5.メディオローグ的日常
(書誌)
97年10月〜12月

NHK人間大学:山口昌男「『知』の自由人たち」
(日本放送出版協会、1997)

97年10月から12月期にNHKで放送された、人類学者山口昌男による講義は、明治維新後の近代を考える上で非常に興味深いものだった。特にここで問題として取り上げられたのは同氏の言う「幕臣ネットワーク」の有り様だ。特に後半で大きく取り上げられる「集古」である。これは1896(明治29年)に結成された趣味人の集まりで、機関誌を中心に江戸文化を考え、楽しむという会だった。参加メンバーには当時の各界の識者、有力者も多数見られる。
同テキストにおいて同氏は次のように述べる。「薩長閥政府の進めた中央集権化においては、小数の集団が情報を独占的に集め、それを「役に立つ、立たぬ」の二元的価値観を基に階層化しようとした。(…中略…)一方「集古」の人々は、それとは別の知識・情報を、自らの手で生み出し、育て、分かち合おうとした」(同テキスト、p.156)。これは、「オタク」として括られるような昨今のサブカルチャー集団を考える上で、とても示唆的な視点だ。「オタク」に多分に見られる批判性、批評性の欠如は、対峙すべき「中央」の輪郭の曖昧さに密接に関係しているようにも思われるからだ。あるいは、よりメディオロジー的に見て、これは集団の中心的媒体が、かたや雑誌(集古)、かたや視覚メディア(オタク的集団)であることに関係しているとも言えるかもしれない。視覚メディアの中では、境界/排除をもたらすのは批判性ではなく、単に「知っているか、知らないか」という量的な指標でしかないように思われる。そしてこの「知っているか、知らないか」は、逆に明治政府の「役に立つ、立たぬ」という二元的価値と、どこか通底しているとも言えるかもしれないのだ。

石井研堂「明治事物起源」
(ちくま学芸文庫、1997)

ちくま学芸文庫版「明治事物起源」(全8巻)は、とりわけそれが文庫で刊行されたということに大きな意義があると思われる。山口昌男氏は上で挙げたNHK人間大学「知の自由人たち」において、研堂は「将来の読者の解読を待っている」のだと述べた(同テキスト、p.180)。そしてその解読の可能性は今、手軽な文庫という形で、専門の歴史家にとどまらない多くの読者に開かれたのだと言える。
幕末から明治にかけて西欧の近代的技術や制度が取り込まれていく過程は、歴史の専門家ならずとも大いに興味をそそる事象だ。私たちが今日常的に接している多くの事象が、近代日本の幕開けにその根を持っていることは明らかだろう。私たちは今現在の問題を考える時、どうしても過去へ、特に日本の近代史の出発点へと回帰しないわけにはいかないはずだ。そういった基本的な姿勢を抜きにしては、安直な空論へと至ってしまう可能性が大きい。「明治事物起源」は、そのための一つの指標として有益なのではないかと思われる。
例えば新聞関連の項目を拾い読みをしてみよう。西欧式活版印刷の項目によれば、「日本のグーテンベルク」と言われる本木昌造(長崎)が蘭書植字版一式を購入したのが1847(嘉永1)年。だが本木昌造が鉛版の活字を完成するのは1869(明治2)年になってからだ。大鳥圭介(江戸)訳の『築城典型』が活版印刷を用いて製本されるのが1860(万延1)年で、1862(文久2)年には洋書調所が英和対訳袖珍辞書(訳文は木版)を出しているが、やはり本木昌造の鉛版の完成を待たなくてはならない6巻pp.50-54)。本木昌造の鉛版を用いて横浜毎日新聞が発刊したのはわずか1年後(1870(明治3)年)である。維新前後には「軍事建白書の類のみのもの」(4巻p.474)だった新聞が発展期を迎えるのは、排藩置県が実施された1871(明治4)年からで、これは全国郵便法の実施によるところが大きいと研堂は言う。1873(明治6)年には「官府の保護奨励の厚かりしと、鉛製活字の供給の潤沢となりたるに(4巻p.404)」より、大いなる隆盛を極める。だが、条例による国家の保護奨励はその度合を強め、1876(明治9)年には発行停止禁止などの条項が含まれ、1880(明治13)年には「始めて風俗壊乱紙に停止禁止罰を加えたり」(4巻p.416)とある。このあたりのいきさつは、もっと深めていけば面白いかもしれない。

三浦信孝編「多言語主義とは何か」
(藤原書店、1997)

言語のダイナミズムを擁護しようという、17名の著者の論文から成る労作である。基底にあるのは、一つの言語のみで織りなされる文化というものが硬直であり、それを多言語の擁護によって乗り越えようとする視点だ。日本のような、ともすれば一言語、一民族というフィクションに陥りがちな国において、同書の投げかける問題は大きいと言える。
それぞれの著者の様々な視点がそのまま文化的多様性を映し出しているかのようで興味深いが、特に中心的に扱われるのがクレオール性という問題だ。姜尚中氏の解説によれば、「『共通言語を持たない人々の間に起こる、ある限られたコミュニケーションの必要を満たすために生まれる周辺的な言語』」(p.141)がピジンで、クレオールとは「人間の経験のあらゆる領域を表現するためにピジンよりも語彙を拡大し、より複雑な統語体系をもつようになった言語」(p.141)だ。編簒にあたった三浦氏は、ドゥルーズ-ガタリを引いて、「自分の言語そのものを外国語と見る文学的感性」を説いているが、それは国語の持つ一見規範性に見える部分をクレオール的に揺さぶるという問題につながっていくだろう。さらに、翻って日本における国語の成立というのも面白い問題だ。ここだけでも同書は、刺激的な示唆に満ちていると言える。
さらに問題領域を広げると、言語と同様に文化を生み出すものとしての技術の世界でも、ピジン/クレオール的な現象が見られるかもしれない。よく「日本は技術を発案することよりも改良することに長けている」などと言われてきたが、これはある意味で、受容した技術へのピジン/クレオール的揺さぶりと取れないこともない。明治の西欧技術導入から現代のコンピュータビジネスに至るまで、そうしたダイナミズムを解き明かしていくことも、これからの課題だと思われる。

「月刊言語」98年1月号 - 特集「東京語」論
(大修館書店)

上でも触れた国語の成立に至る段階として、東京の言葉が標準語として認定されるのはどのような過程を経てのことだったのかが気になるところだが、1月号の「月刊言語」には、そのあたりの論考が収録されていて興味深い。まず真田信治氏によれば、生活の場での江戸訛と教養層(武士)の「口上コードに由来するもの」(p.45)としての本江戸の対立を示し、この後者を「文字言語を基盤にした音声言語の形式」(p.45)と捉える。地方武士もそれを習得できたというわけだ。イ・ヨンスク氏は「明治になって『東京語』を広めるのに力があったのは、明治になって発達したジャーナリズムと後には言文一致小説であった」(p.29)とし、森鴎外の小説『青年』から、小説で東京語を覚えた主人公を挙げている。このように、書かれたものが先行し、そうした文字媒体を通じて音声言語が生まれてくるというのが東京語の有り様だった。一方、戦後の標準語化を強く支えたのは言うまでもなくテレビである。佐藤和之氏は「テレビは、東京の豊かさを地方社会に次々に送り出した」(p.38)と述べる。いずにしても媒体が先行して言語に影響するという構図が見える。
ではラジオはどうだったのか。杉本つとむ氏は、大正13年(1924)の東京放送局の設立と昭和8年(1933)の放送用語調査を挙げ、「音波の全国ネットを通してこの作為の日本語を流す」(p.56)と言うだけに留まっている。この時期の微細な東京語の変化について、田中章夫氏は、山の手言葉と下町言葉が「震災とその後の大規模な区画整理によって、下町社会が大きな変貌を遂げた結果、次第に薄れていった」と述べるに留まり、ラジオとの関わりは触れていない。この問題も絡めて、媒体としてのラジオの問題はもっと検証する必要があるのではないか?そう言えばラジオは、ドイツや日本などで軍国主義が台頭する際のプロパガンダの手段ともなったのではなかったか…。

Text: 98年2月



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*Copyright (C) 1998 Masaki Shimazaki