5.メディオローグ的日常
(書誌/書評)
99年1月〜3月

大澤真幸『戦後の思想空間』
(ちくま新書、1998)

戦後が表題の一部になっているが、そこに見られるのは、より長大なスパンで思想・政治・経済を捉えようとする眼だ。柄谷行人の「60年周期説」をベースに、現代が「戦前」であると述べる際、そこで提出されているのは歴史の政治的ダイナミクスにほかならない。それは弛緩と緊張の繰り返しでもあろうし、組織としての国家の収縮と離散との力学でもあるだろう。そうした力学的な視点を保つなら、例えば「ウルトラマン」に日本とアメリカとの関係の変質を読みとることも可能になり、また大正期から第二次大戦に至るまでの思想史を資本主義のダイナミズムの反射として読みとることも可能になる。

特殊なものを包接する普遍性が、さらに上位のメタレベルの普遍性によって常に別の特殊性へと陥ってしまうという、資本の動きとパラレルな動きは、例えば西欧の普遍主義をも一つの特殊性へと至らしめ、その普遍の否定から他の特殊性の台頭、つまり民族的ナショナリズムを高揚させていく。こうした否定自体の優越性という力学は、現代にも、そして戦前にも同じように見られた動きだと著者は言う。否定的超越は現代のセクト(オウムのような)にまで至る組織の力学なのだ。これはメディオロジーにも通じる視点だ。そしてまた、ハイデガーによる精神が、地域に固有の精神であると同時に世界内存在として普遍的な精神でもあるという二重性からは、自己が自己のもとに簡単には留まれず、自己外存在と化していく運動が示される。「同一性から逃れる差異性」は、取り込むことのできない圧倒的な他者を現前させてしまう。こうして、相対化->自己の意志の放棄->他者への「帰属」という流れができる。著者は、では「いかにして他者への執着から逃れることが可能か」「自由はいかにして可能か」との問いを掲げる。これは困難な問いだ。自由主義の果てには環境問題というツケがあった。他人の自由を侵さないという範囲を拡大していけば、それはやがて「空になる」。自由主義は、他者こそが自由を可能にする条件だという不可避の困難を抱えているというわけだ。ではわれわれはどうすればよいのか。その答えを探る道筋のヒントは、あるいは次に挙げる『存在論的、郵便的』にあるかもしれない。

東浩紀『存在論的、郵便的』
(新潮社、1998)

ある意味でこれは罪な本である。デリダ論としての同書の評価は専門家にまかせるにしても、その切口と整理の仕方ゆえに、逆に多くの読者をデリダから、デリダのテキストそのものから遠ざけてしまうことにはなるのではないだろうか。浅田彰『構造と力』もそうだったが、媒介者としての著者が当のメッセージに介入することによって、別の効果、影響がもたらされる。読者は元のメッセージを直接知らないままに、なにか「理解したような」身振りを身にまとうのだ。かつての「ニューアカ」のブームというのは、このメディオロジー的な普遍的力学に則ったものだったのではないか。今回はそうはならないことを祈ろう。われわれは前回の教訓を胸に、同書からこぼれ落ちるデリダの別の豊かさを、拾う努力をしなければならないのではないか。同書はその末尾に、やや確信犯的に、みずからの読み方の問題を吐露しているが、デリダへのアプローチは開かれたものであるべきだろうし、その意味で『現代思想』誌3月号(特集「デリダ」)のような多角的な視点が尊重されるべきだろう。

以上を別にしても、同書には評価すべき点も多いだろう。その一つは、著者が否定神学と呼ぶ否定自体の優越性から逃れるための戦略を示唆していることだ。伝達過程の中にある「誤配可能性」に着目したデリダの言う「呼びかけ」は、超越論的なシニフィエとシニフィアンとをともに脱臼させる戦略だと筆者はいう。メタレベルとオブジェクトレベルの分離、そしてメタレベルそのものがオブジェクト化されるというクラインの壷型の運動を、その図式の複数化、すなわち情報処理経路の複数化によって切り崩そうというわけだ。いわば一つ上位の次元にシフトしようというこの戦略では、そこでフロイトへの回帰が持ち出されてくる。つまりメタとオブジェクトとのレベル分けが設定できない無意識の回帰だ。そこで新たに示される無意識はコミュニケーショナルな無意識(これはダニエル・ブーニューなどにも通じる概念だ)であり、転移のモデル化だ。「エスの複製と再応用」(他者を媒介して心的なものが出現する)というその戦略は、おそらくは信仰・信奉という現象の解剖という、メディオロジーが扱う重要な批判的視座をも巻き込みうるだろう。同書はその意味で、われわれにとってもスプリングボードとなりうるかもしれないのだ。

金森修『フランス科学認識論の系譜』
(勁草書房、1994)

デリダやドゥルーズとは対象的に、エピステモロジーの系譜の日本における受容はいま一つの感がある。フーコーについては「思考集成」などの刊行も始まってはいるが、フーコーにおいて一つの到達点を見出したフランスの哲学的な系譜はあまり顧みられていない気がする。同書はそうした間隙を埋めるための第一歩となりうるだろう。取り上げられているのはカンギレム、ダゴニェ、フーコーだが、各所に興味深い指摘が数多くある。生物学に哲学的視座を投げかけたカンギレムは、技術と自然を対立させるのではなく「自然自体がもっている技術性の存在」に注目した。このことは今でこそ再考されるべきだろう。技術を自然と分離させない視座は、そのまま近代の批判へと結びついていくかもしれないからだ。カンギレムについては、さらに環境理論へのその批判的視座も忘れてはならないだろう。環境が決定づけるのではなく、環境との相互作用において、生命体のシステムはあくまで内発的に変化するのだ。著者はこれを踏まえ、ガイア仮説を批判する。無機、有機の境界を取り除けば、生物一般への共感、畏敬が破棄されてしまうからだ。これはまた、社会システムの検討に安易に生物学的な視座を持ち込むことへの批判にもなるだろう。環境理論への批判からはさらに、擬人主義の転回も導かれる。他の動物の表現を人間に擬するのではなく、その表現のより完成した形として人間を逆照射すべきだと著者はいう。例えば社会組織について検討する際に、われわれは安易に動物行動学から理論を汲み取ってくるわけにはいかないのだ。人間の社会組織が、そうしたものの延長にありつつも、多大な質的変化を経ていることを忘れてはならないだろう。

ダゴニェの出発点は医学であり、著者によれば「実証主義の近くにいながら概念的な飛躍をする」思想家だ。ダゴニェは、発疹チフスの原因を確定したのは地理学的、空間的アプローチだったと指摘する。空間、あるいは地理的な認識は、「収集、凝縮作用の作用子」になりうるのだ。では、とわれわれは問うだろう。その地理学的、空間的アプローチを導いたものは何か。それはきわめてメディオロジー的な問いとなるだろう。

H.マトゥーラ、F.バレーラ『知恵の樹』
(菅啓次郎訳、ちくま学芸文庫、1997)

87年の朝日出版社刊を文庫化したオートポイエーシスをめぐる生物学への入門書だ。上のカンギレムによる環境理論批判が示したとおり、環境は変化のきっかけとなりうるが変化の力学は生物の内部にある。したがって変化を理解するには、その内部の力学と環境との相互作用の両方を捉えなくてはならない。例えば淘汰という現象について見てみると、「生物の中の変化を決定するのは生物の構造」であり、環境はあくまで撹乱をもたらすに過ぎない。これは内的な視点だ。だが視点をずらし、環境と生物とを同時に視野に収めるならば、環境が生物を選択しているように見えるのだ。そして研究においてはこの二つの視点がともに必要となる。別の例では、神経システムを見る場合、神経システムを作動的閉域と見る視点と、環境との間での作用を見る視点とがなければ、本当にそれを理解することにはならないのだ。

細胞のレベルにせよ生物の個体のレベルにせよ、このように内部の力学と外部との相互作用を同時に視野におさめるのは重要なことだ。ならばサード・オーダーと著者らが呼ぶ社会についても同様だろう。もちろん内部の力学、あるいは外部に対する振るまいは、他の二つのオーダーと同列にはならない。有機体は構成要素の作動的安定性を特徴とするが、人間の社会システムの特徴はその作動的可遡性(しなやかさ)にある。だがそれでもなお、同じ視点(二つを同時に見るというアプローチ)によってのみ見えてくる事象はあるだろう。認識行為こそが対象物をもたらすのだ。かくして社会体においては、内部の力学としてコミュニケーション(ここでは社会的単体間の相互の調整行動と定義される)が重要な役割を果たし、外部との相互作用の点からは、個体的に獲得された行動の連続性としての文化行動(模倣による継承と定義される)が重要となる。われわれもまた、この二重の視点を保っていかなければならないだろう。

C.R.ポパー『フレームワークの神話』
(ポパー哲学研究会訳、未来社、1998)

ミシェル・セールが『ヘルメスIII - 翻訳』(Edition de minuit, 1974、邦訳は法政大学出版)で「A.コントは実証主義者ではない」と述べているが、実際、コント以後、その変遷過程において実証主義には何か偏狭なコノテーションが付与されるようになってしまった。そのためか、カール・R・ポパーの実証主義に対する批判、距離設定は、はからずもコントの思想的な流れを継承するもののようにも読めるのだ。もちろんそれはポパーが「コンティアン」であるという意味ではない。そうではなくて、そのスタンスが、今日的な文脈でコントの思想を捉え直す際のヒント、拠り所の一つになりうるかもしれないということだ。実際、理論は観察の中にすでに折り込まれているという経験論批判や、批判によって神話、誤りを正していく過程として設定されれば、歴史学は人類という統一体を取り戻すことができるという歴史認識など、コント思想に直接的に呼応している部分もある。その基本的なスタンスは、文化衝突、あるいは異質なもの同士の衝突が、批判的態度を喚起できる、しいては真理への道へと至らしめるという立場だ。現実にはそういう豊かな衝突はなかなか起きない。だがそれでもなお、批判的な楽観主義は有用なのだと著者は説いている。哲学による諸科学の批判は、これからも有効であり続けるだろう(あり続けなければならない)。

西谷修『戦争論』
(講談社学術文庫、1998)

今再び欧州が揺らいでいる。バルカン半島でまたも、今度はNATOによるユーゴスラビア空爆という事態が生じている。この事態をわれわれはどう受け止めていけばよいのか。問題はもちろん一筋縄ではいかないだろう。同書はもともと、冷戦の終結や湾岸戦争などを経た後の92年に出版されている。著者はまず現代の平和が戦争の力学そのもので維持されていることを読み解く。戦争は二つの世界大戦を経て、いわば「世界化」した。世界はへーゲル的な全体としての自己となったが、同時に「絶対知のネガ」として世界戦争が現れたというわけだ。全体的秩序の中では、武力衝突は反乱のようなものでしかなくなり、ゆえに湾岸戦争は「警察行動」として示された。だが全体化する自己は能動的な「存在」から受動的な「ある」に変貌してしまう。圧倒的な外部が立ち現れるからだ。それは西欧的原理の不可能性だと著者はいう。絶対知の外部は、「腐食性の裂け目として」外から回帰してくるのだ。だがそれは近代にまつわる、きわめて普遍的な構図のようにも思える。ならばわれわれは、その受動的な「ある」を受け入れるしかないのか。それを「脱臼」させる道はないのか。再び同じ問いにわれわれはぶつからざるを得ない。そしてこうした困難な問題に、今や是が非でも立ち向かわざるを得ない。

Text: 99年4月



Topへ

*Copyright (C) 1999 Masaki Shimazaki