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silva speculationis       思索の森

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no.3 2003/03/15

「ヨーロッパ中世」をテーマとするメルマガ、第3号をお届けします。

------クロスオーバー-------------------------------------

中世プロバーとはちょっと毛色の違ったテーマの書籍などを取り上げるコーナーです。現代的な問題への中世研究の応用・展開・接合などに目配せしようというのが趣旨です。

学問分野としてはまだ新しい「環境考古学」というのがあるようですね。石弘之、安田喜憲、湯浅赳男著、『環境と文明の世界史』は、小著ながら一般書として初めてそうしたパースペクティブを紹介した、実に刺激的な一冊です。鼎談という体裁ですが、オリエントの古代文明から産業革命以後まで、洋の東西を問わず、実に広大な領域が「環境」という視点で語られていきます。ヨーロッパ中世からルネサンスあたりを取り上げた箇所だけでも実に鋭い問題が掲げられています。

例えば修道院の「破壊行為」。技術の集積場所だった中世の修道院は、ゲルマンの森をどう破壊していったのか……。あるいは白人奴隷(!)の問題。ローマ帝国のアルプス越えの契機にもなった、奴隷という形での労働力(ゲルマン、スラブなど)と、それを仲介したユダヤ人というヨーロッパの「歴史の暗部」……。さらにはペストの問題。8世紀ごろにいったん収まったペスト禍は、なぜ14世紀に再燃するのか……。いずれも個別に検討したら大変面白そうなテーマばかりです。「環境」から見直すことで歴史に新たな光が当てられる……まさに今の時代だからこそ出るべくして出てきた視点でしょう。

当然ながら、気候、森林、水といった有機的なつながりには人間の技術も加わり、壮大な錯綜体ができ上がっているわけで、そうした視点を歴史に持ち込むというのはとても刺激的です。と同時に、それは歴史を探ることの「現代性」をも浮き彫りにします。著者らは、西洋と東洋を動物文明と植物文明の対比ととらえ、前者がもたらした欲望の一般化を批判します。長いスパンでものを見ることで、アジア的なものの可能性が拾い上げられるのですが、現行の政治などにはそういう視点がことごとく排除されていることを嘆いてもいます。本書の中でも言われていますが、経済発展著しいといわれる中国が、欧米的な肉食を中心とする生活様式を進めていけば、食料生産が追いつかなくなる可能性もあるといわれます。インドあたりの人口爆発もかなり懸念される事態だともいいます。そうしたグローバルな近未来的危機に、考古学(や歴史研究)は大きく貢献できるのだということを、改めて感じさせてくれます。

○石弘之ほか著『環境と文明の世界史』

(洋泉社新書、2001、ISBN : 4-89691-536-4)

------新刊情報--------------------------------------------

2月下旬の新刊情報です。「アベラールとエロイーズ」ものが二つ入っています。いずれも『アベラールとエロイーズ』の書簡集を題材にリライトを施した小説作品のようです。読み比べも一興かもしれません。それにしても、なにゆえ今エロイーズなのか……(笑)。

○ジャンヌ・ブーラン『エロイーズーー愛するたましいの記録』(福井美津子訳、岩波書店、ISBN:4-00-022264-3)

○アントワーヌ・オドゥアール『エロイーズとアベラール 三つの愛の物語』(長島良三訳、角川書店、ISBN:4-04-897205-7)

関連書籍として、次のものもあります。こちらは著名な歴史学者による一般書ですね。

○ジョルジュ・デュビー『十二世紀の女性たち』(新倉俊一、松村剛訳、白水社、ISBN:4-560-02845-1)

これらとは別に、ちょっと興味を引かれる書籍が出ていますね。

○森本芳樹『中世農民の世界ーー甦るプリュム修道院所領明細帳(世界歴史選書)』(岩波書店、ISBN:4-00-026842-2)

------文献講読シリーズ-----------------------------------

「コンスタンティヌスの寄進」その3

引き続き「寄進」から個別の事項を扱った部分を見ていきましょう。

4. Pre omnibus autem licentiam tribuimus ipsi sanctissimo Patri nostro Silvestro et successoribus eius ex nostro indicto, ut quem placatus proprio consilio clericare voluerit, et in religiosorum numero clericorum connumerare, nullus ex omnibus presumat superbe agere.

[4.ところで、至聖なるわれらが父シルウェストルスならびにその継承者に対しては、なによりもまず、われわれは告知により、次のことを認める。すなわち、望む人物を聖職者の諮問機関にもとづき聖職者に加えようとも、なんら不遜なる行為とは見なさない。]

5. Decrevimus itaque et hoc, ut ipse et successores eius diademate, videlicet corona, quam ex capite nostro illi concessimus, ex auro purissimo et gemmis pretiosis uti debeant, et in capite ad laudem Dei pro honore B. Petri gestare. Ipse vero beatissimus Papa, quia super coronam clericatus, quam gerit ad gloriam B. Petri, omnino ipsa ex auro non est passus uti corona, nos frigium candido nitore splendidum, resurrectionem dominicam designans, eius sacratissimo vertici manibus nostris imposuimus, et tenentes frenum equi ipsius pro reverentia B. Petri stratoris offitium illi exhibuimus, statuentes eodem frigio omnes eius successores singulariter uti in processionibus ad imitationem imperii nostri.

[5.よってわれわれは、次のように定めた。すなわち、その者ならびにその継承者は、頭飾り(diademata)ーーつまりは王冠で、それは我々の頭よりその者に与えたものであり、しかるべく純金と宝石をあしらったものであるーーを、神をたたえるべく、ペテロに敬意を表して身につける。みずから最上の誉れである教皇は、ペトロの栄光のためにその者が身につける聖職者の冠に、金でできたものを使わせなかったので、われわれは、純白の光沢に輝くフリギア飾りを、主の復活の図柄を表して、自分らの手をもって冠をその者の頭部に置き、またペテロの恭順から馬の手綱を取って馬丁の義務を果たし、われらが帝国に倣いその継承者だけがその飾りを行列において使用することと定めた。]

6. Unde ut pontificalis apex non vilescat, sed magis quam terreni imperii dignitas gloria et potentia decoretur, ecce tam palatium nostrum, ut predictum est, quam Romanam urbem, et omnes Italiae seu occidentalium regionum provincias, loca et civitates prefato beatissimo Pontifici nostro Silvestro universali Papae contradimus atque relinquimus, et ab eo et a successoribus eius per hanc divalem nostram et pragmaticum constitutum decernimus disponenda, atque iuri sanctae Romanae ecclesiae concedimus permansura.

[6.ゆえに、司教の長がその価値を減ずることなく、むしろ地上の帝国の輝かしい権威と力に勝るほど飾り立てられるよう、先に示したようにわれわれの宮殿やローマの都、イタリアの、もしくは西の地方全域、その土地と町とを、われらが世界の父であり最上の誉れたる教皇シルウェストルスに譲り渡し、われわれの威厳ある現実的な規定により、その者およびその後継者がその管理にあたること、そしてローマ教会法のもとに永続的に委ねられることとした。]

今回の箇所では、教皇の聖職者指名の権限、冠、そして教会法への領土の帰属が挙げられています。15世紀のヴァッラによる「文献批判的コメント」は、やはりこれらに対してもやはり辛辣で、冠のところについては、「純金と宝石」という部分をなんで一つにまとめないのかと述べ(p.118)。それに続く箇所では、なぜキリストその人ではなくペテロが教会の礎石であるかのような扱いなのかと言っています。さらに、冠を皇帝側が載せたといいながら、次に教皇側が拒んでいると書くのは矛盾で、皇帝側は拒まれたその冠を後継者にまで伝えるよう命じているとは愚の骨頂だ(singularem stultitiam)などとと述べてみたり、この「贋作者」の吐く言葉はことごとく常軌を逸している(Ita omnia verba plena insaniae evomit)(p.123)と断じます。なんだか揚げ足取りのようでもあり、やたらと攻撃的ですが、実はヴァッラは、教皇エウゲニス4世と戦っていたアルフォンソ5世のためにこの「演説」を書いていて、いわば反教皇のプロパガンダを仕掛けているわけです。余談ですが、手綱を取るくだりは、ヴァッラによるとモーセが馬に乗った兄アロンの手綱を取ることから来ているといいます。

次回は残りの7節と8節を見ていきます。



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