5.メディオローグ的日常
(書誌)
97年10月〜12月

『ユリイカ』1998年5月号 - 特集"文字"
(青土社)

『ユリイカ』5月号は文字の特集を組んでいるが、一口に文字論と言っても、それがカバーする領域が多岐にわたることは当り前で、実際、掲載された順番に見ていっても、ウラルト語、西夏文字、中国女文字、イトバヤット語などなど、各論考がそのまま資料的価値をもって同誌を彩っている。そして雑誌の後半に至り、今度は昨今取り上げられている情報化時代のJIS漢字批判に対する批判が色濃く出てくるよう(金井美恵子、前田年昭)になる。その基本的トーンは、自助努力もなしにいたずらに行政を批判してみせる作家への批判という形だ。写植の現場においても、活字として存在しない字は自ら作るという。当り前と言えば当り前だが、ならば電子テキスト化に際しても、外字というような形で同じような努力はなされてしかるべきだろう。こうした指摘は、安易な報道に流されている昨今のワープロ漢字論議に突き付けた批判として、この特集の目玉にもなっている。また、それとの関連で、明朝体の成立史に触れている小宮山博史「タイプフェイス・デザイン」、さらに初期の活字の字数などに言及している府川充男「当今『漢字問題』卑見」などを読むに、本木昌造やウィリアム・ガンブルなどが関わった活字伝来の歴史は、再びきっちりと押えておく必要があると痛感した。

鹿島茂『パリ・世紀末パノラマ館』
(角川春樹事務所、1996)
小倉孝誠『19世紀フランス 夢と想像』
(人文書院、1995)

西欧の近代がもたらした新しい「光景」を見定める上で、貴重な二冊だ。鹿島茂の著書は、前半はフランスの世紀末の事例を項目別にまとめてあり、ちょっとした事典としての価値もある。個別事例の検討の出発点として、常に参照してしかるべきだろう。小倉孝誠の著書は、挿絵入り新聞「イリュストラシオン」を基に、19世紀の技術的躍進が、文学、そしてより広く心像にもたらした影響とをまとめた好著だ。鉄道、電気、下水、気球、病いなどの項目に沿って、19世紀パリの変貌を追っている。その通底音をなしているのはゾラの再評価だ。ゾラの作品はイデオロギーを越えている、と後書きで述べているほか、フーリエ的なユートピアを描いたという『労働』という作品を指摘するなど、随所でその時代との呼応に言及されている。ゾラを改めて読んでみるのも面白そうだ。

田中優子『江戸の想像力』
(ちくま学芸文庫、1992)
タイモン・スクリーチ『大江戸異人往来』
(丸善ブックス、1995)

日本が近代を向かえるのは明治になってからだが、近代がもたらしたものを正確に捉えるためには、それに先立つ状況について、どうしてもなんらかの知見を得ておく必要がある。幸い、80年代後半ごろから江戸についての研究が隆盛を見せ、様々な書籍が書かれている。今後もさらに拡大していきそうで、非常に頼もしい限りだ。田中優子の著作は、そうしたいわゆる「江戸学」の先駆的著書で、近世アジアを視点に採り入れるなど、きわめてスリリングな展開を見せる。特に平賀源内の本草学にも連なる俳諧のネットワーク(連)を、「ゆるい集団の理念」として示したり、その基となった中国の連詩、あるいは小説(語り)に見られる雑多さを指摘するなど、アジア的な「羅列する形式」の豊饒さを浮き上がらせている。これらが西洋近代の文化受容においてどのような変遷をたどるのか、といった研究に今後期待したいところだ。一方のスクリーチは、最近著作の翻訳が相次いでいるが、これはその初の邦訳である。異質なものとしての西洋人との出会いから自己認識を果たしていく近世の日本人のまなざしを、具体例を示しながら開示している。特に外科治療、解剖に関して、輸入された西欧的な実地研究が「ねつ造された神話」でしかなく、それが一個のレトリックであるという指摘は興味深い。西欧的な解剖図が抽象化された身体でしかないのに対し、山脇東洋などの絵には、むしろ経験としての物語性が見出されるのだという。均質な抽象空間としての把握ではないそうした物語性は、田中優子の指摘するアジア的な形式に明らかに呼応しているだろう。

Text: 98年7月



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*Copyright (C) 1998 Masaki Shimazaki