silva07

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>

no.7 2003/05/10


------クロスオーバー-------------------------------------

シーア派


いまだ混乱が報じられる戦争後のイラクですが、先月の下旬に放映されたイスラ
ム教シーア派の聖地カルバラへの巡礼の映像は強烈でした。自分の体を傷つけて
敬神を表すというものでしたが、これはヨーロッパ中世の鞭打ち苦行者にも通じ
るものがありますね。もちろん後者の方は、疫病が流行した14世紀ごろ、疫病
を罰とみる一団が互いを鞭打ちながら、街から街へと練り歩いたというものです
が、一般の司教たちはこれを快くは思っていなかったとされます。身体を傷つけ
るような極端な行動に出るのは、少数派特有の表現なのかもしれません。

基本事項をおさらいしておくと、イスラム教全体の中では1割を占めるにすぎな
いとされるシーア派は、預言者ムハンマドの後継者をめぐり、女婿のアリーを支
持する一団(シーア・アリー)として分離しました。アリーの霊廟があるナジャ
フ(イラン)や、アリーの子フセインが戦死したカルバラ(イラク)などが聖地
とされます。シーア派はまた、イマーム(指導者)を頂点とした宗教的ヒエラル
キーができているといいますが、流派も多く、歴史的にも様々に分裂を繰り返
し、中には過激な分派も現れました。

暗殺者のことを「アサシン」と言いますが、バーナード・ルイスの著書『アサシ
ン』によると、この語の語源は大麻利用者などを侮蔑する言葉(ハシーシーン)
で、シリアにいたイスマイール派の分派(ニザール派)のことを指すといいま
す。ヨーロッパ側の記録(十字軍の年代記など)では同派は長老の命令には絶対
服従だったとされ、命令遂行に向けた精神的高揚のために大麻を利用していたと
もいわれますが、ルイスによればこれは俗説の可能性が高いのだとか。イスマ
イール派は8世紀に、イスマイールを第7代イマームとして擁立した一派で、今
回のイラク戦争で有名になったバスラを拠点としていました。9世紀後半にブワ
イフ朝ペルシアがスンニ派からバグダッドを奪回した後は勢いにのり、10世紀
にかけてファティマ朝の後押しをうけて勢力を拡大しました。しかし12世紀に
なってセルジューク朝トルコが攻め入ってくると、一帯の政治的不安定化に乗じ
てスンニ派が巻き返し、シーア派は追いやられ、秘儀などを擁していたイスマ
イール派も体制迎合化していきます。イランでは後の16世紀に、サファビー朝
がこの派を国教に定めることになります。

○ Bernard Lewis, "The Assassins", Weidenfeld & Nicholson, 1967-2001
(仏訳:"Les Assassins", Editions complexe, 1984-2001)
(邦訳:『暗殺教団:イスラームの過激派』、加藤和秀訳、新泉社、1973)

------新刊情報--------------------------------------------

いくつか新刊情報が届いています。

○『ヨーロッパの形成:950年−1350年における征服、植民、文化変容』
 R. バートレット著、伊藤誓・磯山甚一 訳、法政大学出版局、
 ISBN4-588-00757-2 C1322

入植・侵略から描き出すヨーロッパの形成、ということで大変面白そうです。

○『ラブレーの宗教 16世紀における不信仰の問題』
 L. フェーヴル著、高橋薫訳、法政大学出版局
 ISBN4-588-00751-3 C1322

ご存じリュシアン・フェーブルの主著。心性史の古典だと言われています。

○『ヨーロッパ《普遍》文明の世界制覇:鉄砲と十字架』
 中川 洋一郎著、学文社
 ISBN4-7620-1244-0

内容紹介によると、農耕社会の定着から初期国家の成立、遊牧民の来襲などを
扱った論考のようです。

------文献講読シリーズ-----------------------------------

「シャルルマーニュの生涯」その3

今回は3章から5章です。前置きが終わり、いよいよシャルルの武勲へと話が
移っていきます。

この文章に登場する地名人名などの固有名詞の扱いですが、ラテン語読みに統一
しようかとも思ったのですが、それでは耳慣れないものが多くなってしまいま
す。そこで暫定的な措置として、一般的に用いられている名称がはっきりしてい
るものや確認が取れるものについてはそれを用い、それ以外はラテン語表記にも
とづく、という折衷案にしたいと思います。ちょっと奇異な感じになってしまい
ますが、ご了承ください。今後確認が取れれば、その都度変更していくことにし
ます。

            # # # # #

[3] Pippinus autem per auctoritatem Romani pontificis ex praefecto palatii
rex constitutus, cum per annos XV aut eo amplius Francis solus imperaret,
finito Aquitanico bello, quod contra Waifarium ducem Aquitaniae ab eo
susceptum per continuos novem annos gerebatur, apud Parisios morbo
aquae intercutis diem obiit, superstitibus liberis Karlo et Karlomanno, ad
quos successio regni divino nutu pervenerat. Franci siquidem facto
sollemniter generali conventu ambos sibi reges constituunt, ea conditione
praemissa, ut totum regni corpus ex aequo partirentur, et Karolus eam
partem, quam pater eorum Pippinus tenuerat, Karlomannus vero eam, cui
patruus eorum Karlomannus praeerat, regendi gratia susciperet. Susceptae
sunt utrimque conditiones, et pars regni divisi iuxta modum sibi propositum
ab utroque recepta est.

3.一方ピピンは、ローマ教皇の意向により、上述の宮廷から王になり、15年
あまり単独でフランク族を統治し、アキテーヌのワイファリウス公を相手に不断
に9年間続けた戦を終わらせた。皮膚に水がたまる病気で、パリで没した。後に
はシャルルとカルロマンという子どもたちが残り、神の意向により彼らが王国を
継承することとなっていた。フランク族は厳粛に国民会議を開き、両者を王とし
たが、あらかじめ示された条件は、王国全体を等分に分け、シャルルが父ピピン
の支配していた部分を、そしてカルロマンが伯父カルロマン(ピピンの兄)の分
を統治するというものだった。どちらも条件を飲み、王国は提案どおりに等分さ
れ、それぞれが受け取った。

Mansitque ista, quamvis cum summa difficultate, concordia, multis ex
parte Karlomanni societatem separare molientibus, adeo ut quidam eos
etiam bello committere sint meditati. Sed in hoc plus suspecti quam periculi
fuisse ipse rerum exitus adprobavit, cum defuncto Karlomanno uxor eius et
filii cum quibusdam, qui ex optimatum eius numero primores erant, Italiam
fuga petiit et nullis existentibus causis, spreto mariti fratre, sub Desiderii
regis Langobardorum patrocinium se cum liberis suis contulit. Et
Karlomannus quidem post administratum communiter biennio regnum
morbo decessit; Karolus autem fratre defuncto consensu omnium
Francorum rex constituitur.

この取り決めが続く間、大きな問題もあった。カルロマンの地域の多くの者が同
盟から離脱しようと試み、そのうちのある者は戦を行うことすら考えるに至っ
た。だが、危機というよりも懐疑が勝っていたことが、事の成り行きから見てと
れる。カルロマンが亡くなると、その妻と子どもたちは、貴族のうちの最高位の
人々とともにイタリアへの逃亡を図り、特に理由もなかったものの、夫の兄を忌
み嫌い、自分と子どもたちをランゴバルドのディディエ王の庇護の下に置いた。
カルロマンはちょうど2年間協同統治を行った後に病気で亡くなった。一方の
シャルルは、弟が亡くなって、フランク族の全会一致の同意を得て王となった。

[4] De cuius nativitate atque infantia vel etiam pueritia quia neque scriptis
usquam aliquid declaratum est, neque quisquam modo superesse invenitur,
qui horum se dicat habere notitiam, scribere ineptum iudicans ad actus et
mores ceterasque vitae illius partes explicandas ac demonstrandas, omissis
incognitis, transire disposui; ita tamen, ut, primo res gestas et domi et foris,
deinde mores et studia eius, tum de regni administratione et fine narrando,
nihil de his quae cognitu vel digna vel necessaria sunt praetermittam.

4.彼の生まれ、幼少の頃、子ども時代については、どこかで明らかになってい
るわけでもなく、また、それを知っているという人も存命してはいないことか
ら、それについて記すのは無用だと判断し、また、人生の別の時期の行動や美徳
について説明したり明示したりすべきだと判断し、知られざる部分として割愛し
た。とはいえ、ここではまず内外での功績、次に美徳や趣味、さらに王国の統治
と最期について語ることとし、知られていること、しかるべきこと、必要なこと
は、いっさい省略しないことにする。

[5] Omnium bellorum, quae gessit, primo Aquitanicum, a patre inchoatum,
sed nondum finitum, quia cito peragi posse videbatur, fratre adhuc vivo,
etiam et auxilium ferre rogato, suscepit. Et licet eum frater promisso
frustrasset auxilio, susceptam expeditionem strenuissime exsecutus non
prius incepto desistere aut semel suscepto labori cedere voluit, quam hoc,
quod efficere moliebatur, perseverantia quadam ac iugitate perfecto fine
concluderet. Nam et Hunoldum, qui post Waifarii mortem Aquitaniam
occupare bellumque iam poene peractum reparare temptaverat,
Aquitaniam relinquere et Wasconiam petere coegit. Quem tamen ibi
consistere non sustinens, transmisso amne Garonna et aedificato castro
Frontiaco, Lupo Wasconum duci per legatos mandat, ut perfugam reddat;
quod ni festinato faciat, bello se eum expostulaturum. Sed Lupus saniori
usus consilio non solum Hunoldum reddidit, sed etiam se ipsum cum
provincia cui praeerat eius potestati permisit.

5.彼が行った戦争のうち、第一のものはアキテーヌの戦いだった。父親が始め
た戦だったが、まだ終わっていなかったのだ。こう述べているのは、すぐに終わ
るだろうと思われていたからだ。兄がまだ存命中であり、その助けを求めて戦を
企てたのだった。兄は約束の支援を果たさなかったのだが、企てた遠征は実に果
敢に実行に移された。当初の企てを止めようともせず、一度始めたことは譲ろう
ともせず、ねばり強さと固い意志によって押し進められたその戦は、こうしてつ
いに完遂した。かくして、ワイファリウスの死後にアキテーヌを手中に収め、終
わりかけていた戦の再燃を試みていたフノルドに、アキテーヌを手放させ、また
ガスコーニュへの逃亡を強いた。だが、そこでとどまることをよしとせず、ガロ
ンヌ川を渡りフロンティアクス城を建て、ガスコーニュのルプス公に使者を遣わ
して脱走兵を帰すよう求めた。すぐに行わなければ、戦争で要求を果たすとして
いた。だが、ルプスはさらに賢明な判断を下し、フノルドを返しただけでなく、
自分自身ならびに自分のところにあった属領を、シャルルの権勢の下に捧げた。

            # # # # #


ピピン没後のシャルルとカルロマンの間にどういういきさつがあったのか語られ
てはいませんが、戦での支援をカルロマンが果たしていないことや、その妻子が
シャルルをこころよく思っていないことから、かなり確執があったことが想像で
きそうです。もめ事の種になる分割統治的な遺産相続ですが、これはカペー朝が
世襲化の制度を整備するまで続くようです。北フランスにローマ法の影響が浸透
するのもそのあたりですね。さて、父ピピンが手を焼いたフランス南西部アキ
テーヌですが、この地はローマ文明の影響が色濃く残っていた地域で、北フラン
スとは社会構造的にも異なっていただけでに、統治はさぞかし難しかったので
しょう。なんだか、つい時節がら、イラクの統治問題などを思ってしまいます…
…。次回は6〜7章を見ていく予定です。

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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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