5.メディオローグ的日常
(書誌/書評)
99年4月〜6月

丸山真男、加藤周一『翻訳と日本の近代』
(岩波新書、1998)

翻訳という営為がきわめてメディロジー的なものであることは疑いようがない。常識的に言ってもそれは伝達作用の一形態であり、さらには思想の伝播の上できわめて重要な契機をなしているはずだ。その意味で、翻訳の歴史を振り返ることはぜひとも必要な作業だと言える。丸山真男と加藤周一のこの対話は、そのための出発点としてすこぶる示唆に満ちている。荻生徂徠が漢文を翻訳として意識し原文主義をとったことを、福沢諭吉のスタンスに相似であると見る視点や、明治の自由民権運動などが、翻訳で読むことによってラディカルになったといった興味深い記述がある。荻生徂徠がどのように翻訳を意識するに至ったのかとか、翻訳で読むことがなぜラディカルになるのか、といった問題が、読者に投げかけられた課題のように突き付けられているのだ。ほかにも、単数複数の区別のないことの影響や、江戸から受け継がれた「誌の中心としての歴史」がどのように消えていくのかといった問題、訳語の受容の問題など、汲み上げるべき「翻訳」の底流の断片が、ここには数多く見出されるのだ。

酒井直樹『日本思想という問題』
(岩波書店、1997)

翻訳はそれが仲介行為・中間的行為であるがゆえに、これまで具体的な思考の対象となる機会に乏しかった。だがそうした行為を認識の対象に浮上させることが今大いに求められているのではないだろうか。本書には、この思惟されない行為である翻訳が言語(自国語、他国語)を分節化すること、そして翻訳者という乗り継ぎをする(トランジットな)主体が主体論の新しい地平を切り開くことなどが素描される。これは様々な問題を投げかける。「翻訳者・通訳者の位置が無視される限り、語りかけは均質言語的な聞き手に向けられたまま」なのだが、むしろ今求められているのは「異言語的な聞き手への語りかけの構え」(異質性、伝達の失敗の認識からの出発」なのだ。例えば、従来の言語研究は「ラング」という体系的統一体を措定することから始められている(それは経験的な研究の結果ではない)。そうして仮構されたにすぎない「外国語」と、翻って見出される「日本語」とが、ひいては思想研究のまなざしすら規定してしまう事態(「文化本質主義と西洋のナルシシズムの転位、逆転位」)や、均質的行為者としての主体、ひいてはその帰結としての全体すなわち国民国家の成立といった問題系を、本質的に脱臼させること。これが本書の戦略であり、そのための概念装置として「(均質的でない)行為者として」の「シュタイ」が導入されている。それはすなわち翻訳の実践系であり、失敗可能な伝達と、語りかけとの落差を認識することにほかならない。その意味で翻訳は、その行為の復権を通じて、近代的な主体の構成要素として捉え直す必要があるだろう。それはまさにメディオロジー的な主題にほかならない。

姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ』
(岩波書店、1996)

本書の軸の一つは、フーコーが展開した権力のミクロ分析を、ウェーバーの規律の社会学やサイードの議論による補完の可能性を示すことにあると言えるだろうか。だが、そうしたミクロの分析と、例えばウォーラーステインなどのマクロな分析との接合点をどこに見出せばよいのかという点については、確かな言及を避けている。たとえきわめて難しい問題であるにせよ、その点が惜しいと言えば惜しいように思われる。一方、「日本の屈折したオリエンタリズム」の批判や、ウォーラーステインに即して、ゲゼルシャフトから新たなゲイマインシャフトへの移行を指摘、原理主義やナショナリズムの復活が新たに形成・創造されたものだという指摘は興味深い。差延を伴う反復が、一層強固なものを生む状況をどう捉えればよいのか。おそらくは反復を担う基底部分(技術、メディアなど)の分析を避けるわけにはいかないと思われるのだが、本書はそこまでは立ち入らない。これはわれわれの課題になるだろう。また、サイードの言う亡命状態、故郷喪失者としての立場によって、新たな分節化の可能性がもたらされると論及されているように、本質的な批判がもたらされるためには、内部と外部とに同時に立つような一見不可能な地点に立脚しなければならないことを、本書は改めて示唆している。

『現代思想』5月号「市民とは誰か」


(青土社、1999)

「市民社会」をめぐっていくつか興味深い論考が収録されている。中野敏男「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」は、現行のボランティア運動が国家システムに連関された「ひとつの動員のかたちでありうる」ことを指摘し、ボランティアのあり方に批判のまなざしを向ける。そして、多様化するように見えるアイデンティティが、実は強要されたものにすぎないという点において、その脱構築から始めなくてはならないと論じられる。かつてフーコーが指摘したような権力の浸透の問題系が改めて問われなくてはならないということだ。上の姜尚中のところでも触れたように、マクロ分析との接合点をも見出さなくてはならない。それは本特集の通底音をなしている。松葉祥一「『ポリスの論理』と『政治の論理』」は、「自己の統治から他者の統治へ」というフーコーの未完の「統治の論理」を越える可能性を、ランシエール(Jacques Ranciere)の「ポリス」と「政治的行為」の論に見る。酒井隆史「リベラリズム批判のために」では、相対化された国家は逆接的に力量を増しており、リベラリズムが新たな管理という技術を介して「遠隔統治への傾斜」を促していることの分析を素描してみせる。こうしてみると、「市民」やその統治をめぐる議論は、まだ始まったばかりなのだということに改めて気付かされる。

佐藤健二『読書空間の近代』
(弘文堂、1987)

同じ著者による『風景の生産・風景の解放』(本書はそれにかなり先んじているが)でも感じたことだが、柳田国男の再読というのは是非とも必要だ。個人的には、そのための助走として本書を活用できたらと思う。というのも、本書では柳田の方法論と問題系がもつアクチャルな価値を実に見事に浮かび上がらせているからだ。本書に従うならば、それは「日常的ディスクールにひそむもう一つの別の世界の解読」ということであり、フーコー的な視点からの読み換え(?)であると同時に、きわめてメディオロジー的な読み方でもある。なぜなら、柳田の方法は「『いま、ここ』の社会」を「有形、無形の『もの』との関係という自然史的な海路に開く」(本書)ものであるからだ。そして、カード記述や検索といった近代的な整理方法をもって柳田が探求するのは、書かれたものがはらむ「かつて演じた力の効果の追認」であり、同時にそこから権力という装置の強制をいかに回避するかという工夫なのだとされる。これはきわめて今日的な課題だ。

山田登世子『メディア都市パリ』
(ちくま学術文庫、1995)
宮下志郎『読書の首都パリ』
(みすず書房、1998)

19世紀のとりわけ後半、フランスで一般大衆の欲望渦巻く消費社会が浮上した…『メディア都市パリ』の見取図は、少なくとも現代人が文学を文学として認識する以前の、おそらくは何らかの形で存在した「かもしれない」きわめて混沌とした怪しげな世界の一端を描きだそうとするものだったはずだ。ところが著者は自著の本文外の部分(文庫版後書き)で、自著のフィクション性を晒してみせるのだ。剽窃新聞や怪しげな商人、ジャーナリスト、作家が織りなす世界、新聞記事の詳細な読み込みから浮かび上がる再構築された世界が、あくまで再構築されたものでしかないかもしれない、という誠実な認識があるからだろう。だが、仮にそうであっても、そのような仮構された世界像(またはそれに類似するもの)は、新聞記事の読者によって自己の内面に取り込まれたに違いない。それはおそらく様々な形で、当時の社会生活に反映されていくだろう。新聞記事、あるいは新聞連載小説はモデルと化し、人々の欲望はそれに従って流れていく。同書が描きだしているのは、むしろ現実とフィクションとの往還運動ということになるのではないだろうか。『読書の首都パリ』の著者もまた、バルザックやゾラやフローベールの小説世界に遊びつつ、読者が内面化した世界を探ろうとしている。これら二冊に円環構造を見ることもできるだろう。ならばそこにもう一つの円環がオーバーラップしてこなければならないかもしれない。つまりそれは下部構造としての技術史だ。

Text: 99年7月



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*Copyright (C) 1999 Masaki Shimazaki