silva08

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.8 2003/05/24

------書評コーナー---------------------------------------------
不可解なテクストへのアプローチ

中世の時間表象というのはなかなか興味深い問題です。これを政治史との絡みで
見ていくというのが『時間の民族史』(瀬戸一夫著、勁草書房、2003)です。
教会と王権との結びつきをフランク王国からたどる第一部、教会改革と皇帝戴冠
を扱う第二部、イングランドの教会改革をカンタベリー大司教の論争から見てい
く第三部から構成されており、政治史と神学との微妙な関係がくっきりと浮かび
上がってくるのが実にスリリングです。

同書の中心的テーマは、表題に示される通り、中世における「時間」の扱いで
す。封建時代の封の扱いが、家臣としての職務遂行の経済的保証から職禄、つま
りは利権になり下がり(未来の保証として)、一方で、教会側の「過去による現
在の正統化」がそこに結びついてくると、神学的な問題として時間の収奪の整合
性を図ろうとするようになる、というのが基本線で、それをめぐって様々な論争
が出てくるわけですが、同書の主人公はなんといっても第三部のカンタベリー大
司教ランフランクスです。

このランフランクス、現代的な感覚からするときわめて「アクロバティック」な
論理で様々な相手(フンベルトス、ベレンガリウス、グーラム司教サン・カレな
ど)をなぎ倒していくように見えるのですが、実はその論理は精妙に組み立てら
れた政治的ディスクールでもあった、ということなのです。それを理解するに
は、どうしても当時の神学が前提としていた思想まで降りて行かなくてはなりま
せん。「時間」の問題はここに関わってきます。ランフランクスの一見無茶とも
言える理屈が、当時は普通だった「永遠の現在」「神の永遠の意志」「その都度
の無からの創造」を背景にすると、突然見事にフィットした議論になってくるこ
とがわかります。しかもそれは高度に政治的な思惑を孕んでいるため、なおさら
その凄さが際立ちます。このような、神学的ディスクールを政治との関連で読む
という試みはもっと数多くなされていいのでは、と思ってしまいます。

また、余談ですが、もう一つ注目される点があります。この著者の前作(?)
『時間の政治史』(岩波書店)では、当時の神学をめぐる問題を理解しようとす
る時、現代の貨幣に対する私たちの理解から類推すると腑に落ちることが多々あ
る、ということが比喩的(メタフォリック)に語られていたように思います。今
回の同書では、神学的なものと貨幣的なものとの類縁性が、こういってよければ
より相同的(ホモロジック)に触れられています。この神と貨幣という問題も、
なかなか興味は尽きません。

○『時間の民族史ーー教会改革とノルマン征服の神学』
 瀬戸一夫著、勁草書房、2003
 ISBN 4-326-101430-1

○『時間の政治史ーーグレゴリウス改革の神学・政治論争』
 瀬戸一夫著、岩波書店、2001
 ISBN 4-00-023356-4

------新刊情報--------------------------------------------------
新書と文庫の情報が届いています。

○『新書ヨーロッパ史』
 堀越孝一編、講談社現代新書1664
 ISBN 4-06-149664-0

コンパクトながら興味深そうな一冊です。5人の著者による中世通史という感
じ。

○『王の二つの身体』(上・下)
 エルンスト・H・カントーロヴィチ著、小林公訳、ちくま学芸文庫
 ISBN 4-480-08764-8
 ISBN 4-480-09765-6

文庫本二分冊でもこの厚さ(笑)。「王権シンボリズムの解剖学」という帯が刺
激的ですね。

------文献講読シリーズ-----------------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その4

今回は6章から7章の途中までです。6章ではランゴバルドとの戦い、7章では
ザクセンとの戦いが取り上げられています。

          # # # # #
[6] Conpositis in Aquitania rebus eoque bello finito, regni quoque socio iam
rebus humanis exempto, rogatu et precibus Hadriani Romanae urbis
episcopi exoratus bellum contra Langobardos suscepit. Quod prius quidem
et a patre eius, Stephano papa supplicante, cum magna difficultate
susceptum est; quia quidam e primoribus Francorum, cum quibus
consultare solebat, adeo voluntati eius renisi sunt, ut se regem deserturos
domumque redituros libera voce proclamarent. Susceptum tamen est tunc
contra Haistulfum regem et celerrime conpletum.

6.アキテーヌの情勢が落ち着き、戦も終わると、王位を分かち合っていた者は
(カルロマン)この世を去り、シャルルはローマの教皇ハドリアヌスの求めと懇
願に応じて、ランゴバルドとの戦を引き受けた。これは以前、彼の父が教皇ステ
ファヌスの懇願を受け、始めた戦と同じだったが、その際には大きな問題もあっ
た。いつも相談に乗っていたフランク族の高官たちの中には、父ピピンの意向に
反対する者もおり、「ならば王宮を去り、任を解いて帰る」と声を荒げるほど
だったからだ。とはいうものの、アイストゥルフム王との戦いは始まり、ほどな
く終わった。

Sed licet sibi et patri belli suscipiendi similis ac potius eadem causa subesse
videretur, haud simili tamen et labore certatum et fine constat esse
conpletum. Pippinus siquidem Haistulfum regem paucorum dierum
obsidione apud Ticenum conpulit et obsides dare et erepta Romanis oppida
atque castella restituere atque, ut reddita non repeterentur, sacramento
fidem facere; Karolus vero post inchoatum a se bellum non prius destitit,
quam et Desiderium regem, quem longa obsidione fatigaverat, in
deditionem susciperet, filium eius Adalgisum, in quem spes omnium
inclinatae videbantur, non solum regno, sed etiam Italia excedere
conpelleret, omnia Romanis erepta restitueret, Hruodgausum Foroiuliani
ducatus praefectum res novas molientem opprimeret totamque Italiam
suae ditioni subiugaret subactaeque filium suum Pippinum regem inponeret.


だがシャルルの戦いは、その父の戦と大義こそ同じだったものの、戦いの労苦や
最終的な決着はまったく異なった。ピピンの場合、アイストゥルフス王を数日間
ティキヌム(パヴィア)の包囲で攻め、捕虜を解放させ、奪った城塞ならびに砦
をローマに返還させ、また、報復を繰り返さないよう誓約させた。シャルルの場
合、みずから戦を始めた後、それを終わらせたのは、兵糧責めで疲弊させたデシ
デリウス王が降伏し、すべての望みを委ねられたその息子アダルギススが、王国
からだけでなくイタリアそのものから去り、奪ったものをローマに返還させ、新
たな蜂起を押し進めていたフォロイウリアヌス公国の長官ルオドガウススを制圧
し、イタリア全土を自分の支配下に起き、自分の息子ピピンを王にしてからだっ
た。

Italiam intranti quam difficilis Alpium transitus fuerit, quantoque Francorum
labore invia montium iuga et eminentes in caelum scopuli atque asperae
cautes superatae sint, hoc loco describerem, nisi vitae illius modum potius
quam bellorum, quae gessit, eventus memoriae mandare praesenti opere
animo esset propositum. Finis tamen huius belli fuit subacta Italia et rex
Desiderius perpetuo exilio deportatus et filius eius Adalgisus Italia pulsus et
res a Langobardorum regibus ereptae Hadriano Romanae ecclesiae rectori
restitutae.

イタリアに入るには辛いアルプス越えがあった。フランク族は道なき山や空にそ
びえる絶壁、切り立った岩を、いかほどかの辛苦でもって乗り越えたことだろ
う。もし彼が行った戦よりも、彼がどのような生涯を送ったかを、この著作に
よって記憶に委ねることを心に決めていたのでなかったなら、私はここでその様
子を克明に記していたところだ。いずれにしてもかくしてこの戦は終わり、イタ
リアは支配下に入り、デシデリウス王は永久追放、息子のアダルギススはイタリ
アから追放となり、ランゴバルド王国から奪ったものはすべてローマ教皇ハドリ
アヌスに返した。

[7] Post cuius finem Saxonicum, quod quasi intermissum videbatur,
repetitum est. Quo nullum neque prolixius neque atrocius Francorumque
populo laboriosius susceptum est; quia Saxones, sicut omnes fere
Germaniam incolentes nationes, et natura feroces et cultui daemonum
dediti nostraeque religioni contrarii neque divina neque humana iura vel
polluere vel transgredi inhonestum arbitrabantur. Suberant et causae, quae
cotidie pacem conturbare poterant, termini videlicet nostri et illorum poene
ubique in plano contigui, praeter pauca loca, in quibus vel silvae maiores vel
montium iuga interiecta utrorumque agros certo limite disterminant, in
quibus caedes et rapinae et incendia vicissim fieri non cessabant. Quibus
adeo Franci sunt irritati, ut non iam vicissitudinem reddere, sed apertum
contra eos bellum suscipere dignum iudicarent. Susceptum est igitur
adversus eos bellum, quod magna utrimque animositate, tamen maiore
Saxonum quam Francorum damno, per continuos triginta tres annos
gerebatur.

7.これが終わった後、ほぼ中断状態にあったザクセンとの戦いが再開された。
フランク族が、これ以上に長く、熾烈で、苦労した戦いはなかった。というのも
ザクセン人は、ゲルマニアに住むすべての部族とほぼ同じように、性格が狂暴
で、悪魔を信奉し、私たちの宗教に敵対し、神の法についても人の法について
も、それを汚したり、それに違反したりすることを不名誉とは考えていなかった
からだ。日々平和を乱しうるような要因もあった。大きな森や山があって両者の
地所が確実に分かれるわずかな場所を除き、私たちと彼らの境界線は、平地のほ
ぼいたるところで接していて、互いに流血沙汰や強奪、放火が後を絶たなかっ
た。それゆえ、フランク族は憤懣やる方なく、もはや互いに報復するにとどまら
ず、彼らと戦を交えることが妥当であるとの判断を下した。こうして彼らに対す
る戦が始まり、それは三三年間続いた。双方激しい応酬が交わされたが、フラン
ク人よりもザクセン人の方が被害は大きかった。
          # # # # #

14世紀前半にサン・ヴィクトルのジャン(ヨアンヌス)が記した『王国分割
論』という民族史によれば、ランゴバルド族はもともとはスカンジナビア方面か
ら来たスキタイ系なのだといいます。その呼称の由来は「長い髭」(longa
barba)だとされています。なんでも、女性も武装し、男性であると敵に信じさ
せるために髭を人為的にあごに付けていたのだとか。人口増により南下を始め、
数多くの民族と戦い、後にゴトランド(スウェーデン南部)でアゲルムンドゥス
(ラテン名)が最初に王になりました。シャルルマーニュが打ち破ったアダルギ
ススは第26代の王だとされています(以上、真偽は不明ですが……)。

シャルルマーニュの父ピピンが戦ったアイストゥルフス王というのは、ランゴバ
ルド王国最盛期の王で(在位749〜756)、ビザンティン領だったラヴェンナを
も併合していました(このラヴェンナは、本来はビザンティン領だったのです
が、ピピンが奪回して教皇に寄進しました(756年))。次のデジデリウス王
(在位756〜774)はイタリア全土の制覇を目指し、ここで教皇に要請されて
(口実?)、シャルルマーニュが介入するという次第です(773〜774)。イタ
リアでは当時、風習も人名などの言葉もゲルマン化していたといいますから、ラ
ンゴバルドの影響力たるや凄まじいものがあったのでしょう。7世紀ごろにはカ
トリックに改宗していたとされますが、おそらくそうした異質な風習の広がり
を、このテクストでアインハルトは異教的に表現しているのでしょう。

次回はザクセンとの戦いの話(7章の残りと8章)です。

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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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