的でない全体的な想像力を育むというわけだ。絶えず接触と出会いを繰り返す、矛盾すらもあるがままに並存させてしまうネットワークとしての関係性。それはリゾームの理想なのか。そうではない、とグリッサンは考えている。クレオール語の地域においては、それは今まさに「関係としてのアイデンティティ」として実践されているというのである。だが、果して本当にそうなのだろうか? 集団の自己認識の黎明期には確かにそうしたゆるい関係のネットワークがあるように思われる。だが、ひとたびその結合関係が強化(なんらかの外的要因などで)されると、途端にそれはグリッサンの批判する「根のアイデンティティ」へと落ち込む危険性があるのではないか。もしそうではないとするなら、そうした落ち込みを防いでいるもの、防ぎうるものは何なのか。クレオール語圏について重要なのはそこで、それこそが分析されてしかるべきなのだが、まだこれからの課題に留まっているようにも見える。理想としての関係性と、その現実態(実装系)との注意深い観察とを混同してはならないように思えるのだが…。

スラヴォイ・ジジェク『脆弱なる絶対』
(中山徹訳、青土社、2001)

ありきたりな言い方だが、ジジェクの著書は評するのが難しい。確かに、その分析が興味深いのは、従来の思考が行きついた点をさらに根源的に乗り越えようとする点にある。かくして本書でも様々な問題がパノラマのごとく示される。バルカン問題ではヨーロッパそれ自体にとっての「他者」のずれ具合が問われるし、多文化主義についてはそこに現れる「反省された人種差別」が取り上げられる。共産主義のユートピア性はそれが十分にラディカルでなかったからと手厳しい。市場経済自体も文化化しているという。逸脱的な過剰性は衝撃力を失い、制度化された芸術市場にまるごと取り込まれる。だから聖なる場所の「生起」をこそ確かめなくてはならない、とされる…。

こうした各論めいたものから浮かび上がるのは、制度的なものに対する超出の道は、その制度的なものをとことん突き詰めていって、それが別のものへと反転するにいたらしめる以外にないという基本スタンスだろうか。究極の内破である。例えばキリスト教の隣人愛は、人権という概念とともに、ユダヤ教の十戒を超出する同じ身振りの二つの側面だという。ユダヤ教は起源の暴力(法を敷くという暴力)を象徴化しないのに対し、キリスト教はトラウマをさらけ出し折り合いをつける「振り」をする。だがそこには、贖罪にすら抗するある次元が内在されている。すなわち、人間の「善性」すらをもゆるやかに不要にしていくことだ。ナルシシズムに退行せず、同時に法の外部に留まることを可能にする視座、それが「他者への愛」なのだという(一般にナルシシズムと法との直接的な結び付きに、原理主義的なスタンスの要がある)。確かに、制度に対する反・制度は、それが制度に縛られているという意味において制度の側にある。逆に制度に取り込まれた部分を、取り込まれきれない残滓から憎むことが肝要なのだということをジジェクは述べる。なるほど見取図としては有効そうに見える。だが、ここで個的な内面の問題に引き込むことによって、個人が内面に抱え込んでいる多層的な制度性というものが逆に見えなくなってくる気がしなくもない。法の暴力を超えるとされる隣人愛は、実はきわめて制度的な配慮に裏打ちされていないだろうか。あるいはそれが別の制度の萌芽にならないだろうか。また同じことが繰り返されてはいかないのだろうか。そうしてみると、これもまたスパイラルを一段ずらしただけのようにも見えてくる…。

無意識についてジジェクは、それが意識の対立物ではなく、意識自体を生み出した身振りだと述べる。今や欲望とロゴスとの差異の成立こそが問題で、それを成立させた動きそのものは不可視の領域に沈み込むのだという。われわれにとっての事物の現れ方を決定する図式こそ、究極の忘却に投げ込まれるのだとジジェクはいうが、それを推し量るには、その忘却の上に立った「語り」に依拠する以外にない以上、その語りの制度性を検証しつつ不可視の領域を囲っていくほかないのではないかとも思える。ゆえに、一見なんだか強引で、時に議論の流れにおいて唐突な印象すら抱かせるジジェクの映画の分析は、制度性の問題という面からあらためて考え直す必要があるかもしれない。

カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』
(上村忠男訳、みすず書房、2001)

周知のように、歴史を実証的なものとみるかレトリックとみるかという問題は古くからある。ギンズブルグはそこで、アリストテレスに一端戻り、レトリックと歴史と立証とが相互に絡み合っていることを鮮明に示してみせる。同じそうした絡み合いは、その後の例えば「コンスタンティヌスの寄進」の信憑性をめぐる主張や、あるいはイエズス会士たちの植民地からの報告にも綿々と受け継がれて行く。近代において一度は実証とレトリックとが切り離されるが、さらに近代批判の文脈からはそうした分離の再検討もなされている。実際にこれは日本の教科書問題などにも関係していくアクチャルな問題系だ。ギンズブルグが提唱するのは、「経験的データとナラティブの束縛との間で取り交わされている相互作用を探査する」ということ。ナラトロジー的視点の細やかな導入だ。そうした対話的次元の導入からどういう言説を練り上げていくのか。まさにそれが問われている。

瀬戸一夫『時間の政治史』
(岩波書店、2001)

以前取り上げた『天使の記号学』で山内志朗が、「書かれるべき書物」として、政治との関連での神学テクストの読み直しを提唱していた。その一端がここにある。本書では、11世紀のヨーロッパにおける政治状況との絡みで、当時の神学上の論争が細かく描かれていくのだ。特に重要なのが時制をめぐる議論に見られる意識の変化だ。当時のフランスはフランスの王権がまだ権力を集積しておらず、世俗の諸公が閥族支配の形で司教座に君臨していた。そこで教皇レオ9世はフランス王の頭越しに教会会議を開く。これは改革を波及させるためなのだが、フランスの王権はそれに反発する。これを反映する形で、トゥールのベレンガリウスは、象徴・比喩としての聖体論を展開するのだが、その基礎にあるのは、時制を超えた偏在としてのキリストと、それに対し過ぎ行く時間軸に立脚した世俗世界という二元論だった…。モンテ・カッシーノ修道院のペトルス=ダミアニは、教皇と対立教皇が並立するシスマの情勢にあって、秘蹟の恩寵の有効性が問題になると、事効論を唱える。これは聖職位階制を無効としてしまうような危険なものなのだが、これを、「神は教皇を並存させた過去を覆すことができる」というアクロバティックな論法で支える。これは、「一寸前は闇」という過去の不確実性を示し、先へ先へと駆り立てる衝迫の時間意識だと著者はいう。そしてもう一人、ベレンガリウスと論争したランフランクスになると、論駁のために救済をも手段とする立場を打ち出す。その背景には、秘蹟にあっては時間の区別は消失するという立場だ。さて、当時のグレゴリウスの改革もまた、そもそもそうした救済を手段とするという倒錯が見られると著者は述べる。現世が記号でしかないならば、現世の時間というものを未来に向けて収奪してよいということになるのだ。ここに、神学的な議論の中身と、世俗への支配に向けた政治的スタンスとの照合関係が実に見事に明かされるのだ。こうした読みはさらに拡充されていってしかるべきだろう。あるいは逆に、神学というものがこうした時間意識や政治的力学を折り込んでいる様を(著者は例えばベレンガリウスの議論が政治的に利用される中で理論的に深まっていったことを示唆している)、例えば説話論的に、俎上に乗せても面白いだろう。いずれにしても、「過去の歴史に対して『相互対話的な理解』を試みる」という著者のスタンスは、「特定の歴史を題材とした『現代の自己確認』」として、今後ますます重要になっていくものと思われる。

Text: 2001年9月



Topへ

*Copyright (C) 2001 Masaki Shimazaki

*メールでのご意見等はMasaki Shimazakiまで